苦悩
他人のことを理解しようと努める。他人と関わることでの幸せを得るために。人間、知的生物の潜在的な欲求、承認欲求。自分の存在を確かめる必要性。しかし、他人を理解しようと努めて、考えている間に動けない。周囲の環境は目まぐるしく変化する。考え尽くした後ではもうすでにその答えは答えではなくなっている。そうして変化した答えの性質によって、他者に誤解されて、いつしか拒絶される。傷ついてしまう。自分の存在意義を実証するための手段が結果的に自身を傷つけ、再び、他人を理解するために熟考する。この円環の中に囚われ、他人とわかりあえないことを悟る。他人とはわかりあえる、わかりあえる世界を望む、理想郷。それらを夢見たこともあったが、いつしか、絶望的なまでの他人と差、理解できない違いを理解するのだ。そして、かくことに気づく。こちらは相手を知ろうと努力している、努力しようとしているが、相手は全くこちらのことを理解しようとしない。自身を寵愛し、自身を理解しようとするものを蔑するのだ。このことが人同士のすれ違いを生む、悲しみの始まりとなる。人々の不幸とは自身の理解する存在の発見の諦念である。神に存在を認められない。環境に認められない。他人に認められない。悲しみを乗り越えるためにどうすれば良いのか。自身の存在を認める対象を知覚することができている「幸せ(仕合わせ)」な人間が多数存在していると思われるが、彼らは果たして本当にこの解脱不能の「他人不理解」の循環の外にいるのか。
ごくごく当たり前の青年がそこにいた。青年は誰からも信頼される人間を目指し、人間関係を築いていた。困っている人を助け、人が望むことを行い、それぞれの人に対して自身の人性を変化させていった。それらの行動が実り、多くの人からの信頼を勝ち取ることができていたのだ。それはその青年の唯の思い込みだったのかもしれない。いやむしろ、今となってはそれは唯の夢想であったが、その青年が知覚する事象こそがその青年の生きる世界の真実なのだから、なんということはない。しかし、その夢想を「夢想」と気づくこと自体が罪なのだ。さて、その「夢想」に耽り、その青年は思ったのだ。「他人からの信頼を得ることができた。自身の存在は証明された。努力が報われたのだ。」今までの献身は無駄ではなかったと感じることができただろう。しかし、間違いを犯した。「できた」と思ってしまったのである。自身の存在を実証することができたことで、他人のことを理解するという行動を怠ってしまったのだ。そこから、段々と足元が崩れ去ってしまう音が聞こえてくるのである。何かがおかしい。噛み合わない。謙虚であったはずの人性は傲慢で向こう見ずとなった。それから離れる。ようように。気がついた時は周りには誰もいない。自身の存在を肯定する人は幻想であったと知るのである。青年自身が他人からの承認欲求を求めようとした過去と等しい状況だ。ここから再び始まる。他人への理解の旅が。
人はこの永遠の円環にいるのだ。他人を求め、抗う。努力の先に自身の存在の証明という結果が待っている。しかし、その結果、自身の存在は他人の存在を否定するものとなり、さらに自身の存在もまた他人の存在に押しつぶされる。椅子取りゲームのごとく。椅子に座れなかったらまた、自分の存在という椅子に座るためのプロセスを追わなければならない。そう、まさにこの円環の中にいるために、人は永遠に消えない苦悩を患っているのである。