怠惰な令嬢
「ヴェネット・チェスカー公爵令嬢、貴様の怠惰な性根にはほとほと呆れた!日々茶会や豪遊に明け暮れ、淑女や勤勉とはかけ離れた生活を送っていたとはどういうことか!努力も献身も出来ぬ女など、王族の俺の妻には相応しくない!よって今宵この場で貴様との婚約を破棄させてもらう!!」
絢爛豪華な装飾が施されたダンスホールの中央。シャンデリアから零れる金色の煌めきを一身に受けながら、二人の男女と一人の女が対峙する。
男———この国の第二王子ウィリアム・コーニエルの怒号がホールいっぱいに木霊するほど響き渡り、社交辞令や談笑に精を出していた令嬢令息たちも思わず息を潜めるように押し黙った。今日は王立学園の恒例行事であるダンスパーティーのため、ホールには生徒しかいないが、それでも相当の人数が居る。好奇と期待と困惑が混じったような視線が三人を、特に一人ただ茫然と立ち尽くす女———ヴェネットを突き刺す。
「そして、改めて俺はこちらのフェミリア・ウィネリー伯爵令嬢と婚約を結ぼうと思う!彼女はとても才能に溢れる人物で、先の定期筆記試験及び実技試験ではすべての令嬢の中でもっとも優秀な結果だったという!やはり未来の王族は優秀な人であるべきだろう!」
「こんばんは、皆様。只今殿下のご紹介に預かりましたウィネリー伯爵家が息女、フェミリア・ウィネリーですわ。以後お見知りおきを」
しかし、もう一人の女———フェミリアが挨拶と共に淑女のカーテシーを披露したことで、観衆の視線は彼女に釘付けになった。
第二王子ウィリアムに肩を抱かれながら佇む彼女は、それはそれは美しいのだ。メリハリのある身体つきに、よく手入れのされた真珠の肌や黄金色の髪。華やかな顔立ちに見合った豪華で色気あるドレスや装飾品は、一目でどれもが高級品であることが見受けられた。加えて、彼女が纏う碧色のドレスが何を示しているのかは、この場にいる誰もが知っている。的外れな紅色のドレスを纏うヴェネットと、第二王子の瞳の色を纏うフェミリア。たとえ正式な婚約者という建前があろうとも、どちらが王子の寵愛を受けているかなど考える間もなく一目瞭然であった。
茫然としたように微動だにしないヴェネットを置き去りにして、ホールには二人の婚約を祝福するかのような空気が流れ始める。押し黙っていた観衆たちが騒めきだし、シャンデリアの光は彼らを照らすためにより一層輝くようだ。寄り添うウィリアムとフェミリアは満足げな表情で微笑み合い、ピカピカに磨き上げられたタイルの床に映るヴェネットの姿だけが、ちいさく震えていた。
「それではヴェネット、そういうことだが、何か申し開きはあるか?これで貴様との縁は切れることだし、最後の情けとして特別に発言を許すぞ」
「ヴェネット様、今宵はこのような真似になってしまい申し訳ありませんでした。しかし、こうして今貴女になにか芽生えた思いがあるのでしたら、しっかりと申し上げなさるべきですわ」
肩眉を跳ね上げてヴェネットを見やるウィリアムと、祈るように両手を結ぶフェミリア。そしてそんな彼らを見てヴェネットに視線を投げる観衆たち。あたりには「さっさとこれまでの怠惰を謝罪をしろ」「お二人の情けに感謝しろ」といった空気がありありと流れ始め、ヴェネットだけがこの場で孤立してしまったようだ。
「……ぁ…」
「あ?なんだ。全員に聞こえるように言え」
俯いたままで零した音は、意味を成さずにタイルへ吸い込まれる。おろおろとしたその姿に苛立ったように声を少し荒げてウィリアムが注意をすると、突然。ヴェネットが弾かれたように顔を上げた。
「ルド!聞いた今の!?私が怠惰ですって!!」
それはもう、素晴らしい笑顔を携えて。
〇〇〇〇〇
ヴェネット・チェスカーを一言で表すのなら、「不器用」である。
幼い頃より繊細な作業、とくに裁縫が大の苦手であるし、人間関係によく悩むタイプであった。優先順序を考えたり有限のものをやりくりしたりも苦手で、とろい、鈍い、とよく兄に揶揄われたものだ。のろさを表す言葉がヴェネットほど似合う人間はいないとは、弟の持論である。
そしてそのヴェネットがとりわけ特に苦手なものが、何かを習得したり咄嗟に行動したりすることだった。
世の中には見てすぐ物を覚えた、気づいたら体が動いていた、という人間が一定数いる。先の第二王子ウィリアム・コーニエルやフェミリア・ウィネリーは、その最たる人物たちだ。彼らの特技はそれぞれ魔法実践と瞬間記憶であり、それらは咄嗟の行動や優れた脳の回転力がないと成しえないものだ。専ら彼らは「稀代の天才」として学内でも有名であり、将来を約束された人物である。
しかし、そんなものとんでもない。ヴェネットは全くの正反対で、何度も何度も繰り返し行動・勉強することでやっと習得するタイプであった。習得までに必要な量は人の2倍、時間は3倍、というのは彼女の持論で、実際、淑女教育の基礎ともいえる立ち方の練習の際に彼女は、他の令嬢のおよそ三倍の時間である一か月半の時を持ってしてやっとのことで習得したという過去がある。当時の家庭教師が苦し紛れに「少し不器用なきらいがあるようですね」と両親に報告していたことは、在りし日のヴェネットも知っていた。
だからこそ、不器用なヴェネットが公爵令嬢らしくあるために、彼女は彼女の持論に基づいて常に人の3倍の努力を心掛けてきた。効率と合い慣れない彼女、しかも特に幼い頃は、ただ我武者羅に習ったことを繰り返す毎日だった。すれ違う人すべてにカーテシーをしてみたり、お気に入りのテディベアの前で教科書を読み聞かせてみたり。起きている時間のほぼすべてを勉強にあてたことも一度や二度ではない。小さな身体を文字通り駆使しながら、ヴェネットは努力の人となった。
しかし、ここで思わぬ弊害が起きる。あまりにも健気に頑張るヴェネットに対し、チェスカー公爵家の面々が夢中に………それはもう王家顔負けの見守り体制を敷いたのである。
先に述べたように、ヴェネットが努力の人となったのは幼い頃。五~六歳の頃にはすでに、彼女は日々努力に明け暮れていた。想像してほしい。金髪ボブにぱっちりした菫色の瞳をした齢五つの可愛い女の子が、ふらつきながら何度もカーテシーの練習をしている姿を。己よりも大きなテディベアに背を預けて本を読み聞かせている姿を。チェスカー公爵家は悶え転げ回った。当主夫妻も、ヴェネットの兄弟も、使用人たちも一人残らず、もれなく全員叫んだ。
そして、ヴェネットがチェスカー家の癒しとなるのにそう時間がかからなかったことは想像に容易いだろう。仕事の合間に父が様子を見に来たり、母や兄弟が扉の外から見ていたり。使用人たちまでもが廊下から聞き耳を立てて見守っていたものだ。そして、それらが恥ずかしくて、いつしかヴェネットが隠れて頑張るようになっていったことも想像に容易いだろう。
自室に籠る、早朝や夜に勉強をする、昼間は出来るだけ遊び惚けているように見せかけるなどなど。とにかく人目を気にした生活習慣を彼女は試行錯誤するようになった。もっとも、不器用な彼女が隠れて頑張るなんていう器用なことが出来るはずもなく。彼女自身が隠れていると思っているだけで、実際は周りが見守る場所を少し遠くにしたり、望遠鏡という文明の利器を使うようになったりと、隠れたいヴェネットの意志を尊重した見守り体制に切り替えただけだったということを、ヴェネットは学生になってから初めて知った。今となっては笑い話だが、当時はあまりの驚きと羞恥で二日寝込んだ。
こうしていつしか、ヴェネット・チェスカーが「不器用」であることを知る人は限られるようになっていった。繰り返される隠れた努力の日々によって、不器用ながらも着実に、彼女は隠れて努力することが上手になっていったのである。当初の彼女を知る人や、彼女を心から愛し理解しようとする人でもない限り、他人は彼女が身に着けた仮面に騙されるようになった。努力する姿を一切見せないのに上位の成績を修める姿を見て、ある教師は彼女のことを「器用」だと褒め称えた。
そして今、ついにヴェネットは器用を超えて、「怠惰」だと称された。見えない努力の極限形態ともいえる何もしていない人だと、ウィリアムとフェミリアは確かに声を上げた。
これによってヴェネットの胸を埋め尽くしたのは怒りでも絶望でも羞恥でもなく、かつてないほどの歓喜だった。不器用な自分の見えない努力はついにこの領域まできたのだと、純粋に感動していたのだ。だから糾弾の直後は声が出なくなって身体が震えた。人は喜びが極限になった時、声も出ないものなのだと、ヴェネットは初めて知った。
ウィリアムたちの糾弾が、観衆の目の前だったということは確かに少し不運であったかもしれない。ウィリアムや友人ならばまだしも、全く知らない生徒から「あの人、怠惰だって言われて喜んでいた人だ」と認識されるのは良心に悪い。それでも、怠惰の言葉とそれに続く婚約破棄宣言で、もうどうでもよくなってしまった。やはり、人は喜びが極限になった時、声も出ないのだ。…………こんな彼女の胸の内を、赤の他人は知る筈もないが。
「おい、おひいさん。そう一人ではしゃぐな。周りが完全に呆気に取られてる」
ヴェネットの突然の発言に応じる声が上がったのは、沢山の生徒たちが立ち竦む人だかりの一角、ダンスホールの出口に最も近い辺りだった。突然の出来事に言葉を失い静まり返るホールに、張りのあるバリトンが響き渡る。
現れたのはこの場に集う生徒たちと同じ位の年頃の青年だ。ただ、いうなれば体躯がとにかく勇ましい。令嬢たちはおろか令息たちよりも頭一つ分以上大きな彼に、気の弱い者たちが顔を蒼褪めさせた。が、ルドと呼ばれた彼———ヴェネットの護衛騎士であるルドウェルは、そんな観衆には全く気にした素振りをみせること無く、真っ直ぐに主人の下へと向かって行く。
「ねぇルド、聴いた?私が怠惰ですって!生まれて初めて言われたわ!」
「はいはい、おひいさん。よかったなー」
「ふふ、これも日頃の隠密行動の賜物ね!晴れて私も不器用卒業だわ!」
「いや、それはない」
「即レスはやめてくれない?」
当たり前のように隣同士で並んだ彼らは、主従にしては軽い口振りで言葉を交わした。ヴェネットの抑えきれない喜びの理由は、幼い頃からの付き合いであるこの護衛騎士ももちろん知っている。だからこそ、嬉しそうに満面の笑顔を浮かべるヴェネットの頭を、ルドウェルは大きな掌で乱暴に掻き撫ぜて、目元だけで小さく笑った。
主人と護衛騎士にあるまじき行為、どちらかと言えば幼馴染や兄妹に近い距離間のやりとりだが、その程度の違和感に注目する者は最早この場にはいない。突然笑顔になった令嬢と、何処からともなく現れた騎士の男という得体のしれない彼らの、一挙動一言動すべてを監視するかのごとく緊張感に包まれた観衆たちの間には、シャンデリアの光でも暖められないほどに張り詰めた空気が充満しているようだった。
「まぁ、そこの第二王子サマが果たしておひいさんの頑張りに気が付くかはチェスカー家内でも意見が分かれてたしな。おひいさんに対して怠惰だ不勤勉だって言い出すなら、きっとその人だろうとは思っていたが」
「え、そんなこと考えてたの?」
「おう。必死に隠れながら頑張るおひいさんの可愛い姿は公爵家と公爵家の親族内では有名な話だが、やはり他人はそれなりにおひいさんを気にしていない限りは気が付けないから」
「そういうものなの?というか、可愛いは余計よ」
「バカ、そこが一番重要だわ」
特徴的な八重歯を見せて笑うルドウェルに対し不服そうに顔を顰めたヴェネットだったが、突如強い力で腕を引かれたことで息を飲んだ。勢い余って堅い背中に鼻をぶつけ、じくりと熱を持ったような感覚にうっすらと涙が滲む。
突然ヴェネットを隠すように立ちはだかったルドウェルの正面、つまり観衆の目前でヴェネットがずっと対峙していた相手。ルドウェルの背後からその先を見やれば、ヴェネットが声を上げたあたりから硬直し続けていたウィリアムとフェミリアが、ハッとしたように瞬いていた。きょろきょろと視線を彷徨わせて、先ほどまでは居なかったルドウェルの姿を見止めたウィリアムが大声を上げる。
「なっ………なんなんだ、お前は!」
「あぁ、はじめまして第二王子サマ。俺はおひいさん……ヴェネット様の護衛騎士をやってるルドウェル・シーザックだ。もっとも、おひいさんとアンタが婚約してからの十年間、一度もアンタと会わなかったことは奇跡だな」
「うわ、ルドがヴェネット様だって。プクク……」
「……おひいさんはちょっと黙ってような?」
「それは、ヴェネットが怠惰でろくに妃教育にも参加しなかったせいだろう!」
ウィリアムが力強く人差し指をヴェネットに向ける。親の仇を見つめるようなその睨みの視線に、ヴェネットが反射的に軽く肩を揺らし、ルドウェルが不愉快そうに眉を顰めた。
妃教育とは読んで字のごとく、王子の婚約者が必ず受けなければならない王家主導の花嫁修業だ。王族に名を連ね、国母となるかもしれない未来の王子妃を教育するため、身のこなしや淑女のなんたるかはもちろん、外交や経済、時事言語など幅広い分野の知識を身に付ける。もちろんヴェネットもウィリアムと婚約した十年前から受けており、不器用ながら必死に食らいついてきたつもりである。なので、もちろんヴェネットが妃教育に怠惰になっていたということは無いのだが…………もちろんこれも、いくら王族関係者と言えど、彼女が頑張る姿を知らない人間は知る由も無いこと。本当にコイツはおひいさんに一切の理解もないのかと、ルドウェルは心底呆れ、大きく溜息を吐いた。
「はぁ、隠れて頑張ることが上手くなるのも考えものだな」
「貴様に用は無いのだ、騎士ならば騎士らしく控えていろ!そしてヴェネット!さっさと今までの怠惰を謝罪しろ!こんなにも情けをかけてやっている俺を待たせるな!!」
「そうですわ、ヴェネット様!どうかこの場で懺悔なさってください!ウィリアム様は貴女のためを想ってご提案なさっているのです!」
怒りに身を任せるウィリアムに加え、彼の隣に立ち並んだフェミリアまでもが叫んだ。貴族らしい白魚の肌には朱色が混じり、鋭い光を帯びる視線には、悪者を排除しようとする絶対的な正義が宿るようだ。己たちの優位性を疑わないその顔つきはいっそ清々しいほどで、キンキンと脳に響くような甲高い声がホールに響き渡る。
そして、ヴェネットとルドウェルのやりとりに緊張していた観衆たちも、二人の勢いに魅せられたのだろう。二人に続くようにして当初の非難的な空気を取り戻し、あっという間にホールを包まんばかりの騒めきと共に、ヴェネットの懺悔を求めるような声を上げだした。あまりの展開に、ヴェネットは緩く苦笑するしかない。だって「最悪の怠惰」「身の程知らず」「稀代の悪女」………悪女とまで言われる筋合いは、正直無いのだが。
「あー、うん。おひいさん。どうする?」
「さすがにこれじゃ、手に負えないわ」
「おひいさんが隠れること上手くなりすぎたせいだからな」
「えへへ、ごめんなさい。でも、ルドには良い策があるのでしょう?」
「まーな。何年おひいさんの護衛騎士やってると思ってんだ」
苦笑したまま、ヴェネットはルドウェルを見上げた。いくら歓喜の想いがあっても、こんな状況になってしまえば興が醒めるというもので、ヴェネットの胸中にも流石にこのままでは分が悪いという思いが湧き出したのだ。
公爵令嬢として観衆の目前で懺悔なんて絶対にしたくないし、そもそも「怠惰」という言葉はウィリアムが勝手にヴェネットに当てがった言葉、いうなれば事実無根の冤罪の言葉である。その言葉でヴェネットが喜ぶのは別として、ヴェネットに悪い影響を及ぼすのはいただけない。この状況は今、己の手で打開しなくてはならなかった。
怒りの色を浮かべるだけのウィリアムとフェミリアの顔を一瞥し、ルドウェルが怪しく笑う。その顔にヴェネットはもう一度苦笑して、そして小さく息を吐いた。この分ならルドウェルが上手くやるだろうと、確信めいたものを感じたのだ。
ルドウェルがホール中の視線を集めるように右腕を広げ、左腕でヴェネットの腰を抱く。彼がヴェネットの動きを抑えるような態度をとるのは、身を委ねてほしいというサインであるとヴェネットは知っている。だからこそ、彼女も大人しくルドウェルの腕の中に収まった。
そこら中の令嬢やフェミリアの視線がルドウェルに集まり、令息たちとウィリアムの視線がヴェネットに集まる。それらを一周目視してから、騒めきさえも掻き消すような良く通るバリトンは、「これはチェスカー公爵家の許可を持って公開する情報だ」と切り出した。
「〇月×日のおひいさん日記。朝5時に起床したのち、5時15分から剣の鍛錬。日課の素振りを100回こなしてから、ランニング15分。6時に切り上げて入浴、6時30分より家族全員で朝食を摂る。馬車移動中など合間に小テストの勉強をして7時30分登校。その後始業までは静かだという理由で予約制カフェテリアにて自習。時間になったら授業に参加する」
「12時30分昼休み。友人の御令嬢と共に昼食へ。おしゃべりに花を咲かせて休憩をしたのち、午後の授業。ちなみにここのおしゃべりは次の定期テスト予想をしていた」
「午後4時放課後。この日は妃教育のため登城した。王妃様と共に外交の勉強をして、使節団の対応をした。午後8時30終了。その後帰宅。夕食、入浴を済ませ、9時20分より授業の復習、予習。10時に一度休憩を摂り5分から再開。今度は経済の勉強をしていた。11時50分就寝。着床から眠りにつくまでの時間は約3分だった。…………これの一体どこに怠惰があると?」
不敵に笑ったルドウェルにしばし誰もが声を失った。観衆やウィリアム、フェミリアは勿論、ヴェネットもだ。
なんだこの多忙な一日は。朝5時に起きるのに寝るのは11時30分過ぎだと?7時間睡眠はどこにいった。始業の2時間以上前から学校で自習ってなにそのラノベ。てか、妃教育ってそんな長い時間やるの?え、ブラック企業では。そしてどうして私の一日をこんな細やかに知っている!?たしかに四六時中一緒にいるけれど、まさかモンシロチョウの観察記録よろしく毎日記録を付けていたというのか。可愛い可愛いとは言われてきたが、まさか未確認生物的な感じの意味で可愛がられていたの???
そんなヴェネットの想いを感じたのか、ルドウェルが「安心しろ。うまいことおひいさんと学生時代が被らないヴァレク様とヴォルトン様のご希望と、俺の趣味の利害が一致したから正式に記録していただけだ。ついでにおひいさんはペットとか動物っていうよりもどっちかっていうとマスコットだ」と笑ったが、全くもって安心できず、ヴェネットの喉は人知れず引き攣った悲鳴を上げた。兄弟たちの思考と護衛騎士の趣味を全く信用できなくなった瞬間だった。
「ちょ、なん、これ」
「一寸も狂わないとまではいかないが、おひいさんは殆どこんな感じの毎日を過ごしてる。おそらくアンタが見たのは昼休みの食事の時間か、たまの放課後に息抜きに出掛けた時のことだろうな。もっとも、アンタとの婚約が無いときはもう少しゆとりある生活だった気がするが」
「……あれ、そうだっけ?その頃は今よりももっと不器用で時間の使い方が下手だったから、勉強だけで手一杯だった気がする」
「お?じゃあ帰ったら俺のおひいさん観察記コレクションを見返すか」
「まって!?ルドの私物でも私の観察日記があるの??」
「必死なおひいさんは可愛いし見てて飽きないからな。………まぁつまるところ、おひいさんにはこんな感じの記録証拠があるわけだが。まだおひいさんに怠惰のレッテルを貼りつけて、謝罪を求める奴はどのくらいいる?」
しん、と静まり返るホールの中で、ただ一人ルドウェルだけがにこやかに笑うという異様な空気が出来上がった。華麗な形勢逆転。観衆たちの多くはすっかり青ざめた顔色のまま茫然として硬直し、息をのんだまま微動だにしなくなってしまった。
それはそうだ。ルドウェルは「公爵家から許可を持って公開する」といった。つまり、これに反抗するということは、それすなわちチェスカー公爵家に反抗するということ。この場にいる令息令嬢がどの生家かをヴェネットはあまり知らないが、この国でチェスカー公爵家を凌ぐ勢力の家はほぼ無い。仮にあったとしてもそんなことをしたら政治に関する相当な痛手になりかねず、ヴェネット日記の真偽などそんなリスクを負ってまで追求しなくてはならないことではないのが現実だ。………もしかしたら、観察日記の存在と内容の細かさに引いてしまっているだけかもしれないが。
「これで観衆は喚かなくなっただろ。身の程を知れ」というルドウェルの小さな呟きがヴェネットだけに聞こえ、思わずヴェネットも身震いをした。タイルの床に浮かぶ影さえも、人っ子一人動かすことが出来ないまま、永遠にも瞬きにも思える時間が流れていく。それでも必ず現状を打開する最初の一人はいるもので、ルドウェルによって圧されたホールの中で再びヴェネットを睨みつけたのはフェミリアだった。
「こ、こんなの出鱈目でしょう!?貴女がそこの護衛騎士に命令してあらかじめ作っていた偽りの記録でしょう!いくらウィリアム様に婚約破棄されたことが辛かったからと言って、このような茶番劇を繰り広げるのは良くないわ!!!」
「そ、そうだ!フェミリアの言う通りだ!!」
対峙していたことで離れていた間を大股で詰め寄るようにして縮め、フェミリアはヴェネットの真正面で人差し指を突き向けた。彼女に少し遅れて同調するように声をあげたウィリアムも、彼女に倣ってルドウェルの正面に移動する。が、ヴェネットには無い彼特有の威圧感のせいか、ウィリアムの膝は小鹿のように震えていた。
最早、つい数十分前の麗しい令嬢の姿などどこにも無かった。その顔はまさに般若のようで、切羽詰まって瞳孔が開いた目は若干血走ってさえいる。観衆のなかでもフェミリアの顔が見える位置にいた令息たちの誰かが引き攣ったような声を零し、ルドウェルも護衛騎士らしく腰の剣に右手を添えた。しかしヴェネットはそれを手でいなし、「次は私に任せて」という念を込めて視線を送った。すると、一瞬目が合ったルドウェルはすぐに意を汲んだように剣から手を離し、それを背中の後ろで組み直す。その様子に満足げに頷いたヴェネットは、手負いの獣のように肩を怒らせるフェミリアに睨まれながら、不器用ながらも冷静に思考した。
「おそらく、日記の内容はほんとうです」
「どこからその自信が来るのよ?」
「妃教育の進捗情報はその都度王宮のしかるべき地位のひとによって記録されているんです。正式に申請をすれば、記録を拝見して確かめられるはずです」
ひくり。フェミリアとウィリアムの口元が歪み、ルドウェルの口角が持ち上がった。
これに関してはヴェネットの言う通りである。ウィリアムの婚約者として妃教育を受けてきた彼女は、他の令嬢よりもはるかに王宮の事情に詳しくなる機会があった。妃教育は当代の王妃自らが教鞭を取ることもあるため、王妃から情報が提供されることもある。もちろんそのような段階に至るまでには相当の努力と強固な信頼関係の構築が必要であるが、嫁姑関係の構築のための交流と考えれば、なんら不思議なことではない。これは王妃から直接聞いた情報だった。
そしてこれに関しては、ウィリアム自身が最もよく理解していることでもあった。曲がりなにも彼は正当な王家の人間であり、王族の人間として王宮に関する事情は何度も頭に叩き込んだものだ。だからこそ、彼の脳はヴェネットの発言の正当性を理解し、己たちの糾弾に「失敗」の二文字を当てがってしまった。
ルドウェルの目の前で、ウィリアムが崩れ落ちた。タイルの床に両手を付けてそのまま微動だにしなくなった彼を一瞥するでもなく、ルドウェルはフェミリアに視線を移す。
ウィリアムの状態でおそらく自分たちの状況を理解しつつあるだろうフェミリアのその表情には僅かばかりの困惑が浮かんだが、それでもありありとしているのは怒りの色だ。いや、むしろウィリアムが撃沈したことで、その鋭さは更に増しているかもしれない。後がないからか、彼を護るためか。ヴェネットを睨む視線は緩むことなく、半ばヒステリックささえ滲ませてフェミリアは叫ぶ。
「で、でも!その点、王宮での出来事以外は偽装が出来てしまうわ。だって先ほどの日記は公爵家独自のものでしょう!?身内同士の記録ほど怪しいものはないわ!どうしてもウィリアム様と婚約していたいから、婚約破棄に備えてあらかじめ用意していた可能性があるもの!!」
「あはは!それこそ、絶対にありえないわ!!」
そんな彼女に対して、ヴェネットは臆するでもなく、ただ心底おかしそうに笑った。なんの思惑もなく、素のままに浮かんだ彼女の晴れやかな顔に呆気にとられたのはフェミリアだけではない。その声に思わず顔を上げたウィリアムも、観衆の令嬢令息たちも、シャンデリアに照らされて煌めく彼女を凝視した。光に包まれて舞い踊る蝶のように、一人彼女は紅いドレスを翻してダンスホールの真ん中に躍り出る。
「実は私、今日ウィリアム様が婚約破棄を申し出してくださって、すっごく嬉しいのよ?考えもしなかったでしょう?でも、この婚約の破棄を最も望んでいたのは、きっと私だわ」
まるで歌う様に告げたヴェネットは、軽くターンをしてウィリアムとフェリミアの両者を振り返る。絢爛豪華なシャンデリアに照らされたこのダンスホールで、今、動いているのはヴェネットだけだ。不思議なことに言葉がすらすらと浮かぶのは、果たしてこれが心からの本音だからか、それとも何度も思い願い反復した光景だからか。いや、もしかしたら本当にヴェネットは不器用な令嬢から怠惰な令嬢に進化できたのかもしれない。
ぽかん、と間抜けな顔を晒す観衆たち微笑みかけて、彼女は一際大きく声を張り上げた。
「だって、私の想い人はウィリアム様ではありませんから!」
燃える炎のように紅い騎士の瞳だけが、緩やかに弧を描いた。
〇〇〇〇〇
その後の会場は、それはもう混沌の一言に尽きた。
ヴェネットの告白で完全に時を止めてしまったダンスホールだったが、しかしその数秒後には教師たちの乱入で突如パーティーの終了を迎えた。
観衆に徹していた生徒のうち、出口に近かった一人にあらかじめルドウェルが指示を出していたらしく、教師のほかにも警備隊やなぜか王宮騎士団と卒業生の第一王子までがやって来ていたのである。
ウィリアムとフェミリアは騒動の発端として即刻身柄確保の後王宮へ連行。ヴェネットとルドウェル、あとは不憫にもホール中央付近に居た生徒の何人かも事情聴取のために王宮へ移動し、数時間に及ぶ調査を受けた。待機室はウィリアムとフェミリア以外全員が同じ場所だったのだが、みんなルドウェルを怖がっていた。ルドウェルによれば、ヴェネットも怖がられていたらしいが、その真相をヴェネットが知る由も無い。
そしてその翌日には王家が全責任を負う形でウィリアムとヴェネットの婚約解消が行われた。理由はヴェネットの強い希望とチェスカー家がヴェネットの意志を尊重したこと、そしていくら学生のみとはいえ、パーティーという大きな場所での騒動であったので、火消しは不可能だと判断されたからであった。実のところ、彼らの婚約は王家からの申し出をチェスカー公爵家がいやいや飲んだ形であったらしく、国王夫妻と王子たちは、ヴェネットの両親と兄弟たち、ついでにルドウェルに詰められていたのを、ヴェネットはしっかり目撃した。
「そ、それでだな、ヴェネット嬢。ウィリアムとフェミリア嬢なのだが……」
「可愛い俺のヴェネットの名を気安く呼ばないでくださいますか?」
「本当は姉さんを視界に入れることも許したくないのに、そこは一億歩譲って妥協しているんです。身の程を弁えてください」
「いや、わし王様……」
「陛下?何か?」
「いや、何でもないでしゅ……」
そんなやり取りを見せられて、ヴェネットは自分の兄弟に恐れ慄いたものだ。百歩譲って公爵家当主の父が陛下に物申すことは分かるとして、兄のヴァレクと弟のヴォルトンがどうしてそんなに強気でいられるのか全く理解できなかった。母が「これがラブアンドピースよ」と言っていたが、それもよく理解出来なかった。ルドウェルはそんな困惑ばかりのヴェネットを笑って見ていた。
すっかりヴェネットの兄弟たちに頭の上がらない陛下によれば、ウィリアムとフェミリアの目的はこうだった。学園に入学後運命の出会いを果たした二人は、すぐに恋に落ちたという。しかし、ウィリアムにはヴェネットという婚約者がいて、ヴェネットをどうにかしないと二人が結ばれる未来は無い。そこで、ヴェネットの謎に包まれた生活態度に目を付けた彼らは、それをもとに「怠惰」なヴェネットを仕立て上げ、あの観衆の目に晒されたダンスパーティーの場で嘘をでっち上げた。彼らの誤算はルドウェルの存在と、ヴェネットの実態と本音。そのどちらもウィリアムが少しでもヴェネットに気をかけていれば見抜けたことであるが、今更悔やんでも後の祭りであり、彼らの企みは陽の下に晒されることとなった。唯一の救いがあるとするならば、ウィリアムとフェミリアが本当に愛し合っているということだという。二人は互いを支え合いつつ、しっかりと現実に立ち向かおうとしているらしい。事情聴取にも協力的だそうだ。
罰則としては、ウィリアムとフェミリアは王命によって強制的に婚約した。しかし、ウィリアムは第二王子の地位を剝奪され、フェミリアはウィネリー伯爵家を勘当。その上で王家が保有する辺境の小さな領地へ追放され、ウィリアムとフェミリアの二人三脚で領地運営することが命じられたらしい。ちなみに何の因縁か、その領地に隣接する場所にはルドウェルの実家であるシーザック辺境伯の領地がある。もちろん辺境伯には事情が伝わっているので、実質監視下で永年労働するということだ。しかし、あの二人ならばきっと上手くやるだろうとヴェネットは信じている。
(そして、私たちだけれど………)
騒動から数か月。普通の学園生活が戻ってきてから久しく、なぜかヴェネットは毎日同じ光景を目撃している。
軍事に従ずるチェスカー公爵家自慢の広い鍛錬場には、それぞれ自前の真剣を持った兄弟たちとルドウェルが居る。その周辺に漂っているのは戦場顔負けのおどろおどろしい殺気と緊張感で、その発生源はもちろんその3人であった。
ヴェネットの婚約解消のあと、ルドウェルは正式にヴェネットに婚約を申し込んだ。観衆の前で本音を暴露してしまったヴェネットは勿論、ルドウェルも長いことヴェネットのことを好いていたのだ。今までは主従関係と第二王子の婚約者という柵が彼を縛り付けていたが、そのうちの一つが解けてしまえば、もう一つを引き千切ることは簡単だった。
『ずっと、おひいさんが王子サマのものになるのが嫌だった。おひいさんの本当の頑張りも見抜けない間抜けに、おひいさんを取られるのが悔しかった。護衛騎士としては失格なのかもしれない。それでも俺はお前を愛してるよ、ヴェネット』
今でも一言一句すべてを思い出せる。きっとこの告白をヴェネットは未来永劫忘れないだろう。
だがしかし、現実とは難しいもので。
ヴェネットとルドウェル、そして両家両親の承諾を貰うまでは良かった。幸せそうなヴェネットに報告を受けて、チェスカー公爵夫妻は大号泣で喜んだし、シーザック辺境伯夫妻は狂喜乱舞のお祭り騒ぎだった。ルドウェルとヴェネットを当主夫妻として迎える約束まで結んだ。しかし、チェスカー家には最後にして最難関のヴェネットモンペが存在する。…………もちろん、ヴァレクとヴォルトン、ヴェネットの兄弟たちである。
彼らは条件を出した。それはもう単純明快な条件を。「娘が欲しくば俺よりも強くなってから言え!」ならぬ、「妹/姉が欲しくば俺よりも強くなってから言え!」。ルドウェルに対して、実践決闘でヴァレクとヴォルトンそれぞれに勝ってみせろと言ったのだ。ちなみに、兄のヴァレクは現役王宮騎士団のエリートであり、ヴォルトンは神童と呼び声高いエリート騎士の卵である。ヴェネットは思った。ルドウェル、一端の護衛騎士ですけど。
それでも、ヴェネットはルドウェルを信じて待ち続けている。不器用で習得に時間がかかる分、少しずつ辺境伯の仕事や地理を学びながら、ときどき鍛錬場を見やって。
数日前にヴォルトンに勝利したルドウェルは、ここ数週間で素晴らしい改進を見せていると兄ヴァレクが言っていた。人を褒めることが殆ど無い兄からのお墨付き。きっと兄を負かす日もそう遠くないのだろうと、ヴェネットは予想している。
高鳴る胸に未来への希望を抱えて、ヴェネットは今日も剣戟の声に耳を澄ませた。