44話『にゃあ!』
癒希がレベルアップする話の第7回です。
よろしくお願い致します。
ログスは死の手から逃れるため、懸命に両足を動かしていた。
健脚とは呼べない体である。肺は焼け付き、腰は軋む――だが脳内麻薬のおかげか、走り続けることができた。嘆く余裕すらある。
「なぜこんな目に遭うのかですぞおおおおおおお!?」
返事はない。倉庫街は常に人気がないのだから当たり前だが。
と――
『にゃあ!』
「ぬっほおおおおおおおう!?」
ログスが柱の脇を駆け抜けた時、その傍にいた野良猫が元気に鳴いた。周囲の状況に対して過敏になっていたログスは反射的に横っ飛びなどしてしまい、その勢いのまま地面をごろごろと転がった。
『……』
罪悪感なのか興味を失っただけなのか、野良猫は壁の向こう側にひらりと跳び去り――ログスは地面に這いつくばった状態でわなわなと震え始めた。
「なぜ善良な私がこんな目に! こんな目に遭うのかですぞおおおおおおおお!」
ログスは30数年もの間、警備隊で治安の維持に当たってきた。
昼夜を問わず起きる犯罪。それらを取り締まる激務によって多大なストレスにさらされた時も合理的な憂さ晴らし――貧しい者たちに他愛のない暴力を振るう程度で済ませてきた。生産性が低い者たちを治安維持の活力に変換してきたと言い換えられる。これほど善良なことはない。
クエロンと手を組んでからは密輸の片棒を担いできたが、それは自身が逮捕されるリスクを背負った上でのことであり、言ってしまえば賭博のようなものだった。非難される謂われはない――善良である。もちろん、今回の件でもログス警備兵長は善良だった。
彼が端金――ではなく相応の報酬を対価として貧しい人々に飲ませたのは薬物ではなく、精神暗示に使える薬である。つまりこの国の禁制品リストには載っていない。そもそもクエロンが他国の薬品会社からその量と効果の調査を依頼され、それを手伝っただけである。
『要は治験だ。問題があんのか?』
クエロンの強面を以てそう説明すれば、行政からの追及も避けられただろう。つまりは無罪。善良である。
もちろんログスの安寧が脅かされることもなかった――はずなのだが、今や騎士団に睨まれ、盗賊ギルドに睨まれ、大貴族からも睨まれている。安寧など、もはや地平線の彼方と言えるだろう。
理不尽極まりない状況を嘆いたところで、ログスはもう御仕舞いである――否、決して睨みつけてこない味方がまだ残っていた。彼さえいれば望みはある。
「――だな、ジャック!?」
『もちろんす!』
ログスは警備兵詰め所から出て来たジャックの手を強く握って立ち上がった。
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・
ログスの部下はジャックを含めて20名である。
つまりこの第4警備兵詰め所にはすべての部下が揃っていた。ちなみに3交代制のシフトなので、分け前を受け取る以外で全員がここに揃うことはない――今日はクエロンからの報酬を分配するはずの日だった。
それはさておき、警備兵長は金で絡め取った部下たちに対して――大貴族の部分を伏せた――現状を説明し終えたところである。顔を赤くして締めくくる。
「そういうわけで! 薬だけでも回収しませんとならないのですぞ!?」
『……』
反応の方はいまいちのようだった。ログスは大きく息を吸うと、やや大声で説明を続けた。
押収された品は保管されるので後から盗み出すことも可能だが、違法と判断された薬物は即焼却である。そんなことになればクエロンの怒りを山盛りで買うことになってしまう。
「もしそうなれば関わった者たち……私たちは皆殺しにされてしまうんですぞ!?」
『……!』
あぶら汗と必死の形相が功を奏したのか、それとも皆殺しという単語のおかげなのか、不安を煽ることに成功したようだった。
警備兵たちが一斉にどよめく――その不安を打ち消すように、ログスが腹の底から声を張り上げた。
「ですが! 私の指示通りに動けばまだ大丈夫ですぞ!」
「さすがっす!」
「兵長ですからな!」
自信と力強さに満ちた声――兵長に昇格した際に習う発声技術である――が部下たちに落ち着きを取り戻させ、なにやら感動したらしいジャックがぱちぱちと手を叩いた。彼の無邪気な笑顔が不穏な雰囲気を和らげたようである。
ログスは満足そうにうなずいてから人差し指をぴんと立てた。部下たちの視線と意識が集まるのを待ち――それからどんと胸を張る。
「学校に火を放って特務兵たちを陽動し、その隙に別働隊が薬を回収すればよいのですぞ!」
『まじすか……!?』
彼が自信満々かつ平然と言い放った途端、再びどよめきが起こった。汚職に手を染めた身とはいえ、学生が多く集まる場所に火を放つというのは、さすがに躊躇われたのだろう――が、ログスは切羽詰まった声で畳みかける。
「盗賊ギルドの処刑がどれだけ残虐か知ってるのかですぞ!?」
『……』
それでも返ってきたのは、戸惑いの表情だった。
警備兵たちは盗賊ギルドと直接の付き合いがないのだから当然であるが、そうではないログスは彼らの態度にいらだちを覚えざるを得ないようだった。
半端者共が――などと怒鳴りそうになった時、ジャックが先輩方に向き直った。いつになく真剣な面持ちである。
「ログスさんは学校を焼き払えって言ってるんじゃないんすよ! 要は……」
不審者が侵入したと学校に乗り込み、探すふりをして屋上に火を放つ。
そして生徒たちを避難誘導しつつ消火活動にあたり、特務部隊が到着したら不審者の追跡を名目に離脱する。
「こういうことっすよね!? ログスさん!」
「大正解ですな! 未来ある子供たちを害するなど、人間のすることではありませんぞ!?」
負傷者がいた方が混乱が大きくなって好都合だろうが――そんな本音を漏らすことはなく、ログスは極上の笑顔で1番の部下の肩をばしばしと叩いてから部下たちの方に向き直り、びしりと締めくくる。
「陽動中に私とジャックで薬物を回収しますぞ! だな、ジャック!?」
「もちろんす!」
「さあ、まだ大丈夫なうちに行くのですぞ!」
『……』
いつものやり取りを見て安心でもしたのか、警備兵たちは照明用の燃料をバッグに詰め込んで詰め所を出ていき――ログスはそれを満足そうな顔で見送った後、ジャックを連れてロッカールームに向かった。自分のロッカーから大きめのバッグを取り出し、それをジャックに背負わせる。
「重くないかですぞ?」
「はい! 大丈夫っす! でもちょっと紐が長いっすね」
ジャックは元気に答えつつ、紐の長さを調節しようと下を向いた――瞬間。
ごきっ!
ロッカールームに鈍い音が響き渡った。
事切れたジャックを床に置き、彼からバッグを取り上げたのは他者の不幸を自身の金に変える怪物。ログス警備兵長だった。平然と、悠然と続ける。
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