第17話 陰謀の深層――監察院の選択
夜更けの王都は、灯火の下に陰をいくつも孕んでいた。
広場での「どうぞ市場」が予想外の支持を得た翌晩、わたくしは監察院の館へ呼び出された。
厚い石壁に囲まれた建物の中、冷たい灯りがゆらめく廊下を進むと、奥の間でファルクが待っていた。
「――お前の札一枚が、聖女の再演を凌駕した」
彼の声には驚きと苛立ちが交じっていた。
「だが、象徴を失った王都は危うい。監察院は選ばねばならん。“どうぞ”を秩序として認めるか、あるいは旧き象徴を支えるか」
長机の上には二つの文書が置かれていた。
一つは「聖女の再演」を公式に支持する通達。
もう一つは「どうぞ市場」を新しい秩序の模範とする報告書。
どちらにもまだ署名はなく、ペン先だけが光っていた。
「……あなたはどちらを選ぶつもりなのですか?」
問いかけると、ファルクは短く笑った。
「監察院は選択のために存在する。だが今回は容易ではない。
聖女を失えば、王の権威は揺らぐ。だが“どうぞ”を認めれば、秩序の形が変わり、監察の意味すら薄れる」
その時、窓の外でざわめきが起きた。
館の前に群衆が集まり、声を上げていた。
「悪役令嬢ではない! 先生だ!」
「どうぞの札を返せ!」
「秩序は順番だ!」
広場で芽吹いた言葉が、夜の街に広がっていたのだ。
ファルクの目が鋭く細められる。
「……群衆が動くとは想定外だ」
イザベルが机の端から口を開いた。
彼女は密かに会合に招かれていたらしい。
「人々は“顔を持つ秩序”を望んでいない。仮面より、声を交わす市場を選んだのよ。
監察院がどちらを選ぶかで、都の未来は決まる」
ファルクは黙し、ペンを手に取る。
けれど筆先は通達の上で止まり、動かない。
沈黙を破ったのは、ロイの幼い声だった。
いつの間にか館に忍び込んでいたらしく、扉の隙間から顔を覗かせていた。
「先生、これ、どうぞ」
小さな手に握られていたのは、札。
谷で配ったのと同じ、数字と“どうぞ”だけの紙切れ。
群衆の叫びよりも、その一言が重かった。
ファルクは長い沈黙の末、ゆっくりと札を受け取った。
「……ありがとう」
その言葉は、彼にとって初めての“返礼”だった。
そして報告書の方へ筆を走らせる。
「監察院は“どうぞ市場”を秩序の模範として認める」
墨の音が静かに響いた。
だがイザベルは表情を曇らせた。
「……簡単には終わらないわ。聖女を支えてきた貴族派は、必ず反発する。
彼らは“どうぞ”を嘲り、再びあなたを悪役に戻そうとするでしょう」
ファルクも頷く。
「陰謀の根は深い。選択はしたが、これからが本当の試練だ」
夜。
宿へ戻り、帳面を開いた。
十九、選択は終わりではない。“どうぞ”を守る選択を続ける。
窓の外では群衆がまだ歌っていた。
「どうぞ」「ありがとう」を交互に響かせながら。
その声が、王都の石壁を震わせていた。
(※次回:第18話「貴族派の逆襲――再び仮面を」へ続く)




