26話
「”静かに目を閉じた”じゃなぁぁぁぁい!」
突如週末の居酒屋に大学時代からの友人である莉子を呼び出して、ビールジョッキを片手に叫んでいた。周りの喧騒もあって、誰もその雄たけびに気づいてはいないが、向かいに座っていた友人は「うっせぇわ!」と一蹴した。
「何? その先輩と付き合ってんの?」
「付き合ってない」
「じゃぁその先輩の事好きなの?」
莉子にそう訊かれて、持っていたビールジョッキをテーブルに置いた。
「分かんない。私の理想のイケメンとはほど遠いし、なんかオシャレじゃなくて、無精ひげ生えてる時あるし、服だってヨレヨレのダサダサの時だってあるし」
「それって見てくればっかりじゃん。肝心なのは中身じゃないの?」
莉子はほのかと違って恋愛経験値が高い。ほのかがレベル1だとすれば、彼女はレベル50はありそうだ。今も4月から大手女性下着メーカーの秘書として入社したばかりだが、早速社長の息子に気に入られて何度かデートしていると言っていた。
「莉子ほどの恋愛知識があれば、魔王のごとき先輩にも次の一手が上手く打てるんだろうね……」
「恋愛知識はここで愚痴ってるだけじゃ貯まらないわよ。魔王を攻略したけりゃ経験値増やして、レベル上げな」
ずばりと友人に言われ、ほのかは「うん」と返事する以外なかった。
「海ですか?」
「熱海だ」
昼休憩の後ウェブデザイン部の岡本チーフに呼び止められて、今年の夏は部署別慰安旅行の行き先が熱海に決まったと教えられた。
先月にそのような案内が社内メールで回ってきたことを思い出しながら話しを聞いた。
毎年夏には各部署に慰安旅行が会社側からもらえる。総勢50人ほどの小さな会社なので、去年までは全部署一緒に旅行に行っていたが、今年からは小回りが利くとのことで、もっと少人数での旅行になった。
ウェブ部門は開発部とデザイン部を合わせて18名なので、ふたつの部署が一緒に行くことになった。
「熱海かぁ、楽しみですね」
早速旅行先の情報を収集しながら、真木に話しかけた。
「らしいな。俺はあんま海が好きじゃないけど」
「そうなんですか? 楽しいですよ」
「暑いし、何より砂が煩わしくて嫌だな。それかお前が何か楽しませてくれんの?」
真木は魔王らしい笑みでこちらを見つめる。その不敵な笑顔には何の意味が込められているのかは分からないが、最近真木が物理的にも精神的にも近い。
——魔王相手に『こんぼう』じゃ太刀打ちできないのよ……。
ふいに莉子に「好きなの?」というセリフが思い出される。頭をふるふるっと振って邪念を払ったが、そんなもので消えれば今日は寝不足にはなっていない。
幸也に片思いをしていたのとは全く違った恋の悩みがほのかの頭をぐるぐるさせた。
給湯室へお茶を入れに行こうと席を立ち、通路を歩き始めたほのかは後ろを歩いていた誰かにぶつかった。
「あ、ごめんなさい」
そう言って顔を見ると、同じくマグカップを持った幸也だった。
「いいけど……なんか顔赤くない?」
そう言って彼の手が額に当てられると、ひんやりとして気持ちよかった。
「幸也の手、冷えてるねぇ」
「いや、ほのかが熱あるからだな」
別に風邪の予兆は無かったので、恐らく知恵熱が出たようだ。週末から真木のことについて考えすぎたのが体にストレスを与えていたのかも知れない。
「15時で終わったらほのかん家まで送ってくから、そうしたら? どうせ同じ方向だし」
前までだったら手放しで喜んでいたのだろうが、今は専ら別のことで手いっぱいだ。ここはただの友人としてありがたくオファーを受けることにした。
するとその話を近くで聞いていた真木が「体調悪いのか?」と話しに入ってきた。
「飯塚は他部署だろ? 俺が山崎を送って行こうか?」
——何!? 今先輩に送ってもらったらまた流されてしまう!!
「いや、こいつの面倒を見るのは俺の義務みたいなものなので……それに何回か送っていったこともあるから場所も分かりますし。先輩の手を煩わせることはないんで大丈夫です」
幸也の曇りなき眼が魔王を黙らせる。「そうか」といった後諦めて席に着いた。聖剣エクスカリバーでも持っているかのようだった。
◆◆◆
「真木先輩ってほのかのこと大事にしてくれてるじゃん。もっと冷たい先輩かと思ってたけどさ」
「知ってる。優しいの」
ふたりは電車に揺られながら帰路についた。知恵熱はすっかりどこかへ行ってしまったが、真木の事を考えるとまた今夜も寝不足になりそうだ。




