第10話 旧友の来訪――羨望と嫉妬の狭間で
朝の霧が畑の畝に低く漂い、ミントの葉先に小さな露が揺れていた。
井戸の釣瓶が二度鳴ったとき、谷の入口で馬車の車輪が石を叩く音がした。王都の舗装を知っている輪の響きだ。
柵越しに見えた外套の色は、やさしい葡萄酒色。扉が開き、見慣れた横顔が現れる。
「――エレナ」
学院時代の友、イザベル・ラングレー。
王都では、舞曲の“第二手”をいつも呼吸一つで揃えてくれた相手。
彼女は旅塵ひとつまとわず、しかし靴の底だけは谷の土に軽く濡れて、微笑を結んだ。
「あなた、本当に畑を耕しているのね」
「ええ。鍬は扇より重いけれど、風はこっちのほうが素直」
言葉を交わすあいだに、ロイが塀の陰から顔を覗かせ、トマが鼻歌を低くした。
わたくしは庭の椅子を示し、ポットを取りに台所へ戻る。
“過去は客として迎える――家主にはしない”。扉の内側の帳面の八行目に、指先で触れてから。
イザベルは椅子に腰掛けた。葡萄酒色の外套の内側は、柘榴の赤い裏地。視線の端で、彼女は畑と井戸、吊した薬草の束、家の壁に掛けた子どもたちの絵を順に数える。
「王都では、あなたの話題で持ちきりよ。『悪役令嬢、田舎で先生に』って」
「悪役はやめたけれど、先生は続けているわ。作法は、人の手の温度を確かめる道具だから」
茶は熱くしない。井戸の水で葉を軽く湿らせ、香りを立てる。
イザベルは杯を持つと、昔の癖で目を伏せ、匂いを喉で聴いた。
「……誤魔化しがないわ。あなたの淹れ方、好き」
「ありがとう。“どうぞ”」
隣でロイが小さく胸を張る。「先生、どうぞって言った」
イザベルは目を細め、子どもへも礼を向ける。「ありがとう。――ねえエレナ、少し歩かない?」
畑の脇、段々を縫う小道に出る。
朝日の縁が丘を撫で、谷の家々の煙がまっすぐ上がっていた。
「王都から来たのは、おしゃべりのためだけ?」
「半分はね。もう半分は、お土産と……忠告」
イザベルは外套の内ポケットから薄い封筒を取り出した。
封蝋は王家ではなく、監察院の印。文は短く、冷たい。
『保護聴取のため、関係者を王都又は指定宿場へ集める。拒否の場合、近衛に随行を命ず』
わたくしは息を整え、封を畳んで懐に収めた。
イザベルの声は、わたくしの横顔を覗くように低くなる。
「近衛の中に、あなたを“象徴”として必要とする派閥がいる。聖女の人気に陰りが出て、物語の“影”が足りないのよ。
――つまり、あなたに“悪役”の仮面を、もう一度かぶせたい人たちが」
「仮面はここで外したわ。谷では、顔は一つで足りる」
イザベルの唇が歪む。嘲りではない。戸惑いに近い。
「羨ましいの。あなたが“主役でない幸福”を見つけたことが。
王都で私は、きれいな第二手でいることに飽き飽きしてた。ねえエレナ、戻ってきて。『礼儀監』の席が、あなたのために空いてる。名義は出さない。影の主役。きっと上手にできる」
「影は、光のためだけにあるわけじゃないわ。土の下にも影はある。根を育てるために」
少しの沈黙。
イザベルは笑って、肩をすくめた。「あなたの比喩は昔からずるい」
そのとき、丘の上から甲高い悲鳴。
子どもの声。反射で二人とも駆けた。足が勝手に段差を刻む。
段々畑の角で、小さな体が泥に滑っている。手に抱えた籠が転がり、卵が二つ、割れて白い星を作っていた。
「大丈夫?」
「……ごめんなさい、落としちゃった」
膝に擦り傷。息が乱れて、泣く寸前。
わたくしは肩口の手ぬぐいを外し、井戸水で湿らせ、泥をぬぐう。
イザベルは即座に周囲を見回し、段差の角を靴で押さえ、滑りの道を切り直した。王都の舞踏で身についた“先を読む目”。
籠を拾い上げる彼女の手つきは、見事だった。
「卵は二つ駄目になった。でも残りは生きてる。……ねえ、次からは“どうぞ”の順番で持たせてもらおう? 一度に全部じゃなくて」
子どもが頷く。
イザベルはわたくしを見る。「こういうの、王都でも教えるべきだった。倒れない礼」
「礼は、倒れる前に支える線。――ありがとう、イザベル」
彼女は冗談めかして眼を細める。「“先生”って呼んでくれてもいいのよ?」
笑いがこぼれ、谷の風が二人の額の汗を拭った。
下り道でロイが駆け寄ってきて、イザベルに花の首飾りをかける。「どうぞ!」
イザベルは一瞬だけ王都の顔に戻り、すぐに谷の顔で笑った。「ありがとう」
庭に戻って茶を淹れる。今度は温かい。
イザベルは杯を両手で抱き、深く息を吐いた。
「羨ましい、が半分。嫉妬が半分。――ねえエレナ、私、あなたのところで“見習い”してもいい?」
「見習いは畑からよ」
「覚悟してる。鍬、似合うかしら」
「扇よりきっと」
言葉の余白に、軋む気配。
柵の外、並木の陰に、短い影。夜の刺客ではない。昼の偵察。
カイが物陰で顎を引き、ライナーが静かに指を二本立てた。二人。動きは軽い。
わたくしはポットを火から外した。「イザベル。客人の前で無粋だけど、谷の手伝いをしてくれる?」
「もちろん」
香草袋を火に投げ、強い香りの煙を上げる。
柵の外の影が一瞬たじろぎ、足を止めた。
カイが回り込み、ライナーが退路を切る。剣は抜かない。音も立てない。
影は身をひるがえし、谷の外へ流れるように消えた。
「……嫌な匂いね」
「監察院の紙と一緒に来る匂いよ。人の視線の匂い」
イザベルは外套の襟を少し上げ、火の側に椅子を引いた。「谷のやり方、私にも教えて」
わたくしは頷き、棚の小さな箱を開く。
中に、今日子どもが落とした卵の殻。洗って、陽に当てていた。
殻を砕いて粉にし、土に混ぜる。段差の角に撒けば、滑りが少し収まる。
「“どうぞ”の順番は、人にも道にも効くの。先に土へ、次に足へ、最後に荷物へ」
「順番を礼にする。――好き。覚えやすい」
午後、集会所ではエルンの“礼儀監”案の相談があった。
イザベルは王都の視点から危うい点を挙げ、ゲオルグが地図に線を足す。
「顔で決めない」「声の大きさで決めない」「“どうぞ”の声が届く距離で渡す」。三つの条が紙の上に並び、トマが「覚え歌にしよう」と言って鼻歌に節をつけた。
夕刻。
イザベルは馬車の前で外套の裾を整えた。葡萄酒色の布に、谷の土の小さな指紋がいくつも付いている。
彼女は笑って指でそれをなぞった。
「羨望と嫉妬の半々は、少し配合が変わった気がする。――また来ていい?」
「もちろん。“どうぞ”」
「ありがとう。……それから、これは私の“忠告”の最後」
胸元のブローチを外す。銀の葉の形。
彼女はわたくしの掌に乗せ、声を潜めた。
「王都でこの意匠は“追跡”の合図に使われることがある。監察院の目はきっとあなたに追いつこうとする。
でも、谷の風が強ければ、匂いは消える。匂いを作るのは、いつも“いま此処の暮らし”」
「覚えておくわ」
彼女は軽く抱きしめ、乗り込んだ。車輪の音が遠ざかる。
ロイが手を振り、ライナーが眉を上げ、カイが「監察院の意匠、見た」と短く言う。
ゲオルグは「次の夜回り、道の角に卵殻粉を撒け」と命じ、トマが「歌に卵も入れとく」と笑った。
日が落ち、台所で火を弱くする。
帳面を開く。既に十一行まで進んだ頁の下に、新しい行を足す。
十二、羨望も嫉妬も、順番をつければ礼になる。
(先に深呼吸、次に“どうぞ”、最後に“ありがとう”)
頁を閉じると、窓辺で銀の葉が微かに鳴った。
ブローチの茎の裏、肉眼では読めないほど小さな刻印――監察院の古い記号。
わたくしはそれを庭のハーブ杭に結わえ、ミントとレモンバームの間に吊した。谷の香りに、王都の目印を溺れさせる。
夜が来る。
門の外で、砂利が一粒だけ跳ねる音。
わたくしは扉に手をかけた。扉は、もう怯える音を出さない。外へ送り出す合図だけを、短く。
「――どうぞ」
闇に向けて、小さく言ってみる。
過去も、監察の目も、羨望も、嫉妬も。
客として来るなら、席はある。けれど家主は、わたくしたちだ。
(※次回:第11話「襲い来る陰謀――監察院の影、谷の火」へ続く)




