胡蝶の夢とゆめゆめ忘れることなかれ1
鳴沢和俊、は学校のホールで音楽科の女子生徒のバイオリンの演奏を聞いていた。
その音色はじつに切ない。
先生との別れを女子生徒がいかに悲しんでいるか、聞く者に切実に伝えている。
音楽科特別講師、クリスティ・リッチ先生が今日、我が校を去られる。
この学校の音楽科教育に大きく貢献し、生徒達から愛されたクリスティ先生への感謝の気持ちを伝えるために。
クリスティ先生との最後の別れの時を最高のものとするために。
クリスティ先生の教え子である音楽科の生徒達による『ありがとう! クリスティ先生! クリスティ先生のためのお別れコンサート』が今、開かれていた。
このコンサートのメインゲストであるクリスティ・リッチ先生と他教職員、そして全校生徒を前に見事にバイオリンを弾き切った女子生徒へ、暖かな拍手が送られる。
「素晴らしい演奏だったな、鳴沢」
鳴沢の隣に座る鳴沢の友人、国広平が鳴沢に耳打ちする。
「ああ、そうだな。こんな素晴らしい演奏を散々聞いた後に音楽科の生徒じゃないこの俺が音楽科の特待生でクリスティ先生の秘蔵っ子の音也桔平の代わりにあのステージで音也として演奏しなきゃいけないなんて、死にたいよ」
鳴沢は緊張からか、頭痛を感じ、小さくうめき声をあげて目を閉じた。
次の生徒の演奏が始まる。
ああ、いったいなんで自分がこんな目に会わなければならないのか?
鳴沢は遠くにフルートの演奏を聞きながら頭の痛みを紛らわすように考えた。
事の発端は数日前。
体育の授業中、ドッジボールの流れ弾が当たり、音楽科の生徒、音也桔平が右手の薬指と中指と人差し指を骨折したことから始まる。
「頼むよ、鳴沢! 俺の代わりにクリスティ先生のお別れコンサートでピアノを弾いてくれないか?」
「無理だよ音也。お前、頭がおかしいんじゃないのか? 俺はピアノなんてろくに弾いたことがないんだぜ。神の手と言われているお前の代わりなんて無理に決まってるだろ。俺が代わりに出てどうする。クリスティ先生をガッカリさせるだけだぜ。コンサートは諦めろよ」
土下座して頼んでいる音也に鳴沢がそう言うと、会話を聞いていた鳴沢の友人、国広平と音也の幼馴染で学年の男子生徒達に可愛いと評判の彩音美香子からブーイングが起こる。
「冷たいな。鳴沢は。そんな風に音也を見下して断るなんて。お前の血は何色なんだ?」
「酷いわ! 何よ! 意地悪! 頭がおかしいのは鳴沢くんの方じゃないの! そんなに人を見下した人を見るのは私、初めてよ!」
「お前ら、言いたい放題だが、俺が音也を見下して見えるならそれは音也が土下座をしているからだぜ。土下座をしている男を冷静に見下ろすと見下しているように見えなくもないのさ」
「そんなうんちくどうでもいい。鳴沢。頼まれてくれよ。クリスティ先生はコンサートに穴を開けることを許さない人だ。そんな先生をガッカリさせたくないんだ」
「なら、お前本人がステージに立っていればいいだろう。演奏ができなくてもいいじゃないか。お前の姿を見るだけでも先生は嬉しいんじゃないのか? 先生を見送りたいって言うお前の気持ちだけで、先生は……」
「馬鹿を言うなよ! ステージに立ったって、観客の前にこんな無様な姿を晒して何になるんだよ。ピアノを弾けない俺がステージに立つなんて許されないんだよ!」
音也は骨折してる両手を鳴沢の前に突き出した。
音也が呻き声を上げる。
「音也、可愛そう。ねぇ、鳴沢くん、お願いよ。音也の代わりにステージに立ってあげて!」
潤んだ目で鳴沢を見る彩音。
「断る! 音也の代わりなんてお断りだぜ!」
「そんな、頼むよ鳴沢、引き受けてくれ。お前でなくちゃダメなんだ。横顔が俺に似ていると言われているお前が適任なんだよ!」
「それだから嫌なんだよ! お前に横顔が似ていると言われることがこの俺のコンプレックスなんだぜ。横顔が似てるって微妙な理由で天才のお前と比べられて、俺は……。ピアノをろくに弾けない俺がお前の代わりにコンサートに出るなんて、俺にはデメリットしかないだろ!」
「私、もしコンサートに出てくれたら、鳴沢くんと付き合ってもいいかな」
「え、マジで?」
鳴沢は音也の代わりにコンサートに出る事にした。
コンサートまでの数日間、鳴沢は音也のピアノのレッスンを受けた。
それは、音也としてコンサートに出るためのレッスンをも兼ねていた。
音也の指の動きを、体の動きを……音也の全てを鳴沢は自分に刻み込んでいった。
そして、ついにコンサート当時。