第12話 境界の集会――谷と王都の狭間で
監察院が去った翌朝、谷には不思議な静けさがあった。
外套の影はもう見えない。けれど人々は無意識に声を潜め、畑の鍬の音さえ控えめだった。
火の試練をくぐった余韻と、また来るかもしれぬ不安とが、土に混じっている。
その静けさを破ったのは、使者の到着だった。
エルンの商人ギルドの紋章を掲げた馬車が、国境の道から谷へ入ってきた。
同じ時刻、王都からも小さな一団が姿を現した。旗に描かれた鷹の紋。
――境界の集会が、現実の形を取り始めたのだ。
会合の場は、谷の西端にある古い石橋の上に設けられた。
川は谷を二つに割り、片側は王都の領地、片側はエルンの森へ続いている。
橋の中央に長机が置かれ、両国の代表が向かい合う。その間に谷の村長が座り、わたくしはその隣に呼ばれた。
「本日の議題は、市場の秩序について」
村長の声が風に乗り、川のせせらぎと重なる。
王都の代表は堅い口調で言った。
「市場は王家の印章の下で開くべきだ。秩序は印と監視から生まれる」
対してエルンの商人代表は首を振った。
「市場は声と礼から始まる。監視ばかりでは商人も農夫も心を閉ざす」
二つの主張は、まっすぐ衝突した。
村人たちは不安げに視線を交わす。
わたくしは立ち上がった。
卓上に札を置き、一枚ずつ配る。
裏には数字と――ただ一言、“どうぞ”。
「秩序は印章からも声からも生まれます。けれど、その前に順番があります。
“どうぞ”と“ありがとう”。その二つがあれば、印章も声も軽くなります」
そう言って、王都代表に一枚渡した。
「どうぞ」
彼は戸惑いながら受け取った。「……ありがとう」
続けてエルン代表に渡す。
「どうぞ」
彼も笑みを浮かべた。「ありがとう」
机の上に三枚の札が並ぶ。その光景に、人々の顔が少しほぐれた。
そのとき、川向こうで物音がした。
旅人風の男が列を乱し、商人たちの荷に手を伸ばそうとしている。
またしても混乱の火種。
ライナーが剣を構えかけたが、わたくしは手で制した。
「待って。――どうぞ、こちらへ」
男に札を差し出す。
彼は一瞬戸惑ったが、周囲の視線に押され、札を受け取った。
数字は最後。列の後ろに回らざるを得ない。
人々が拍手を送ると、男は肩を落とし、静かに列の端に並んだ。
会合は続いた。
最終的に、「市場の秩序は谷の作法に倣い、“どうぞ”の札を用いる」ことで合意が結ばれた。
王都代表は渋々ながらも印章を押し、エルン代表は満足げに頷いた。
川を渡る風が、橋の中央で香草の匂いを運んだ。
わたくしは胸の奥で、八行目――「過去は客として迎える」をそっと確かめた。
王都もエルンも、谷にとっては客だ。家主は、この土地で暮らす人々なのだ。
夜。
帳面に新しい一行を加える。
十四、境界もまた“どうぞ”で渡す。片側は客、片側も客。谷が家主。
火は穏やかに燃え、川の水は変わらず流れている。
けれど夜の風の底には、まだ別の匂いが潜んでいた。
――監察院が完全に諦めたとは思えない。
わたくしは杯を持ち、闇の奥に向かって静かに言った。
「どうぞ、今度は正しく来てください」
(※次回:第13話「谷を揺らす報せ――聖女の失墜」へ続く)




