第一話「はじまりの未知」
第一話「はじまりの未知」
左も右も壁、人ひとりが通れるほどの隙間しかない狭い道に、生首が置いてあった。
髪の長さや顔の特徴的にも若い女性だと思われるその顔は、まるで待ち構えていたかのように一直線にこちらを見つめ、微笑みかける。
ここで普通の人間、普通の状況ならば恐怖のあまり失神するか発狂してこの場から逃げ出すかしてもおかしくないほど怖いシチュエーションではあったが、その微笑みはむしろ俺を安心させた。笑顔など、久しぶりに見たのだ。久しぶりといっても、たった五日ぶりくらいではあるのだが。
「あなた、他の人たちとは違うでしょう?」
恐怖は感じないといえども、やはり生首が喋ると言うのは奇妙な光景であった。奇妙なのだが、そんなことはどうでもいい。藁にも縋りたい、猫の手も借りたい、などと言うがそれに乗っ取れば、生首とでもいいから喋りたい、というのが俺の今の率直な気持ちである。
「他の人と違うって? どう違う?」
「明らかでしょう。こうして私と会話できている。つまり、あなたにも前の世界の記憶があるんじゃない?」
前の世界。
壊れる前の、世界。
人が喜び、怒り、悲しみ、楽しみ、憎み、恨み、妬み、争い合う世界。俺は憶えている。彼女も、憶えているのだろう。ひとつだけ、憶えていないこともあるが。
突然、忘れていた怒りを思い出したかのように、彼女の顔と声が険しくなった。
「そう、私たちは憶えている、前の世界のことを。一体、私たちは何をすればいい? 世界は私たちに何をしてほしい? 何故私たちをこの世界に残したの?」
「私たちってのは・・・それは俺とお前のことか? それとも他にも同じようなやつに会ったのか?」
「・・・これまでに二人、会ったわ。正確には、一人なのだけど。もう一人は見つけた時にはもう首を吊って死んでいたから・・・。彼らが自殺するはずがないから、多分私たちと同じ」
驚きはなかった。そういう人もいるだろう、ではなく、誰でもそうなり得るだろう、と思った。事実、俺がこの時まで生きていることは奇跡に近い。
あの約束がなければ、とっくに狂って自殺していただろう。
「生きていた一人は、旅をしている。私が会ったのも、彼の旅の途中」
「そうか・・・思ったより俺たちと同じような人たちはいるんだな」
それはかなりの救いだった。
しかし心が楽になればなるほど、狂った精神が正常に近づいてくるほど、今度は生首が生きて喋っているという現実が恐怖となって俺の脳を苦しめていた。他人のように言っていたが、もしかして今話していた首を吊った人物というのは本当は彼女自身なのではないか?
気づけば俺は一歩後ずさっていた。
「お前は・・・なんなんだ。何故、生首で生きている」
意外にも、彼女は一瞬きょとんとした表情でいたが、何かに気づいたら風で少し笑った。
何かに気づいた。
もう死んでいることに、か?
「そっか、そう見えるのね」
そう言って生首は、人間になった。まるで体が地面から生えてくるように、首から下が姿を現した。どこかに力を入れた様子もなく、無気力な、自然なその様は地面から押し出されたようでもあった。そして彼女がいた場所に、穴は開いていない。つまり、彼女の身体は地面をすり抜けていたのだ。
俺はとても驚いて、彼女の顔を見上げた。
高い。何センチメートルかは言わないが、俺も決して身長が低い方ではない。しかし彼女はその俺を余裕で見下ろしていた。二メートルは超えているのではないか。
「やっぱり、変? 変よね、女なのに身長が高いなんて」
恥ずかしそうに言う。どうやら身長がコンプレックスだったらしい。
「女なのに身長が高くて変、っていうのはかなりの偏見だと思うが・・・」
「そうなの?」
それが原因でああやって地面に埋まって、顔だけを出していたのだろうか。その思考回路はよく分からなかったが、今考えるべきことは確実にそれではなかった。
彼女が生首ではなく、首から下が地面をすり抜けて埋まっていた人だと判明した今、新たに浮上した疑問が大きく分けて二つある。
一つは、どうやって地面をすり抜けたのか。真っ先に生まれるであろう疑問がこれだが、この壊れた世界で生きていれば前の世界では超能力や魔法としか言いようが無いような現象も日常茶飯事なのである。それらに毎回理由を求めだけ無駄なので、そういうものだと捉えておくのが一番良いだろう。
問題は二つ目、何故彼女がここにいたのか。もし生首であったならば、誰かにここに放置されたまま動けなかったと考えられるが、彼女が自由に動けると分かった以上、こんな狭い道の途中で地面に埋まっていたのはかなり不可解である。
「言いたいことは色々あると思うけど、まずひとつ、大事なことを私から伝えるわ」
髪を整えつつ、彼女は言う。
「私はここから動けない。正確には、この周囲に張られている結界から出られない」
言われて思わず周りを見渡したが、結界らしきものは見当たらなかった。
「あなたには見えない?・・・かもね。多分結界はこの空間に張られているわけじゃない。あくまで私への呪いみたいなものなのだろうから」
そう言いながら彼女は、俺から見て左の家の窓を指差した。
「そこの窓、開けてみて。鍵はかかってないわ」
言われた通り、少し力を入れると窓は容易に開いた。カーテンを捲って部屋の中を見てみると、そこには・・・
「うっ」
即座に目を逸らす。
彼女と目が合う。
「それが、さっき私が話した首吊り死体。一応触れないほいがいいわよ。確定したわけでは無いけど、結界の原因、多分それだから」
言われなくても首吊り死体に触れようとするような度胸は持ち合わせてはいなかった。見るだけで少し吐きそうなくらいだ。
しかし、触れない方がいい、と言うことはどうやら彼女はこれに触れたようだ。
「さて、あなたは曲がりなりにもこの世界で五日間生きてきた人間。何かこの状況を打開できるバグを見つけてないかしら?」
「・・・バグ?」
「そう、バグ。ゲームとかしてたら分かると思うんだけど。ゲームとか、する?・・・するわよね、男の子だもんね」
偏見がひどい。別に女子でもするだろうし、男子でもしない人はいるだろう。
「バグとは、簡単に言えば制作側が意図していない不具合のこと。旅をしていた彼の考えでは、私が物をすり抜けられるのも、その死体に触れたら結界が張られたのも、こんな道が現れたのも、この世界がアップデートしたことにより生じたバグ、らしいわ」
アップデート、だと?
世界は壊れたのではなく、アップデートされていた?
「待て。思考が追いつかないんだが。こんな道が現れたのもって・・・」
「こんな道は元々なかった。前の世界にはなかった、アップデートで生まれたバグ。現に、彼らはこの道に入ってこないし、この道が見えているようでもない。だからあなたがこの道に入ってきた瞬間、仲間だと分かった」
確かに妙だった。人通りの多い道につながっている割には、近くに全く人の気配がしないのだ。
「まあ、もちろんこれは彼の仮説に過ぎないのだけど・・・。仮に世界アップデート論とでも言おうかしら」
「・・・その理論を説明するには、この世界の制作者、つまり神のようなものの存在を前提としなければならないが・・・。いると思うか?」
これは、愚問だったかもしれない。少なくとも俺たちの中では、分かりきったことだった。
「六日前の、あの平凡な世界に生きてた頃の私なら、神の存在なんて一笑に付したでしょうね。でも、こんな世界を経験してしまったら」
「もしかしたら神もいるかもしれない、って思うよな」
そう考えると世界アップデート論はそこまで突拍子もない仮説では無いと思った。世界をゲームのように捉えているのが、特にいい。
この世界はあまりにも壊れていて、とても現実とは思えない。毎朝起きるたびにもしかしたら世界が戻っているのではないかと淡い期待を寄せる自分がいる。いっそ割り切って、ゲームのようにこの世界を遊ぶ方がいいかもしれない。ゲームは、楽しむものなのだから。
「・・・そういうことなら、多分、俺はお前がいうところの「バグ」を俺は発見している」
確かにあれは、バグとでもいうべきものかもしれなかった。左腕の時計を確認すると、時刻は五時半。・・・まだ時間があるな。
「そして、そのバグを使えば、お前をここから出せるかもしれない」
「本当に!?」
「ただ、明日までそのバグは使えない。それまで・・・」
「・・・じゃあ、寝ていいかしら」
そう言って地面に勢いよく突っ伏した。
「あなたも疲れてるんじゃない?」
言われてみれば、そうかもしれなかった。この五日間安心して眠ることなど、できなかったから。
彼女と同じように、地面に寝そべってみる。すると意外なことに、どっと疲れが押し寄せてきた。もう、力を入れても再び立てそうにないくらいに。自覚していないだけでかなり疲れが溜まっていたらしい。
「お前、・・・そうだ、ずっとお前って言うのも変だな。何か呼び名が欲しいところだが・・・」
初対面の人間が会ったならば初めにしそうなことは自己紹介であるが、俺たちの場合そういう状況でもなかったし、もうひとつ、自己紹介がしづらい原因があった。
俺たちは前の世界のことを憶えている。
しかし、ひとつだけ憶えていないことがあるのだ。俺は、自分の名前を思い出すことができない。
「自分の名前、憶えてないでしょう?」
「ああ」
「彼もそうだったから、分かるわ」
「彼・・・旅をしている彼か?」
「ええ。彼はこう言っていた。『名前を憶えていないというのは、名前がないということと同義。名前がないということは戸籍がない、つまり我らはこの世界に本来いない存在なのだ』」
なるほど、本来いない存在。それは俺たちもまた、この世界のバグだということだろうか。
「『しかし、だからこそ、我らは名乗らなければならない。その存在を証明するために』そして彼は、彼自身がつけた、彼の名を名乗った。『「名は体を表す」ということわざがあるが、ならば私は名で体を表そう。私の名前は今日から、「トウソウ」だ』」
とうそう、と声に出して反復する。その名前は、どんな彼の体を表しているのだろうか。
逃走。何かから逃げている?
闘争。何かと戦っている?
「名で体を表す。いい言葉よね。その時、私も自分が名乗る名前を決めたわ。これから私のことは「ムー」って呼んで」
「・・・それはどういう意味なんだ?」
「それは秘密。さて、じゃああなたも、名前を決めて。あなた、って呼ぶのもいい加減飽きちゃったし」
あなたと呼ぶのに飽くことはないだろう・・・。彼女のものの考え方や言い回しはよく分からない。
・・・名前か。まさか自分の名前を自分がつけることになるとは、と思ったが、考えてみるとそこまで珍しい状況でもないのかもしれなかった。ゲームでプレイヤーの名前を決める時、本名をそのまま名前にする人は多くないだろう。友達からのあだ名やニックネームであったり、自分が好きな食べ物であったり、その由来は様々だが、それも自分で自分に名前をつけていることに違いないのである。
本当に、ここがゲームの世界のようだ。
とはいえ、名前を適当に決めるわけにはいかなかった。これはただの俺の気分の問題だが。
暗くなってきた空を見上げながら、あれこれ思考を巡らす。そこでふと、前の世界の記憶が脳内で思い起こされた。俺が絶対に憶えておかなければならない、この世界での俺の生きる理由でもあった記憶・・・
「例えるなら、お兄ちゃんは私にとっての銀行のようなもの。だから、もし世界が壊れたら、必ず私に会いにきて。私はいつでもどこでもお兄ちゃんを待ってる」
「そうだな・・・俺の名前は、「バンク」だ」
「バンク・・・? 銀行? なんで?」
「秘密だ」
「秘密かー・・・まあ秘密はお互い様か。じゃあ、おやすみなさい、バンク」
その言葉に、これまであった色々を、起こした奇跡を実感させられた。こんな、何気ない言葉に。
「おやすみ、ムー」
何気ない言葉を言える幸せを噛み締めながら、二人は深い眠りについた。




