第19話 炎上する都――谷からの風
夜の王都に、不意の轟音が響いた。
窓を開けると、遠くの市壁に炎が上がっている。赤い舌が屋根を舐め、黒煙が夜空を覆っていく。
人々の悲鳴と馬の嘶きが混じり合い、都は一瞬にして混乱の渦に落ちた。
「火事だ!」
「倉庫街が燃えている!」
「水を! 水を持ってこい!」
路地から路地へと人が走り、広場にまで恐怖が溢れた。
――貴族派が動いたのだ。象徴を失った混乱を利用し、秩序そのものを炎で呑み込もうとしていた。
宿を飛び出すと、ライナーが剣を抜いて駆け寄ってきた。
「先生! 市壁の向こうから武装した連中が火を放っています!」
カイが冷静に周囲を見渡す。
「消火よりも、逃げ惑う人々を導く方が先だ。道を塞げば、もっと死者が出る」
わたくしは頷き、懐から札の束を取り出した。
炎の中でも、秩序を渡すために。
「――どうぞ、市門へ! どうぞ、川沿いへ!」
札を掲げながら声を張ると、人々は一瞬戸惑い、次いで列を作り始めた。
“どうぞ”の一言が、混乱を細い流れに変えていく。
トマは即座に商人仲間を集め、水桶の連鎖を作り上げた。
「どうぞ!」
「ありがとう!」
桶から桶へ、声と水が渡され、炎の一部が抑えられる。
ゲオルグは斧を振るい、崩れそうな梁を打ち落として道を確保した。
「倒れる前に切る! 礼は先回りだ!」
その言葉に若者たちが続き、火の進路を塞いだ。
混乱の中でも、“どうぞ”の作法が生きていた。
しかし炎は広がり、貴族派の影が群衆の中に紛れて挑発を繰り返す。
「悪役令嬢が火を呼んだ!」
「谷の作法など偽物だ!」
群衆の視線が揺れる。
わたくしは胸の奥で、谷の夜を思い出した。
卵殻を撒き、火を順番に渡した日々を。
「火は敵ではありません。――どうぞ、守るために受け取ってください!」
その声に、子どもが勇気を振り絞って桶を掲げた。
「どうぞ!」
老人が受け取り、「ありがとう!」と返す。
火よりも強い連鎖が、広場を満たしていった。
やがて夜明け前、炎は次第に収まった。
瓦礫は残ったが、街の大半は守られた。
人々は疲れ果てながらも、互いに「ありがとう」を交わし続けていた。
ファルクが現れ、炎の跡を見渡す。
「……秩序を守ったのは監視ではなく、作法だったか」
彼は札を一枚拾い上げ、低く呟いた。
「監察院はこの火を記録に残す。“どうぞ”が人を救った、と」
夜が明ける頃、谷からの使者が到着した。
彼らは風を纏い、袋に詰めた乾いた草木を抱えていた。
「谷の風は煙を流す。――どうぞ」
袋を焚き火に投げ込むと、香草の匂いが立ち上り、残る煙を押し流していった。
谷と都を繋ぐ風が、炎の後に新しい空気を運んできた。
帳面を開き、煤けた指で新しい一行を記す。
二十一、炎は“どうぞ”で渡す。受けるのは勇気、返すのは命。
都はまだ揺れている。
だが火を越えた人々の目には、昨日までにはなかった強さが宿っていた。
(※次回:第20話「再生の誓い――都と谷を繋ぐ道」へ続く)




