65話
車に揺られること30分でどうやら目的の場所に着いたのか、タクシーが停車するとドアがぱっと自動的に開いた。
降り立ったのはホテルのエントランスで、惚けていると中から何だか分からないがいい匂いが漂ってくる。
エントランスホールの大きな窓から外を見ると都会のネオンが広がっているのが見える。外の景色だけではなく、天井を仰ぎながら装飾を見ていると、「行こうか」と優しくほのかの手をとった。
「上にレストランを予約したから」
――何!? 雰囲気イケメン!? いや、雰囲気イケメン風!
以前にも全く同じことを思ったが、雰囲気によってよりその風味が誇張されているように思える。心地よく聴こえてくる音楽、何だか分からないがいい匂いのするフロア、適切な明るさの照明。これらは全てほのかのような女子が魔法にかかるために計算されているものだと分かっていながら、高揚する気持ちに抗えない。
レストランの席に通されて、アペリティフを口にする頃には酒ではない何かによって酔いしれていた。
「急にこんなところに来てどうしたんですか。知ってたらもっとオシャレしてきたのに……」
「別にいつも着てる服で何の問題もないだろ?」
と言いつつ自分はドレスコードであるジャケットをしっかりと羽織っているところからすると、今日ここに来たのは”急”ではなく、あくまで彼にとっては予定されていたことのようだった。
メインのお肉を頬張りながら糖分多めな真木との話しを楽しむ。
「そう言えばもう大丈夫? 体」
ゴホっとむせそうになるのを抑えて、ゴブレットに注がれている水で喉を潤すと、一拍置いてから「大丈夫です」と返した。
「今週は出勤遅かったから体調悪いのかと思って心配してた」
「いえ、体調は悪くないのですが…………」
「俺に会うのが気まずかったの?」
更にゴホっとむせそうになり、また水を飲む。完全に図星だ。なんだこの人は――エスパーなのだろうか、それともほのかが分かり易すぎるのだろうか。
「気まずかったです。先輩みたいに経験値が高くないので、どんな顔しながら一緒に仕事していいか分からなくて」
「経験値ね。ま、俺も三十路になったことだし、経験値は人並みだったとしても余裕を見せるぐらいの格好は付けたいだろ」
メイン料理を食べ終わり、皿が下げられた後のテーブルの上で、真木が片手でほのかの手をきゅっと握った。
「俺のこと好き?」
「……は!? な、何を訊くんですか!?」
心臓がばくばくとうるさい。
だが、ほのかの手を握っている真木の手が汗ばんでいるのに気づくと、彼も余裕そうに見えて案外必死なのだろうか。
「好きですよ」
ここはキチンと思っていることを伝えるのが礼儀だろう。
そしてひとつ呼吸を置いてから真木がゆっくりと口を開いた。
「じゃぁ、結婚しようか……」
ほのかの手に重ねられていなかった方の手で、ポケットから小さな箱を取り出すと、両手でそっと開けて中を見せた。
間接照明を受けて光を反射したそれは紛れもなく指輪だった。プラチナに輝く輪郭にダイヤモンドが乗せられているのが見える。―—そうだ、所謂エンゲージリングというやつだ。
予想もしていなかったほのかはこれでもかというぐらい目を見開き、驚きのあまり完全に停止。まさにザ・ワールドになってしまったと言える。
息も出来ていないのではないかというほどだが、本人の思考は遥か彼方にあった。
全く動かない彼女を心配して「大丈夫か?」と腕をぺしぺしと叩くと、ようやく緩やかに時間が動き出す。
だが、動き出すと同時に今度は涙が溢れて両手で顔を覆ってしまった。
またもどれだけ時間が経ったのか分からずに、ようやく自分の中の混乱が収まって涙が止まると、鼻をすすりながら顔を上げた。
「します。真木悠介の妻になります」
ほのかがそう言うと真木は彼女の左手を取って薬指に小さな指輪をそっと嵌めてみせる。そして彼はほのかの手を取ったまま自分の唇をつけてから開口した。
「うん。幸せになろう」
そう言われた時、目の前の真木が最高に素敵な人だと思えた。
――なんだ。先輩カッコいいじゃない。
まるでそんなふたりを表すかのようなタイミングでデザートが運ばれてきた。さりげなくウェイターがご「婚約おめでとうございます」と言って去っていくのを聞くと、くすぐったくて仕方なかった。
◆◆◆
ほのかが暫くフリーズしたのを見て真木も一瞬不安になった。動かないほのか、動けない真木。あまりに動かないものなので、このまま心停止でもしたらどうしようかと思い腕をぺしぺしとタップした。
「大丈夫か?」
それだけ言うと仕事を忘れていた時計が動き出し、今度は顔を覆いながら泣き出してしまう始末。
通り過ぎていくウェイターがちらちらふたりを見ている。
これでは別れ話をしているとでも思われていても仕方がない。
メインディッシュの後に出されるはずのデザートがなかなか運ばれてこないのは、プロのサービス精神からだろう。……などと考えながら、目の前の彼女が泣き止むのをひたすらに待つしかできなかった。
5分ほど経ったころだろうか、ようやくほのかの息が落ち着いてきたかと思うと、真っ赤な顔で涙を拭いながらこちらを見た。
「します。真木悠介の妻になります」
その一言に胸を撫でおろした。嫌だと言われたらどうしようかと内心ビクビクしていたが、その一言で杞憂であったと知る。
「うん。幸せになろう」などとベタなセリフを口にして思うのは、「カッコいいことはカッコいい奴がすることだ」とを言った過去の自分に対する自嘲だった。
柄にもなくこんな形でプロポーズしたのは、曖昧な形で恋人同士になったことに対して、ほのかはこういったはっきりとした線引きが欲しいと言ったからだ。
そのために3か月も前からサイズを測って用意していた指輪をようやくほのかの指に嵌めることができて、嬉しさのあまりそこに唇をつける。
子どもっぽい性格をしながらコケティッシュな魅力を持ち、仕事への熱意も申し分ない。そんな彼女を見て思う。
――あぁ、好きだな。




