1話
——知ってた。うん。私、知ってたよ。
山崎ほのかはラッシュアワーの電車の出入り口に張り付いて、次に駅に止まったらダッシュでプラットフォームを駆け上がれる準備をした。
いつも大学まで行っていた癖で、今日から出社する会社が今までの路線の逆方向に乗らなければならないことなどすっかり忘れてしまっていた。
しかも気づいたのが3駅も過ぎてからだから、大幅な時間ロスだ。
「いや、まだ間に合う!!」
人の流れを割きながら、気合を入れるための絶叫と共に猛ダッシュで会社のビルまで走った。
すると入口で幸也がほのかがくるのを今か今かと、はらはらしながら待っていた。
「ほのか! 遅いぞ!」
今まで何度も顔を合してきたのに、スーツに身を包んでいる彼を見ると、今まで以上にかっこよく見えた。
ハーフアップにした長い髪を振り乱しながら、息を切らしてほのかは走る。
息を切らしながら、なんとか開始5分前に席に着くことができた。グレンチェックのロングブレザーに襟のない白のブラウス。足元は揃えの七分丈スキニーパンツに5センチのチャンキーヒールという姿は、他の5名弱の白と黒のリクルートスーツの中でよく目立った。
入社式で開始ぎりぎりに席に着いたせいで、その目立ち方はただの悪目立ちに転がらないことを祈るばかりだった。
西浦クリエートはやり手の西浦社長が立ち上げ、つい数年前に上場したばかりのベンチャー企業だ。社員の殆どは20代から30代といういわゆるミレニアル世代で構成されている。人事部や経理部には若干上の世代が混ざってはいるが、それでも40代までの若い力が溢れている企業だった。
入社式を終えて、配属された部署のチーフから呼び止められたほのかは早速お咎めかとハラハラした。振り返ると目に飛び込んできたのは、口元におしゃれなひげを蓄えた男性だった。一見した感じでは、カリスマ美容師を思わせる。
「山崎さん、デザイン部門に配属されたんだけど、今朝人事部からウェブデザインの方に部署替えしてほしいらしいんだよね。だから、内定とは異なるんだけど、4階のウェブ部門に移ってくれないか? もちろん採用条件と異なるから、人事部へのコンプレインもできるけど……」
内定通達には雑誌広告や企業のロゴデザイン等の部門に配属される予定だったが、ウェブサイトサイトや、ウェブ広告専門の部署に異動になった。
つまり幸也と同じフロアで活躍できるようになったのだ。
「かしこまりました」
「うちも人足りてないから、ホントは出したくないんだけどさー。ウェブデザインの方の社員が瀕死らしいんだよね。だからごめんねー」
「大丈夫です! どんな仕事も任せてください!」
そう言ってデザイン部門のチーフに連れられて、共に上の階に向かう。ほのかの足取りは軽く、幸也と同じ空間で仕事ができる、というだけで脳内は幸せモードで埋められてしまった。
他の新入社員が既に自分たちの担当指導者の先輩が宛がわれて、それぞれがペア、乃至チームで自己紹介を始めていた。
先ずは案内してもらったチーフにお礼を言って、改めて配属されることになったウェブデザイン部門の指導先輩への挨拶の準備をした。
「マキちゃーん。今日入社式って言ってあったじゃん。何でそんなヨレヨレのTシャツとビーチサンダルなの?」
ウェブデザイン部のチーフにマキちゃんと言われた長身の男は、同じ髭でも先ほどのチーフとは違い、無精ひげと言った方がしっくりとくるものを口の周りに生やして、ダボダボのジャージパンツによれたTシャツだった。
「すんませーん。人足りてなさ過ぎて昨夜も社内泊だったんで……」
「お前、新入社員の前でそんなこと言ったらブラックだと思われるだろ!」
話しにぽつんと置いて行かれるほのかは、おそらく自分の担当と思われる先輩をじっと見る。そして目が合った瞬間、頭を下げて挨拶した。
「始めまして山崎ほのかです。本日からよろしくお願いいたします」
「山崎さんね。フォトショップは使えるよね?」
「はい!」
「アドビXPは?」
「フォトショップメインですが、ウェブデザインでしたらXPの方がいいかと思いますので……」
「いいのは分かってんの。出来るか出来ないか訊いてんだけど」
——こ、怖い!
「い、一応出来ますが、仕事で使うにはまだ慣れが必要なレベルです」
「オッケー。じゃあ2日で何とかできる?」
「わ、分かりました」
——少し……じゃない! かなり怖い先輩に当たってしまった!?
周りを見ると、女子の先輩が付いている同期は「明日からもっとオシャレして来なよー」とか、男性社員同士では「早速歓迎会企画しようぜ」とか盛り上がっているのが伺える。
なのに、自分の先輩とはここまで私的な会話は皆無! 威圧的な挨拶の後に渡された資料を見て、今受注してる案件の確認と、納期表をPCのスクリーンで確認するだけの時間になった。
——てか私、まだこの人から自己紹介もされてないんだけど!? それにもう昼なんだけど、休憩とかどうしたらいいの!?
隣の机を見ると、マキは忙しなくキーボードを叩いたり、マウスをカチャカチャ動かしたりしていた。これではなかなか声を掛けづらいので、机の上に無造作に置かれた名刺に「真木悠介/Yusuke Maki」と書かれているのを勝手に見た。勝手に見ないと取り付く島もないからだ。
「真木先輩……」
声を出して名前を確認すると、「何?」という返事が返ってくると、「いえ、何でもありません」という外なかった。