第14話 都への旅立ち――再び悪役の仮面?
夜明け前の谷は、まだ霧に覆われていた。
鳥の声さえ聞こえず、ただ井戸から汲み上げた水の音が静かに響く。
わたくしは庭に立ち、帳面を閉じた。これまで書きつけた十五の行が、薄明かりのなかで黒い筋となって並んでいる。
一、朝は畑、昼は台所、夜は本。
……十五、祈りの崩れをどうぞ受ける。怒りではなく、繋ぎに。
今日からは十六行目を書く旅になるだろう。
集会所には既に人々が集まっていた。
ゲオルグは薪を背負い、カイは剣を背に立っている。ライナーは緊張した面持ちで、鍬と剣の両方を抱えていた。
トマは荷馬の背に干し肉や布を括りつけながら、口笛を鳴らしている。
「谷を空けるのは不安だが……先生の決意なら、俺たちは守る」
ゲオルグが低く言い、村人たちも頷いた。
「でも忘れないで。私は“谷の客”として都に行くだけ。家主は皆さんです」
その言葉に、子どもたちが「どうぞ!」と声を揃えた。
胸の奥に灯がともる。
出立の準備を終え、石橋を渡る。
国境の川は朝日を受けて金色に光り、両岸の緑が揺れていた。
橋の中央で、イザベルが待っていた。葡萄酒色の外套は旅の塵を少し纏っている。
「やっぱり来たのね」
「谷を離れるわけではありません。都へ“出向く”だけ」
イザベルは笑みを深め、掌に薄い仮面を載せた。
白磁の面に、目元だけを黒で縁取った――舞踏会で使うような小さな仮面。
「監察院があなたを“悪役”として再演しようとしている証拠よ。都の広場で配られている。『偽りの令嬢、再び登場』ってね」
仮面の冷たい感触に、指先が一瞬震える。
だがわたくしは深く息を吐き、イザベルの掌を押し返した。
「仮面は要りません。谷での顔が一つあれば、それで足ります」
イザベルの目に、安堵と誇りの光が交じった。
都への道は長い。
途中の村で“どうぞ市場”を試しながら進むと、人々は興味深げに受け入れた。
ライナーが剣を抜くことはなく、子どもたちが笑顔で札を渡す姿を守るだけ。
道中で積み重なる「どうぞ」と「ありがとう」が、旅の重さを軽くしてくれた。
やがて王都の尖塔が遠くに見えたとき、風向きが変わった。
街道の入り口で、灰色の外套を着た役人たちが待っていた。監察院――ファルクの部下だ。
「エレナ・グランディール。王都は今や混乱の只中だ。聖女の失墜により、君を“代役”とする声が上がっている」
代役――悪役を再び与えられる予兆。
わたくしは目を細め、静かに答えた。
「代役は致しません。客として参りました。どうぞ、そのように扱ってください」
役人たちは顔を見合わせた。
その瞬間、広場の群衆の中から声が上がった。
「悪役令嬢が戻ってきたぞ!」
群衆の目が、かつての仮面をかぶせようとする。
わたくしの足元に影が落ち、谷での“どうぞ”が試される時が来たのだ。
夜。宿の机で帳面を開き、新しい行を書いた。
十六、仮面は受け取らない。顔は一つで足りる。
窓の外で王都の灯が揺れている。
その光の中に、影もまた揺れている。
(※次回:第15話「広場の裁き――悪役令嬢か、谷の先生か」へ続く)




