61話
3月に入って人事部から社内メールに通達が届いた。いよいよかと覚悟を決めていたほのかはそのメールを開くのが憂うつに思えたが、しかしそれは思っていたものと全く違った内容のものだったので、チーム員はみんな唖然とする。
「え? 真木先輩がチーフに昇進ですか? 岡本チーフは?」
メールを見たあと、その場にいないチーフの席を見る。ほのかだけではなく、他のチーム員が顔を合わせて混乱した様子だ。
何より真木本人が一番動揺していたようで、本人も他部署に異動だとばかり思っていたようだった。
「真木先輩は知ってたんですか?」
村上が真木に訊く。
「いや、俺も昇進の可能性があるって話しは先月人事の面接で聞いてたけど……向こうのチームでだとばかり思ってたから」
ざわざわとするメンバーのところに、暫くしてからチーフが戻ってきた。
みんな当然彼の方を向き、困惑の色を隠せないままどういうことだという顔を見せる。
「あ、うーん。僕退職することになったんだ。って言ってもまだ半年先になるんだけど……だから今から真木君に引き継ぎしてって感じかな」
話を聞くにどうやら子どもが出来たようで、フリーランスの仕事に切り替えるそうだ。何でも数年ぶりに再開した元恋人との間に授かったらしい、という情報までくっつけてくれた。
「彼女の方が高校の教師だからさ、僕が主夫になろうかなって思ったんだよね。急きょ予定が大きく変わって申し訳ないんだけど、そういうことなのでよろしくね」
という話があったのが月曜のことだった。チーフも退職と言ってもまだ半年も猶予があるので、想像していたごたごたにはならなさそうだ。金曜の夕方になってほとんどの社員が帰っていく中、ほのかも帰る準備を始めた。
三國は合コンがあるのでさっさと退社したし、村上ももう帰った後で、ここに残っているのは4人だけだ。
「ほのかちゃん、もう帰る? よかったら一緒に帰らない?」
由香里も同じように仕事を終えて声をかけてきた。
「えーと……そうだね」
週末は真木の家に泊まるので、一緒に帰るつもりだったが、彼の方を見るとまだ真剣にスクリーンを睨みつけている。この分ではどうやら少し残業するのだろう。
——由香里ちゃんと駅まで一緒に行って、喫茶店で先輩が終わるまで待つか。
いそいそと荷物をまとめながら立ち上がり、「じゃぁ、岡本チーフ、真木先輩。お先に失礼します」とあいさつをして帰ろうとした。
すると「山崎」と真木に呼び止められる。その声に振り向くと、彼がこちらに向かって何かを投げ、それが放物線を描いてほのかの手の中に吸い込まれるように飛び込んだ。
乾いた金属音がするものを見ると、鍵が手の中に納まっている。
「これは……どっか施錠して帰れってことですか?」
「いや、うちの鍵だけど」
「!!!!!!?」
――いやいやいや! いやいやいや! 由香里ちゃんもいるのに何言ってんの!? 恥ずかしいじゃない!
「はぁ!? 何を! 何言ってんですか!?」
あまりに驚いたので声が裏返る。
「え? 来ないの?」
「いや! そうではなくて!! じゃなくて……帰ります!」
由香里とチーフの冷ややかな視線が痛い。そんな目で見ないでくれと逃げるようにその場から立ち去った。
彼から受け取った鍵を上着のポケットに大切にしまって、オフィスから飛び出す。
「仲良いね。流石毎日のろけ話聞かされるだけあるわ」
半ば呆れ気味の由香里の声に「先輩と付き合ってたの言い出しにくくてごめん」と言う。
「いや、こないだ真木先輩とミーティングに行ったときに知ったというか。……お揃いのペン持ってるって言ってたから、見てすぐ分かったよ」
それを聞いて恥ずかしさ反面、彼が使ってくれてたんだという喜びの方が大きかった。こんな話をすると、またのろけだと言われるので口には出さないが……。
「いいんじゃない。芸能事務所じゃあるまいし、社内だろうが社外だろうが恋愛は自由なんだしさ。ただ、真木先輩とよく会話が続くなっていう疑問はあるけどさ」
「確かに先輩口数少ないよね。でも話してても普通に楽しいけど」
「分かんないわ」
先日「楽しい会話」なるものを真木と出来なかったと聞かされていたほのかは、「ははは」と愛想笑いで返すしかなかった。




