69話 - ①
すっかり桜が散った並木通りに空から糸のように細い雨がぽつりと額に当たる。空も昼過ぎまでは晴れていたのに、それが今ではすっかりと暗い雲に覆われていた。
夕方とも夜とも言える時間に仕事を終えて駅に向かうサラリーマンの黒いスーツの群れに混ざりながら、ベージュのコートを羽織った西園祥子も派遣先である商社から最寄り駅に小走りで向かっていた。
電車に揺られて15分。目的の場所で下車した後、予約の時間にはまだ早いネイルサロンに向かうために駅の中を歩いている時だった。
向かいからトレンチコートを羽織った女性がひとり歩いてくる。
祥子は大学時代に水商売をしていたこともあったし、以前はバンクテラーという仕事をしていたため人の顔を覚えるのは得意だ。そして今まさにすれ違おうとしているこの女には見覚えがあった。
何と言って話しかけようかと考えていると、ふたりの肩がぶつかりそうなほど近づく。
「ねえ」
自分よりも背の高いその人の腕を思わず引っ張っていた。
通り過ぎようとした女性は驚いて「え?」と声を上げた。その時に彼女が手に持っていたパスケースが床に落下するのがスローモーションで見える
「あなた、悠介の?」
そう祥子が話しかけると彼女は自分の顔を見るなり、みるみるうちに嫌悪感を表す顔に豹変した。クリスマスに悠介のマンションで会ったのを思い出しているのか女は「何よ?」と冷たく言い放つ。
確かにあの時は自分が悪かったかなと思うが、このように言われるとこちらも相当の態度で返してしまいたくなる。でもそこはぐっと我慢する。
「前の事悪かったと思ったから謝ろうと思ったんじゃない」
「謝ってもらわなくていいから離してくれない?」
そう言われて祥子もついにはむっとした表情に変えて、床に叩きつけられたパスケースを拾い上げた後、それを自分のコートのポケットにしまった。
「ちょっと! 返してよ!」
落とし物の主は声を荒げて祥子を非難した。
「うるさいな。ちゃんと返すから30分だけ付き合ってよ」
そう言ってのけると彼女の顔は、更に深い皺を眉間に刻みながらこちらを見下ろしていた。
ふたりは駅前のバーに入った。
移動する際にかかった雨の雫をハンカチで拭きながら辺りを見回す。
時間がまだ早いからかあまり人は入っておらず、カウンター席が空いていた。そこに腰を下ろしてモスコミュールを2つ頼んだ。
「飲むでしょ? お酒」
「別に今は飲みたくないんだけど」
「いいじゃない。っていうかそんなにつんつん怒らないでよ。あの時は私もイライラしてたからついあんな事しちゃったけど、本当に悪いなって思ったんだから」
そう話しているとバーテンダーがコースターの上に乗せてモスコミュールをサーブした。
青々としたミントが可愛らしい。
祥子はほぼ無意識でスマホを取り出してから、写真を何枚か撮った。その素早さは見事なもので、日ごろから被写体を何度もそのカメラに収めてきというのは誰もが容易に想像できるだろう。
隣に座った女は冷ややかな目でそれをみた後、「話しには聞いてたけど、めちゃくちゃ写真撮るんだ」と言った。
その言い方にはジャッジメンタルな言い含みがあるように思えるが、その意図には気づかないふりをした。
祥子は写真を撮り終えて満足してから「ねぇ、名前は?」と訊いた。
「……山崎」
「下の名前よ。職場じゃないんだからさ」
「ほのか」
それを聞いて「ほのか」と反復する。
「ほのかちゃんは悠介とはいつから付き合ってんの?」
自分よりも若いであろう彼女に”ちゃん”付で呼ぶことにする。それに対して彼女は急に名前で呼ばれて驚いたような表情をして見せた。
「去年の7月からだけど」
7月というのを聞いてその辺りの記憶の引き出しを開けてみる。
何度か悠介の家に泊りに行ってはいたが、別れて暫くは体の関係を続けていたものの、春先ぐらいから泊りに行くことはあれどそんなこともしなくなっていた。
仕事で遅くなったり酔って家まで帰るのが面倒な日にホテル代わりに寄っていただけで、その時は決まって悠介がリビングのソファーで寝るほどだ。
そして去年のゴールデンウィーク辺りには「もう来るな」と言われた。あの時のショッキングな気持ちが何度もフラッシュバックしてきて眠れない日が暫く続いた。
「祥子さんはまだ先輩……悠介のこと好きなの?」
「……どうだろ」
ほのかの顔を見ると、アーモンドのような形の目を大きく見開いて、驚いた表情を見せていた。祥子は祥子で”先輩”と言う呼び方をしかけたほのかの言葉を聞いて、ふたりは自分にはない関係も持っているんだなと頭の片隅で考えていた。
「何よ? そんなびっくりした顔して」
「ううん。”どうだろう”って悠介も最初同じこと言ってたから」
ほのかはグラスを傾けてモスコミュールを一口飲んだ。祥子も同じようにコクリと、一口喉に流し込む。
「……私たちが付き合ってたのは彼が優しかったからだったし、別れたのは私がバカだったからよ。悠介に何回も縒りを戻そうって言ったのは私の自己中心的な考えで、また縒りを戻したら彼と付き合ってた頃みたいな生活に戻れるかなって思ったから」
「どういうこと?」
祥子はまたグラスの中の透明な液体を少し口に含んで喉に流し込んだ。




