10話
台風のような出来事に、ほのかは一連の流れを処理しようと頭を働かせる。しかしMPが足りない。メモリも足りない。
「先輩……」
振り乱した髪に怯えて丸まった背中。ほのかの姿は哀れなそれである。そこに真木の手刀が飛んできて、脳天に軽くチョップされた。
弾みで、頭がぽこんと揺れる。ほのかは黙ってそれを受け入れた。
「痛いです」
「痛くしてない」
そして真木は目を細めながらその手刀を傾けて、ほのかの頭に掌を乗せた。
「怖かったな」
そう言われて我慢していた恐怖心が遅れながらやってきたかと思ったら、少し涙ぐんでしまった。正直怖かったし、キモかった。それに夢の壁ドンがあんな色気も何もないものだと知らされたショックも大きい。
でも何より、素直に真木を見た時に安心してしまったのだ。
「怖かったです。というか、ここは先輩が助けてくれるのが定番かと思ったのですが」
「かっこよく助けられるのは、かっこいい奴だけだ」
真木の手がほのかの頭の上からするりと顔のラインを辿って頬に振れる。彼女もその触れた手の行方を静かに見守る。
そして触れた右の頬が思いっきり抓られ、皮膚がびろーんと伸びた。ぐーんと引き伸ばされたところでぱちんと弾けるように手を放されて、ほのかの右頬はひりひりと疼いた。
引っ張られたほっぺたを擦ったときに、自分の手が少しかたかたと強ばっているのが分かった。それを真木も気づいてしまったので、そっと手を取ってきゅっと繋いだ。
「帰るか」
「帰ります」
真木がほのかの少し前を歩いて、路地裏から繁華街まで抜ける。いつまで手を繋いでいるか分からなくて、でももう少し繋いでいてほしくて、緩んできた手にもう一度力を入れて繋ぎなおした。すると真木もそれに応えるようにきゅっと力が込もったのを感じた。
先を歩いていた真木がこちらを振り返って「地下鉄でいいのか?」と訊いてきた。振り返られた瞬間に自然とふたりの手は放れることになった。あったかかったものに代わって、ひんやりとした空気が触れると、何だかもの寂しくなる。
「先輩、今日は……今日もありがとうございました。夢の壁ドンがあんなキモいものだったなんて、心底がっかりでした」
「ひとりで帰れるか?」
「は……い、大丈夫です」
――だいじょばない。家に帰ってひとりになるのはちょっと怖い。
真木が右手を伸ばして、ほのかの長い髪を左の耳にかけた。そしてその指が細い首筋にそっと触れる。触れられた部分からぞくりと電気が走ったように肌がざわついて、背中までそれが伝わった。和秀に触られた時とは明らかに違う。
「首」
「はい?」
「アイツに噛まれたところ、跡になってる」
「え!? そんなことになってたんですか!?」
服の袖でごしごしと擦って、さらに赤く目立させる。
「やめとけ、そんなことしても取れないぞ」
「だって、鏡を見るたびにこれが目に入ってトラウマですよ」
どうにもならないので、紙を下ろして首のそれを隠した。そしておもむろに腕時計を見ると、まだ20時を回ったところだった。
少し考えてから、ほのかは頭一つ分高い目線の真木をちらりと見上げた。
―—どうしよう、まだ帰りたくない。終電まででいいから誰かと一緒にいたいな。
「先輩……」
何かを言いかけたところで真木のスマホが鳴った。「ちょっとごめん」と、彼が画面に表示されている名前を確認すると、ほのかに対して正面を向けていた体を少し傾けてから電話に出た。
「あぁ、ごめん。少し遅れるから先に入ってて。祥子の名前で予約してあるから。……うん、じゃぁ後で」
簡潔に電話を済ませると、「ごめん、何か言いかけたのに」と謝った。よくよく考えてみればスーパーマンでもあるまいし、さっそうとピンチを察して駆けつけたわけではないのだ。恐らくあのジャズバーで誰かと待ち合わせをするためにあそこにいたのだという方が納得いく。
「いえ、ほんとうにありがとうございました。じゃぁ、また休み明けに」
「……おう、明るい道を通って帰れよ」




