53話
真木が降りた次の駅で下車したほのかは、すぐに反対側のプラットフォームへ移動した。
――だったら最初から一緒に電車、降りればよかったな。
そんなことを考えながら、なかなか来ない電車の方を見ながらひたすら静かに待つだけだった。彼のマンションに着いたのは、それから20分ほど経ってからだっただろうか。エントランスに備えつけられているパネルに真木から教えてもらった番号を入力すると、自動ドアがガ—っと開いてほのかを快く迎え入れた。
3階でエレベーターが止まってドアが開くと、廊下で話している男女の声が聞こえてきた。時間も時間なので、大きな声で話しているわけでは無いが、どうやら揉め事のようだというのはすぐに分かった。
そしてその声は真木の部屋である303号室からで、見たことのない女性とドア越しに話している真木が目に入った。
「先輩?」
思わず声をかけてしまう。
その声に真木がこちらを向き、同時に一緒にいた女性もこちらを見た。赤い口紅が印象的な人だった。その女性の目はまるで自分を訝しんでいるようで、ほのかを見た後にその赤い唇の端を少し持ち上げると真木を引き寄せてその口紅を彼の唇に移して見せた。
その瞬間怒りが一気に上り詰めて、この女を敵と判断する。
女は気が済んだのか踵を返すと、今ほのかが乗ってきたエレベーターの方に歩みを進める。
「じゃあまたね、悠介」と言い残して去っていく。頬を思いっきりひっぱたいてやろうかと思ったが、こんな夜中にマンションの廊下でするようなことではないので、想像するだけに留める。
「アンタ誰?」
……と、言いたいところだが、流石に黙ってはいられず、手は出さない代わりにそう言って彼女をこちらを向かせた。
「少なくともアンタよりは悠介のことよく知ってる女よ」
そう言ってつんとした顔で足早に去っていく。
残されたほのかは、何か言いたそうな真木を玄関に押し込めて後ろ手にドアを閉めると、がしゃんと鍵をかける。
「何ですかあの女! 何であんなビッチなこと言われなきゃいけないの!?」
「悪かった。まさか祥子がいきなり来るとは思ってなかったから」
「ショウコって先輩の元カノですか!? なんで今日ここに来たんですか?」
「今日来たのはたまたまだと思うけど、どうせ男と別れたから来たんだろ」
はあっとため息を吐く真木の顔を見ると、口の端にまだ赤い口紅が少し残っていた。見たくもないのに目に入ってしまって、また腹のそこからムカついてきた。
「おじゃまします」と勝手に上がり、脱水所からフェイスタオルを一枚拝借するとそれを彼の口元に当てて、アグレッシブにごしごしと擦った。
あまりのアグレッシブなので、壁に追いつめられる形になった真木はぺたりと床に腰を下ろした。そこに同じようにして腰を下ろしたほのかは眉間に深い溝を作って、「ムカつく」と祥子の顔を思い出しながら言う。
「ごめんな」
そう言いながらぎゅっとほのかを抱きしめると、暫くして落ち着いたのか、彼女も真木の背中をぎゅっと抱き寄せた。
「もういいですよ。先輩が悪いわけじゃないんですから……ただ……」
「ただ?」
抱きついている彼のダウンジャケットから自分のものでも、彼のものでもない香水のにおいが漂っているのがとことん気に食わない。
「この女ものの香水のニオイは洗い流してください」
そう言われて真木は「分かったと」立ち上がり、ジャケットをハンガーにかけながら、ほのかの方を見る。
「一緒に入る?」
「は……入りません!!!! ていうか、前にも同じ下りしましたよね!」
はいはい、とがっかりしたような口調で風呂場にだらだらと歩いていくが、このままだといつか一緒に入る羽目になりそうだ。
そんな日が来るのが恐ろしいような、恥ずかしいような気にさせられる。




