幕間
ぐすぐす…
平民の少女なら誰しもが一度は憧れる、レースの可愛らしい天蓋がついたお姫様のベッド。
それに突っ伏して、一人の小さな御令嬢が泣き明かしていた。
彼女の名前は『桜・秋津』。艶やかな黒髪に、優しげに垂れた大きな瞳、ぷっくりとした唇を持つ美しい御令嬢で、秋津伯爵家の三人姉妹の長女である。
そしてターリア侯爵の三男坊・ノーマンの元婚約者だった。
桜はとても夢見がちな少女で、自分だけの強くて優しい騎士様が白馬に乗って迎えに来てくれると、本気で信じていた。
「私の結婚相手には騎士団長が良いです、お父様!」
「騎士団長は既婚者だ。既にお二人子供がおられる」
「ええーい!では騎士の方で!騎士の方でお願いしますー!」
という話が秋津家で繰り広げられていた頃に持ちかけられた、ノーマンとの婚約話。
ノーマンは侯爵家の三男で、いずれは騎士になる身だと聞き、桜は乗り気で彼とのお見合いに向かったのだ。
考えればすぐにわかるが、三人姉妹しかいない秋津家の長女と婚約。即ち、秋津家の婿養子にさせてくれということだ。桜と結婚するのなら彼は騎士ではなく領主…秋津家の当主となる。
もっと言えば、ノーマンは騎士になりたくないから、良い感じの所の婿養子に入りたいと考えている軟弱者だということだ。
初対面の折、ノーマンのあまりにも貧弱な体つきを見た桜は唖然とし、それまで想像していた『騎士様』像がガラガラと崩れていったのは言うまでもない。
しかし当時のノーマンは桜に対していつも笑顔で、可愛いね、可愛いね、とそれはもう掌中の珠のように大切にしようとする男だった。最初は貧弱なノーマンに気落ちしていたが、やがて桜は優しい彼に惹かれていき、婚約が成立したのだ。
しかしノーマンは王立学園に入学してから、おかしくなった。
休暇日には学園の寮から侯爵家に戻って桜と過ごすと決めていたのに、彼が桜と会ったのは最初の休暇日だけだった。二度目の休暇日は「疲れたからまた今度」、三度目の休暇日は「勉強が忙しいからまた今度」と断られ続け、次第にノーマンは侯爵家に戻る頻度すら下がっていった。
遂に彼は初めての長期休暇の夏休みには友人の領地で過ごすと言って、戻らなかったのだった。
学園に素敵な女性がいたのかと不安になった桜は、ノーマンの気を引こうと健気に手紙や贈り物をし続けたのだが、梨のつぶて。桜の誕生日にすら彼はプレゼントどころか、何のメッセージも寄越しはしなかった。
そして彼が二年生に上がる節目に、桜は父の秋津伯爵に頼み込み、『進級おめでとう』という伯爵の書状と共に自分のラブレターを仕込んでみた。流石に無視はしないだろうと思ったからだ。
すると一応は返事がきた。
『お元気そうでなによりです』
と一言だけ。
「わーい、ノーマン様からのお返事ですー」
と一瞬喜んだが、じわじわと悲しみが込み上げてきて、桜は遂に泣きだしてしまった。それを見た伯爵はノーマンが桜を蔑ろにしている事に漸く気が付き、すぐさまターリア侯爵に事情を説明してくれるよう、侯爵邸に乗り込んでいったのだ。
するとターリア侯爵も寝耳に水だったようで……。
侯爵はすぐにノーマンを呼びだし、説明をさせた。
ノーマン曰く『勉学にかまけて、桜を悲しませてしまいました、申し訳ありません』だそうだ。
侯爵に怒られたノーマンから桜にデートのお誘いが来たのはその週末だった。
「今までごめんね?償わせて?」
という言葉だけで、桜は舞い上がり、一生懸命にお洒落をしてノーマンの手をとって伯爵邸から出て行ったのだ。
連れて行かれた先で待っていたのは、煌びやかな趣味の悪い建物を背景にした体臭のきつい、いかにも育ちが悪そうな大柄の男達だった。
幸いノーマンを不審に思っていた秋津伯爵が密かに娘に護衛を付けていた為、事無きを得たのだが、桜の心には大きな傷が残ってしまったのは言うまでもない。
桜はノーマンに厳罰を下してほしいと願ったが、ノーマンの行いは『誤解だった、単なるおふざけによる遊びだった』で決着がついてしまって……。
それを聞いた桜は更に大粒の涙を零して泣いた。
許さない、許さない!何であんな男が許されたの!?遊びですって?ふざけないで!!
大柄の男達とノーマンは話していた。
『この女さ、消してほしいんだよね。うーん…出来るだけ苦しませてから殺してほしいなあ。ずったずたに犯してさあ。散々俺をイラつかせた罰にさ。そうだなあ、顔を焼いて、喋れないように喉をつぶして…そこまでしても娼館は買ってくれるかな?』
『できれば綺麗な顔は残しておきたいねえ、坊ちゃん』
『駄目だよ、顔を残せばこの女が桜だってばれちゃうかもしれないじゃん。それって困るんだよね。言ったでしょ?消してほしいって。とびっきり安値にするから!それで何とかならないかな?』
『そうだなあ、この綺麗な黒髪なら…顔に面を付けさせて客を取らせれば何とかなるか?』
あの時のノーマンのにやにやとした下品な笑みを、桜は暫く忘れる事はないだろう……
『こんなインクを垂らしたような汚い色に魅力があるか?カラスの方がまだマシだ』
という屈辱的な言葉と共に。
許さない!!許さない!!
この黒髪は、お父様、お母様、妹達、友達、使用人のみんな……大切なみんなに褒めてもらった大事なものなのだ!
「王様が許しても、私は絶対に許さない!絶対に仕返ししてやる!絶対に!!」
ぐすぐすと泣いていた少女が一転、般若の形相でベッドの上に立ち上がる。
「お、お嬢様、そのような所に立つと危のうございます!」
「私、今からアトマ教会に行ってきます!!」
メイド達が悲鳴のような声を出す。
「修道女にでもなるおつもりですか!お止め下さい!」
「違います、単に清めてもらいに行くだけです!」
桜は自分の手を広げて見て、「汚い」と呟いた。
「あの男が触った場所、全て汚くて仕方ないのです。教会の聖水で清めてきます」
言いだしたらきかない。
桜は思い立ったら吉日とばかりに馬車に飛び乗り、教会を目指した。
そして、教会で運命の出会いを果たすこととなる。
教会の前で馬車を降りた桜の足元に、コロコロと赤い野菜が転がってきた。
「……トマト?」
新鮮なトマトだったのだろう、地面を何度も転がったのに、それは何処も痛んではいなかった。
「すみません!」
教会の扉の前で、20歳くらいの青年が慌てて下に落ちた野菜を籠に拾っている。
「落としてしまったのですね?拾うのを手伝います」
桜と、桜のお供についてきたメイドの瑠璃も加勢し、地面に散らばった野菜はすぐに青年の持つ籠に収まった。
「ありがとうございました。貴族の御令嬢とお見受けいたしますが、手間取らせてしまって…」
恐縮する青年に桜は微笑み「秋津の者です」と名乗った。
「秋津の御令嬢でしたか。私はハン…いいえ」
青年は咳を一つして
「失礼。ハンク・レオと申します。オノクル公爵家の御当主の執事をさせていただいております」
オノクル…と呟いてから、桜の頭の中に思い当たる人物が浮かび「まあ!まあ!」と頬を紅潮させた。
「オノクル公爵様と言えば、『戦場の獅子』と謳われる騎士団長様でございますね!」
「ご存知で?御令嬢には無縁の者かと思いましたが」
「大ファンなのです。オノクル公爵様の肖像画を何枚も屋敷に飾っておりますの!あの凛々しさ、雄々しさに憧れぬ女はいません!」
ヒートアップする主人に、瑠璃はハンクにこっそり謝り「お嬢様の憧れの王子様なのです」と釈明した。
「……王子様?おじ様の間違いでは?」
「いいえ、王子様に間違いありません!白いお鬚に逞しい上腕二頭筋!大きな槍を振り回す大きな手!ああ……素敵!」
1人でオノクル公爵への熱い思いを語る桜に、瑠璃は嬉しそうに「ありがとうございました」とハンクにお辞儀をした。
「お礼を言われることはしてないですよ?逆に私は貴方方の親切にお礼を言いたいです」
青年は桜達が野菜を拾ってくれたことを言っているようだ。
瑠璃は桜の熱弁を邪魔しないように小声で話す。
「お嬢様は少し前に悲惨な事件に巻き込まれまして、それから怒りと悲しみのどん底にいらっしゃったのです。ここまで…」
視線を桜に向け
「お嬢様の元気なお姿は久しぶりです」
「私の話を聞いてください、ハンク様!ここからが良いところなのです。オノクル公爵様にはハンリー様とフィン様というご子息がいらっしゃって……!」
教会に何をしに来たのかさっぱり忘れ、桜は今までの鬱憤を晴らすかのように沢山しゃべり続けたのだった。