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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

血垂れ格子

作者: 有畑万葉

 闇だ。ただひたすらに暗澹たる闇が広がっている。目は隠され、何も見えることはない。地に着いた膝から伝わる儀式場の土の感覚と、私の処刑を望む人々の声だけが私をこの世に留めていた。私がいったい何をしたのだ。私はいったい何のために生贄にされるのだ? 答えは出ない。私が忌み子と呼ばれる存在でなければ、ここで死ぬことはなかったのかもしれない。髪が銀で、肌の色が暗いから悪霊の生まれ変わりだと、ケガレが強いと、この村に起こるすべての悪事はお前が原因だからと聞かされて育ってきた。この世は地獄だ。極楽など無い。ずっと、そう思っていた。死ねば極楽へ行けるのだろうか、それならば今すぐにでも私の首をはねてほしい。処刑人が大きな刀を抜く音がした。ああ、もう終わりだ。

「では忌み子の処刑を行う!」

 処刑人の口上とともに、人々に歓声が巻き起こる。

「やれ」

 刀を振り下ろすため、ぎゅっと力を加え、足を引いた音がした。「もう何も言うまい、死ぬんだ」と思った。

 次の瞬間、私の首が斬り落とされることはなかった。代わりに処刑人の「ぎゃっ」という声と、野次馬の悲鳴が聞こえ、強烈な血の匂いが鼻をくすぐった。私は何が起きているのか分からず、縛られた手足をバタバタさせる。

「もし、忌み子とはそちのことか」

 透き通った低い声が私の方に投げられた。処刑人のものでも、野次馬のものでもない。それしか分からないけれど、私は強く首を縦に振った。

「そうか……ではともに参れ。安心せい。この場は全てなかったことにするゆえ。ちょいと気絶させるがな、そちが次に目覚めたらそこは極楽。このような掃きだめとは今日でおさらばじゃ」

 静かに、その誰かが私に語り掛ける。ああ、救われるんだ、と思った。そして私は首に大きな衝撃を感じて意識を手放した。



 がやがやと、声がする。楽器の音色が響いている。暖かい。そして、醤油が焦げたいい香りが鼻をくすぐる。私はゆっくりと目を開いた。目の前に広がるは、木の天井。横では大層きらびやかな着物を着た女性が一人、私の顔を覗き込むようにして見ていた。なんと表現すればよいのだろう。深淵なる闇を一筋に伸ばしたような黒々しい髪と、ふくよかな丘陵は女性というものを色濃く表している。そして中性的な顔立ちに少し芝居がかった仕草。どこを取っても一言「美女」では済ませられないほどの女性であると思った。私は自分のみすぼらしい姿が情けなくなり、慌てて顔を隠した。

「もし、顔なぞ隠して如何したか」

 その声は処刑場で聴いたあの声によく似ていた。

「あ、そこはどうなったん、ですか」

 久しぶりに声を出したので、絞り出すような声で私は尋ねた。

「あそこかい。何も心配はしなくていいんじゃよ。そちを傷つけた輩はみな井戸の底さ。さて今日からはわっちがそちの面倒を見ることになる。よろしゅうの」

 井戸の底……? 私は寝起きでよく意味が呑み込めなかった。いや、ひしひしと伝わる恐怖から目を背けたかっただけかもしれない。そんなことよりどこに連れてこられたんだろう。

「あ、あの。ここはどこで、しょうか」

 私は重い身体を起こして彼女に尋ねた。

「ここかい、ここはの。江戸吉原じゃ名前を知らん者はおらぬじゃろう。大店『鈴奈屋』とはここのことぞ」

「よしわら……?」

 とかく賑やかできらびやかだということ以外、私には一切理解できなかった。

「お主、本当に何も知らんのじゃな。まあ良い。初々しい反応でとても良きものじゃ。さて、どこから説明するかの」

 彼女が言うにはここは私がいた村からかなり遠いところにある、男女が夢のような時間を過ごす、まさに極楽なのだそうだ。そして私は彼女の元で下働きのようなものをすることになった。この手のことは奴隷じみた生活を送った、村にいた頃からしてきているので慣れている。

「そしてわっちはここで『極楽太夫』と呼ばれておる者。そうじゃのう、これから私のことは姉様と呼ぶといい。ところでぬし、名は何という?」

 極楽、か。私とは対極の存在のように感じる。彼女は忌み子であることなど気にしないのだろうか。私は名前で今まで呼ばれてきたことがなかったので

「名前は、ございません」

 とだけ返した。すると彼女は驚く様子もなく、まるでそのことに慣れ親しんでいるかのようにうんうんと頷いてから、口を開いた。

「ぬしの銀の髪、透き通るように輝いておるの。そうじゃな、おぬしの名前は『ギン』じゃ。これからはギンと名乗りなんし。禿(かむろ)としてわっちの元で働くのじゃ」

 名前を、物心ついた時には失っていた。いや、元々そんなものを与えられた記憶もない。ただ「お前」とか「忌み子」とかそういった言葉が私を示すものであった、というだけだ。それが今は違う。私はギンだ。ギンという名前を与えられた。私はそのことだけでこの人、姉様のために生きていける気がした。私はこの人にすべてを捧げようと思った。


 その日から、目まぐるしく日常は変化した。見たこともない世界で見たこともない人々と話すのは心が躍る反面、私の無力さを浮き彫りにした。私は不器用で、気も回すことができない。他者を思いやることができない。それは弊害となって私の仕事の効率を悪くした。

 しかし、そんなときも姉様は笑っておられた。よくやったと、夕刻になれば髪をとかし、一緒に南蛮菓子などを食べてくださった。私は今この時間こそが極楽なのだと思っていた――。

 半月が過ぎたであろうか。いや、もしかしたらもうとっくに二か月は過ぎているかもしれない。とかく、最初に拾われたときからもう幾月か経った頃であると思う。

 私がいつものように裏で洗濯をし、乾いたものを取り込んでいたとき、すれ違った女性たちの会話が耳に飛び込んできた。

「そろそろじゃない? もう二度目の満月も近いし」

「ああ、極楽が地獄に変わるってヤツかい。……血なんてキツイ噂よね」

 血、の下りは大きく吹き付ける風の音が邪魔して聞き取ることができなかったけれど、近いうちに何かあるようだ。私は身震いした。極楽……姉様に何かあるのだろうか。最近の姉様は特に何も変わりなく男を相手にしては昼間に私たちの稽古や、店の様子見などをされている。

 何も変わらない。そうだ、大丈夫。私は気持ちを切り替えようと、店の方へ視線をずらした。いつも大きな姿でどっしりと構える鈴奈屋が、ひときわ大きく唸っているように見えた。

 その晩、私は姉様に呼ばれ裏で店に響く三味線や琴の音色を聴きながら待機していた。普段の夜、私は新造の先輩方の横で勉強をさせてもらっているが、姉様から直接お呼びがかかることはない。姉様は、それはそれは位の高い遊女で、金持ちの代官や商人を相手にしているためだ。

 私はおそるおそる姉様がとあるお客を相手にしている部屋の前まで来た。男の興奮した声と、姉様の艶のある声が部屋に響いている。まさに今お楽しみのようだ。聴き慣れている艶声なのに妙に緊張して自分の頬が熱くなるのを感じた。私はいつ声を掛ければよいものかと思って黙っていた。しばらく情事の音を聴いていると、突然男の「ぎゃ、何をする!」という声が部屋の外に漏れ出てきた。その声は悲鳴に近いものだった。そしてそれに続いて男の激しい悲鳴が聞こえる。まるで激しい拷問を受けているときのような、無理やり腕を力いっぱいに引きちぎられそうになったときのような声だ。

 私は普段から「部屋には呼ぶまで入るな」と言われていたが、今回はさすがに嫌な感じがして、部屋のふすまをおそるおそる開いた。


 私は、息をのんだ。そしてその音で部屋にいる姉様と目が合ってしまった。いや、アレは姉様なのか?

 姉様らしきその女性の髪の毛は金髪に変わり、もぎ取った男の腕に食らいつき、血を啜っていた。横では男が白目をむいて死んでいる。姉様は鋭い目つきをし、手には鋭いかぎ爪が生え、金の長い髪を振り乱した半獣半人と言えばよいだろうか、化け物に変わっていた。顔は人間のままだが、口の中の歯は人間の者とは思えぬほど尖り、目は紅く染まっていた。

「ひっ」

 私は恐怖で動けなくなった。心臓をわしづかみにするような鋭い眼光と低い唸り声が、私をその場にはりつけにした。

「ギンか……。こちらへ来なんし」

 その化け物は姉様よりもかなり低い声で私の名を呼んだ。私はそれでも動けない。目の前の彼女は男の腕や足をまるで煎餅のようにバリバリとかじると、全て呑み込んでしまった。まさに地獄絵図である。姉様の長い髪が風に揺れて、姉様の後ろに隠されていた満月を表に出した。月の光が部屋に差し込んでくる。

「ギン、()く。このようになりたくないのなら」

 そういって彼女は男の頭を大きく口を開けて一飲みした。化け物だ……血の噂は、極楽が地獄に変わるとはまさにこのことだったのだ。

 私は踵を返した。が、次の瞬間、姉様が私の背後に現れた。食事の後の血なまぐさい匂いが背筋に触れてくる。心臓が早鐘を打っている。人生で何回思ったか、いや、今この瞬間ほど強く「死ぬのだ」と思ったときは無いかもしれない。

「おい、逃げるのか?こちらを向け」

 私は声が出せずに、涙目になって後ろを振り向いた。

 満月の光が、彼女の裸体が、彼女の金の髪の毛が眩しい。

「すまんのぅ、怖がらせて。これがわっちの本当の姿なのじゃ。ふた月に一度だけこの姿になって男を文字通り食らってしまうのさ。そして元に戻るには忌み子の血を、啜らねばならん。大丈夫、ぬしからはほんの一滴しか採らん。そう、そのまま動くんじゃない」

 彼女はゆっくりと私の首筋にかみついた。本当に軽くである。うっすらと、血が流れ出る気がした。すると見る見るうちに彼女の髪の毛は元の黒に戻り、かぎ爪や牙は消えて、気が付いた時にはもう元通りの姿に変わっていた。

「はっ、はっ、はっ」

 私は何を言えばいいのか分からなくて、何か言おうとして荒い呼吸だけが口から出ているのを感じた。

 彼女はゆっくりと私を抱きしめた。

「ねえ、さま……?」

 彼女は私の首筋から胸にかけてすっと指でなぞるようにして、ちょうど心臓の前上あたりで指を止めた。

「こんなに早鐘を打っておる。……生の証ぞ」

 私は息が詰まって何も言えなくなった。そのままその手で私の心臓を抉り出して噛り付くのじゃないだろうか。

 こんな人だったなんて、普段からの仕草では全く分からなかった。このことを他の人は知っているのだろうか。

「あ、あ」

 口から出るのは声にならない息だけだ。何か話さないと殺される、そう思った。

「殺しはしない。ぬしは大切な家族じゃ。……これを見てしまったぬしには今から色々と教え込もうぞ。明日からは格子として働きなんし。今のぬしはあの月光を浴びて、今までのぬしを捨てたんじゃ。今のぬしはさっきまでのただの忌み子ではない。鏡を見てみるといい」

 そういうと、彼女は私の唇に軽く接吻をした。

 近くに落ちていた男の刀がいつの間にか抜かれている。そこに映る自分の姿に、私は驚いた。

 私の髪の毛は銀色の輝きを増し、肌は暗い肌色から透き通るような白色に変化していた。目の色も紅に変化している。これでは私が化け物みたいじゃないか。忌み子のときも化け物と呼ばれていたが、今はもう純粋に人ではないみたいだ。

「姉様、この姿は……?」

「わっちと同じ姿じゃよ。ぬしは忌み子ゆえケガレが強い。わっちのような化け物と交わるとそのケガレがわっちのような者の力を引き寄せてしまうのじゃ」

 忌み子は、ケガレが強いと一方的に村人が決めていると思っていたけれど、それは違うようだ。どうやら元々そういう体質らしいことが今わかった。まあ、今更分かったところでどうしようもないのだけれども。

 あと分かったことは、姉様が化け物になるには満月の光を浴びてより激しく男と交わることが必要だということ、あとは忌み子の血を啜ることで元の姿に戻れるということだ。今は私がいるが、以前私が来るまでは誰が相手していたのだろう。そんなことが頭をよぎったが、私はそれよりも体の奥底から沸き起こる強烈な眠気に負けてしまいそうだった。

「まあ、今日は眠りなんし。明日になればぬしの人生も今までとは大きく違うものになっておろう」

 姉様が優しく髪をなでてくれるのを感じて、私は眠りに落ちた。

「そろそろ潮時じゃな。この店はぬしに預けるぞギン。わっちの化け物になる記憶を周りの連中から削るためにちょいと時間をいじる。ぬしのような逸材に出会えたこと、心より感謝するぞ。まあ、もう聞こえていないだろうじゃがな……」


 翌朝、私が目を覚ますとそこは大部屋ではなく、姉様のような遊女が暮らしている、禿の部屋とは違う趣のある和室だった。私の身体はまるで数十年が経過したのではないかと思うほどに成長しきっており、頭の中も冴え切っていた。私は慌てて手鏡を覗き込んだ。昨晩と何ら変化のない、赤い瞳をした銀髪の美女が不思議そうに鏡を覗き込んでいた。そして身にまとっていた着物は小汚いものから姿を変え、姉様が着ていたようなものへ変化していた。私は困惑した。この姿では気味悪がられてしまう。誰か来る前に姿を隠さねば、と思っていたら背後から声がかけられた。

「ギン姉様。お食事の時間です」

 誰かと思って後ろを振り返る。見知らぬ禿だ。そして私を気にするそぶりも見せない。

「誰ですか?」

 私は尋ねた。驚いたことに、尋ねる声は姉様が発していた声とそっくりだった。

「お戯れを。クロでございます。四年前姉様が村で拾ってくださったではありませんか」

 え? 何を言っているんだこの娘は。私は昨晩姉様が化け物になる姿を見て……。ん、昨晩の記憶が曖昧になっている。そういえば、姉様……はどうしたのだろう。

「クロ、姉様はどこでしょうか」

「姉様? 何をおっしゃられているのです。あなた様の上に姉様はいらっしゃいませんよ」

 ますます訳が分からない。本当に浦島太郎のような話が起きてしまったのだろうか。私は混乱して眩暈がしてきた。

「クロ。私は少し混乱しているのです。夢を見たのです。とてもとても(うつつ)に近い夢を。『極楽太夫』はどこにおりますか? 私は何と呼ばれていてここはどこなのです」

 私は、はやる気持ちをよそに、なるべく落ち着いた口調で聞いた。

「そう、なのですね。えっと、姉様はそのお美しい姿と孤高な立ち振る舞いで『銀狼太夫』と呼ばれております。ここ江戸吉原の老舗大店『鈴奈屋』の看板太夫でございます」

 そして間髪入れずにクロは続けた。

「そして姉様のおっしゃられた、『極楽』様は五年ほど前に西の方へ消えた、と伝えられております」

 五年前……。これは現なのだろうか。私は自分の体のあちこちを見回した。あらゆる部分が文字通り「大人になっている」のを感じる。

 私は昨晩、いやあの日姉様の力を受け継いでから本当に五年の歳月が経ったというのを嘘だと思えないようになってきた。もしかしたら、昨晩までの記憶をすっぽり姉様が消してしまったのかもしれないと思った。いずれにせよ、私は化け物になる可能性を抱いたままこの姿になってしまったのだということだけが私をここに留めていた。あれから何回も満月は訪れただろう。その度私も化け物になったのだろうか。そもそも私は姉様が消えるときに何かできたのだろうか。

 ああ、姉様。私が何をしたというのですか。もう一度あなたに会いたいです。

「クロ、次の満月はいつ来るのかしら?」

「はい、姉様。明日の晩です。またお部屋に籠ってお早めに就寝なさるのですね。満月は嫌いだと私が来た時から申されておりますもの」

 その言葉を聞いたとき、おそらくは五年分のものであろう記憶の奔流が脳内に流れ込んできた。姉様がとある夜、私が昨晩と思っている夜に姿を消したこと。そしてそこから私が満月を見なければ化け物になることもないということに気づき、己の中から沸き起こる衝動を抑え込み、耐え抜いてきたこと。その中で忌み子らしき女子を拾い、クロとして育ててきたこと……。数多くの男が私に言い寄ってきたこと、数多くの男が私抱いたこと。数えきれない思い出が、記憶が私の中にこだました。目から涙がこぼれるのを感じる。

「姉様、どうされました?」

「何でもないの。ほんとうよ。なんでもないの」

 私は流れ落ちる涙を袖で拭って、朝支度をした。

 もしも化け物になったら姉様と同じ世界を見ることができるのだろうか。もしも人外になれたなら、この箱のような店から飛び出して、姉様の元へ行けるのだろうか。

 それは、死ぬことかもしれない。抑えきれなくなって私はクロを殺してしまうかもしれない。けれど、姉様に会いたいこの感情は膨れていくばかりだ。

「クロ。明日の晩は男を抱くわ。久しぶりに満月の光の下で、情事に励みたいの」

「ええ、構いませんが……。如何したのです? 本当に大丈夫ですか、姉様」

 私は微笑みかけようとして、うまく笑えなかった。

「大丈夫よ」

 次の晩が来た。まるで私の心を代弁するかのように雨が降っていた。私は張見世に並ぶ遊女たちを横目に見ながら、部屋に上がっていった。

 私は何があっても驚かぬようにクロに言いつけて部屋の外で待機させ、部屋で男を待っていた。

 しばらくして、男が部屋に入ってくる。人のよさそうな若い好青年だったが、偉いところのお侍さんらしい。この部屋に上がれるということは相当な金持ちなのだろう。

 私はいつもやっていた通りに男を誘惑し、言葉と四肢を使って扇動する。男は初々しいながらも、私を求めて腕を絡ませてきた。

 うずうずと私の中で燻るものを感じながら、私は男を受け入れた。

 そして強く降り続けていた雨が上がり、格子窓から満月が顔をのぞかせたとき、私は抑えられない内側からの大きな力を感じた。すぐさま、心臓の鼓動が強くなる。体が血を求め始める。私は男の首に手を掛けた。男がうめき声を出す。男はじたばたと手足を動かした。

「な、なにをするやめろ!」

 男は叫んだ。なに、心配するなすぐに終わる。私は男の左腕に噛みついた。爪が、歯が鋭くなるのを感じる。もっと食らえと心が叫んでいる。肉を引きちぎり、鮮血が格子に飛び掛かる。

「誰か! 助けてくれ、頼む」

 男は叫び続けている。私は男の目に映る自分の姿を見て、驚いた。目の前にいるのは完全に化け物に姿を変えた自分だ。首から上が完全に狼になっており、体中に銀色の毛が生えている。狼女といえばいいのか、私は完全に『銀狼』になろうとしていた。私は間髪入れずに男を締め上げる。男は泡を吹いて白目をむいた。死んだのだ。私は次々と沸き起こる衝動に身を任せ、男の首に食らいつこうとした。

 そのとき、ふすまが勢いよく開かれて、刀を抜いた始末屋が飛び込んできた。私はクロがこの事態に耐え切れずに、店で待機していた始末屋を呼んだのだと察した。

 しかしもう遅い。私は大きく満月に向かって吠えた。大きな衝撃が店中に響き渡る。さすがに情事に励んでいたほかの遊女たちも悲鳴を上げ始める。

「こいつぁ、驚きやしたぜ。『極楽』の噂が消えてからこんなことにならぬよう目を光らせてきたんだが、まさか『銀狼太夫』が人外の血啜りだったとは。ここで斬り殺さねえと俺らの命、いや吉原があぶねえ」

 始末屋の男は刀を抜いて襲い掛かってきた。だが、刀は私の肌には通らず、金属に当たったかのような音を立てて刀の方がへし折れた。私は動揺する連中の横をすり抜けて正面から逃げ出した。姉様は西へ向かった。私も西へ向かうだけだ。私は夜道を駆けた。満月が私を照らしている。このままどこまでも行けそうな気がした。


 しかし、次の瞬間、私は地面に倒れていた。呼吸がうまくできない。ゆっくりと目を開けると、西の関所の前に鉄砲隊が並び、私めがけて次々に弾を撃っていた。一発が身体に食い込む。息が、できない。体に力が入らない。今度こそ死ぬのだ、と思った。姉様が生の証だと言った心臓にも一発の弾丸が突き刺さった。

「ああ、ねえさま……」

 呪ってやる。私はただ姉様に会いたかっただけなのに。ああ、神も仏も人間は救ってくださって人外は救ってくださらないのですか。

「仕留めたぞ!」

 という軍勢の声を聞きながら、私は最期に満月に向けて吠えた。そしてそのまま意識を手放した。




 ――暖かい。ここはどこだろう。誰かが私を呼んでいる。

「……ギ……ン、ギン!」

 私ははっきりと名前が呼ばれたのを聞いて目を覚ました。目の前にはただ広い花畑が広がっている。そして大きな木の下で手を振っている女性が一人。それはまぎれもなく姉様だった。ここはどこだろう。極楽とはこういう場所のことを言うのだろうか。

「姉様!」

 私は飛び起きて姉様の方へ走り寄った。姉様の身体は冷たいが、私を強く抱きしめてくれている。その瞬間、姉様も死んでしまったのだと直感した。ここはいわゆる死後の世界なのだと。私は走ってきた方を振り返った。遠くの方に鈴奈屋が見える。そして空には満月が浮かんでいる。私は姉様に聞きたいことがありすぎて、何から聞けばいいか分からなかった。

「姉様、会いたかったです」

「そうか、そうか。ここに来たということはぬしもわっちと同じように死んでしまったのじゃな」

 姉様は私の髪をとかしながら言った。

「ええ、ええ。でもいいのです。姉様に会えたのですから。名前を下さったあの日から私は姉様にすべてを捧げようと思って生きておりました、そして死にました」

 彼女は驚くそぶりも見せずに、私の頬に接吻をした。

 私は姉様の横に座り、口を開いた。

 さて何から話そう。何でもいいか。

 

 ……ここでは時間は流れないのだから。


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