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婚約破棄された悪役令嬢、田舎でスローライフ満喫します  作者: 妙原奇天


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第4話 紅茶と子どもたち

 夜の見回りは、思っていたより静かに始まり、思っていたより忙しく終わった。

 谷の外れに差しかかると、畑の端で黒い影がもぞりと動き、息の荒い音が草の間を転がった。野豚だ。昨日より小ぶりだが、二頭。若い。食い荒らした跡がまだ浅いのに、匂いを覚えて戻ってくるのだろう。


「手前を俺が受ける。奥を頼む」


 隣の若者――カイと名乗った――が短く言い、松明の灯を低く構えた。

 わたくしは紐と鈴を指に絡め、小袋を裂いて土に擦りつける。辛い香りが風に乗る。片方が鼻を鳴らし、向きを変えた瞬間、わたくしは松明の火を地面に伏せて影を大きく見せた。

 若い獣は迷い、足をとられて段々畑を駆け降りる。もう一頭は、カイが腰で受け止めるように横へ跳ね、剣の腹で頭をはたいた。

 火の粉が少し舞い、草の匂いが焦げの匂いに変わった。わたくしは息を整え、耳の奥でゆっくりと拍を刻む。二拍、三拍。

 やがて、獣の足音は谷の外へと薄れていった。


「お見事だな、先生」


 カイが肩で笑い、汗の光る額を袖で拭った。

 先生――この二文字は、まだくすぐったい。けれど、今夜のように誰かと肩を並べて働いたあとに言われると、袖の中まで温かくなる。


「剣の“腹”で殴るのは、王都では褒められないのよ」

「ここでは褒める。刃は、命を奪うためだけにあるわけじゃない」


 短く交わし、松明の火を絞る。

 見回りを終えて家へ戻ると、扉のきしみは昨夜より少しだけ短く鳴って、すぐに黙った。油を差したからだ。

 わたくしは膝を突き、今日の“六つ”を確かめる。朝は畑、昼は台所、夜は本。剣は週に二度。お茶は日に一度、誰かと飲む。礼儀は子どもに教える。そして――怒りを持ち歩かない。

 最後の一行に指を置く。静かに息を吐き、指を離した。


 眠りは浅く、しかし澄んでいた。夜半にふと目を覚ましても、胸の底が重く沈むあの感じは戻ってこなかった。


 ***


 翌朝。

 家の前に、子どもが三人、親が二人。なぜかトマまでが腕を組んで待っていた。

 ロイが跳ねるように駆け寄ってくる。


「エレナ、今日“茶会の授業”やるって言ってた!」

「言った覚えは……あるわね。ええ、やりましょう」


 わたくしは笑って扉を開け、庭に即席の長机を出した。板を二枚、木箱に渡して固定し、布をかける。

 ハーブの苗をいくつか鉢に移し、種類別に並べる。ミント、レモンバーム、カモミール、タイム。香りが庭の空気を優しく満たした。

 井戸で水を汲み、やかんに移す。今日は火を使う。小さなかまどに薪をくべ、炎が青から黄へ、ゆっくりと表情を変えるのを見届ける。


「まずは、茶葉じゃなくて“水”の話から。お湯を沸かす音をよく聴いて。今は“風の音”。次に“鳥の音”。最後に“蛇の音”。蛇が顔を出したら、火を弱めて」


 子どもたちが目を丸くする。

 火の音は、やかんの底で小さな泡がひそひそ言い始め、やがて連なる。音は確かに、耳の中で名前を変えた。


「次。杯を持つ時は、相手に“どうぞ”。それから、香りは鼻だけでなく、喉で聴く。飲む前に一拍、喉で吸って。――はい、やってみましょう」


 小さな手が、おそるおそる杯を受け取る。

 親たちは少し離れて見ていたが、やがて近寄ってきた。わたくしは手つきをゆっくりと見せ、子どもでも再現できるように段を刻んで言葉を置く。

 作法は人を縛る縄ではなく、心地よさを分ける器にすぎない――王都で学びながら最も言葉にしづらかった真実を、今は平らな声で言えた。


「“どうぞ”」

「“ありがとう”」

「上手よ。ロイ、肩の力を抜いて」


 笑いが広がる。

 カップに浮いたカモミールの黄色が、朝の光の粒に溶けていく。

 トマが鼻を鳴らした。


「こりゃ商売上がったりだ。人が茶を売りに行く前から、ここで香りを配られちゃ、谷じゅう寄ってくる」

「来た人には必ず“自分の庭から葉を一枚”持ってきてもらうの。交換よ」

「なるほど。流通の始まりだ」


 子どもたちが葉の匂いを言葉にし始める。「元気の匂い」「日向の匂い」「朝ごはんの匂い」。

 言葉は正解を求めていない。感じた順に並べるだけで、場が温かくなる。

 そのとき、庭の柵の外から、乾いた声が落ちた。


「――外の作法を、うちの子に入れるのか」


 振り向くと、肩幅の広い男が立っていた。村の評議に顔を出すと聞くゲオルグだ。子どもの一人の父親でもある。

 彼は手を組み、顎で机を示した。


「ここで暮らすなら、ここで覚えた通りにやりゃいい。王都の真似事はいらん」

「真似事ではありません。谷の水で沸かし、谷の葉で淹れ、谷の人に渡す。わたくしは、その“渡し方”を整えているだけです」


 わたくしは視線を下げず、声を上げずに言った。

 ゲオルグは鼻で笑い、踏み込んでくるかと思われたが、思いのほか足を止めた。

 その時、家の影から咳が聞こえた。低く、長い、湿った響き。老婆――ロイの祖母が咳き込んでいる。


「婆ちゃん!」


 ロイが駆け寄る。ゲオルグの視線がそちらへ滑り、わたくしも腰を上げた。

 老婆の背を軽くさすり、肩甲骨の内側を温めるように手のひらで圧をかける。火のそばに椅子を移し、首に布を掛け、湯気の上がるやかんの口を少し開けて吸入の位置を作る。


「肩を落として、口で吸って、鼻で出す。無理はしないで。――ロイ、手ぬぐいを湿らせて。ゲオルグさん、薪を少し足して、火は弱く」


 指示は短く。客としてではなく、家族として動いてもらう。

 湯気に含ませたのはタイムを砕いたものをひとつまみ。強すぎない。喉を刺激し過ぎない。

 老婆の呼吸が、徐々に深さを取り戻す。最後に、レモンバームを薄くした水を少量。口を湿らす程度。

 咳が落ち着くと、彼女は掠れた声で笑った。


「……あったけえ」

「谷のやり方に合わせています。どこにも“王都の真似事”は持ち込んでいません」


 わたくしが静かに言うと、ゲオルグは大きな喉仏を一度上下させ、ぽりぽりと頭をかいた。

 そして、気まずそうに薪を二本、きれいに揃えて積み直した。


「……ならいい。うちのガキが、よく働くようになる“作法”なら、歓迎だ」

「“どうぞ”を言えれば、“手伝わせてください”も言えるようになります」


 彼は口元だけで笑い、踵を返した。

 庭に風が通る。張っていた糸が一筋ほどけ、空が広がる。子どもたちの目がわたくしへ戻ってきた時、そこにほんの少し、尊敬の色が混ざっていた。


 ***


 午前の“茶会”は、最後に小さな遊びを加えて終えた。

 名付けて“香り当番”。一週間、順番に誰かが自分の家の葉を一種類持ってきて、それで皆に一杯を渡す。渡す時には、短い“言葉の礼”を一緒に。

 ロイが最初の当番を買って出た。「蜜の匂いのやつ、持ってくる!」

 それはきっと、彼が前に言っていた蜂蜜の祭りの記憶に繋がる。匂いは記憶の扉だ。扉を子どもたち自身に開けてもらう。


 昼。

 鍬で耕した三列の畝に、昨日よりも乾いた風が通る。ミントの影が短くなり、レタスの双葉が土から覗いた。

 パンを薄く切り、端を焼き、庭のハーブを刻んで油に混ぜたものを塗る。台所のこの匂いには、王都も谷もない。ただ“昼”がある。

 そこへ、トマが鼻歌に混じって唇の隙間から笛のような音を出しながら入ってきた。


「郵便だ。王都の印だぞ、エレナ」

 手渡された封書は、見慣れた赤い蝋に王家の紋が押されている。胸の奥に、冷たい小石がひとつ落ちたような感覚。怒りではない。警戒でもない。ただ、過去の温度差だ。

 開くと、古式の文言で短く告げてある。

 “居住地変更の届け出が出ていない。至急、王都の役所に申請せよ。なお、元婚約関係に関する聴取の予定がある。”


「……来たわね」


 声が細く笑う。

 トマが肩をすくめた。「だいたい、こういうのは来る。行かねえと罰金。行っても時間を取られる。俺なら“ここで受けられるやり方”を探すがね」

「ここで、受けられる?」

「隣国との境が近いだろ。移民や行商の書類は、谷の集会所で代行できることがある。午後、村長のところに案内する」


「助かるわ、トマ」

「秋に茶を一杯、忘れなきゃな」


 条件はいつもささやかなのに、彼の仕事はいつも大きい。

 封書を畳んで机に置く。心臓の鼓動は乱れていない。怒りを持ち歩かない――六番目の行は、今日も守れる。


 午後。

 集会所は木陰の涼しい風がよく通る建物で、壁に谷の地図がかけてあった。段々畑には名前が振られ、用水路の分岐に色が付けてある。

 村長と書記が座っていて、トマが紹介してくれた。


「王都からの代行申請だってさ。お役所言葉を谷の言葉に訳す係」

 書記は細い目を笑い皺で閉じ、羊皮紙を数枚広げる。

「名前、生まれ月、前の住所。ここでの職は?」

「職――」

「“紅茶と畑”。で、いいよな」

 トマが言い、村長が頷く。「“作法の先生”も付けとこう」

 羽根ペンがさらさらと滑り、書類が谷の空気を吸って軽くなる。王都で書かれると重石になる行が、ここでは生活の項目に変わる。


 手続きは思いのほかすんなり終わった。

「聴取は?」と問うと、書記は肩をすくめる。「ここで受けられるように回すよ。王都は自分の都合で呼ぶが、ここは暮らしの都合で受けるんだ」


 わたくしは礼を言い、庭で待っていたロイと合流した。

 帰り道、谷の西の空がわずかにどんよりしている。風が変わる前触れ。夜の見回りは、昨日より骨が折れるかもしれない。


 ***


 日暮れ。

 “香り当番”の初日を祝う小さな会を庭で開いた。ロイが持ってきたのは、黄色い小さな花。蜜の匂いが濃い。

「これ、なんて名前?」

「クリーピングタイム。背が低くて、踏んでも強いの。道の縁に植えると、歩くたびにいい匂いがするのよ」


 子どもたちが庭の端にしゃがみ込み、指先で小さな葉を撫でる。

 ゲオルグの影が柵の外を通り、足を止めずに帽子を軽く掲げた。わたくしも小さく会釈を返す。

 カイが遅れて現れ、剣を壁に立てかけた。「西の空が悪い。今夜は列を厚くする」

「分かったわ。香り袋は多めに用意しておく」


 子どもたちを家へ帰し、庭を片づける。

 風が湿り、土の匂いが深くなる。どこかで雷鳴が転がった。

 わたくしは壺の蓋を点検し、扉の閂を油で拭き、松明を二本新しく巻いた。


 その時だった。

 谷の入り口で、馬のいななきが短く鋭く上がり、蹄の音が石を打った。

 振り返ると、紺色の外套に金の縁取り。王都の近衛に似た紋章。二騎。雨粒を連れている。

 先頭の男は馬上で短く礼をし、冷たい声音で告げた。


「――王命により、エレナ・グランディール殿をお迎えに上がった」


 庭の空気が、ほんのわずかに凍る。

 トマが物陰で口笛を喉に押し戻し、カイが剣から手を離さず、しかし抜きはしない距離に立った。

 わたくしは一歩、前へ。

 庭のハーブが風に鳴り、台所のポットが内側で小さく鳴る。怒りは――持ち歩かない。だが、譲るべき線もある。


「ここは谷です。王都ではありません。――お茶を一杯、どうぞ。それからお話を」


 男の眉がわずかに動いた。

 雨粒が土に落ち、最初の匂いが立つ。

 第二の人生は、ほんとうに忙しい。だが、忙しさの中心に、いま確かに一杯の“どうぞ”がある。


 彼らが鞍から降りた時、雷鳴が遠くで鳴り、谷の灯が一つ、また一つとともった。


(※次回:第5話「初めての魔獣退治――そして“王命”の来訪」へ続く)

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