誕生日ケーキが愚痴のお茶請けにされそうなんだが
俺だけで冬見を祝う二度目の誕生日。会場の準備は滞りなく進んでいた。
日頃親しむ生活スペースは、既にすっきり整っている。定期的に彼女が訪れるため、こまめに片付ける癖がついたのかもしれない。おかげで二時間近くも暇ができてしまった。
十六時三分を示した目覚まし時計を確かめながら、俺は座布団に腰を下ろす。机の向かい、来客用のクッションの上に冬見の姿はない。サークルのミーティングがあるとかで、十八時頃うちへやって来るそうだ。何をして過ごせばいいだろう。
やり残していることがないか、もう一度考えてみる。掃除はたった今済ませたところだ。食材も下処理を終えてあるし、ケーキも買ってある。プレゼントについても問題なしだ。あと思いつくのは部屋の装飾くらいだが、派手な飾りを冬見はあまり好まない。俺自身の趣味にも反するし、わざわざ買い出しに出ようとまでは思わなかった。つまるところ、俺にはできそうなことが見当たらない。惰性でテレビでも眺めていたくなる。
一人葛藤し、リモコンラックに熱視線を送っていると、来訪を知らせるチャイムが響いた。彼女にしてはあまりにも早い。出前も通販も利用した覚えはないし、誰だろう。訪問者に心当たりがない。
居留守を使うのも忍びないので、玄関まで歩くことにした。
扉の覗き穴から外の様子を確かめてみる。するとそこには、ミーティングにいるはずの彼女が佇んでいた。少し長いグレーのチュールスカートに、黒のトップスを合わせた落ち着いた出で立ちだ。アクセサリーの類は控えめだが、服そのものがいつもよりくっきりして見える。だが、衣装とは裏腹に表情は冴えなかった。憮然とした面持ちで視線を落とすその姿は、何よりも雄弁に心境を物語る。
「随分と早いな」
とりあえず迎え入れなくては。玄関のカギを開けて、俺は冬見と顔を合わせる。俺を認めると、彼女のまとっていた空気は幾ばくか軽いものになった。
「ちょっとあってね。部屋、上がっていい?」
眼差しも柔らかに、困ったようなか弱い笑みが問う。涼やかな声にいつもの張りはなく、少し疲れているようだ。冬見を追い返す理由はない。少しでも休めるよう、快く答えてみせる。
「ああ。もう片付いてる」
「あら、あなたも早いじゃない。それでは、遠慮なく」
習慣として体に染みついているのだろう。冬見の会釈によって、その前髪がさらりと流れた。
一連の対応から察するに、俺が原因ではないらしい。こちらで何かしでかしていれば、言葉を交わすより早く、鋭く睨まれているはずだ。
「先に部屋、戻ってるな」
詮索は後に回すべきだろう。土間を空け、彼女が靴を脱げるだけの場所を空ける。一足先に部屋へ戻った。
浴室の方から、手を洗っているらしい水の音が聞こえてくる。
飲み物でも出そうかと冷蔵庫をあさっていたら、手を拭いた彼女が現れた。俺の様子に気が付くと、こちらへやってこようとする。疲れている彼女を雑用に付き合わせるのは躊躇われた。
「座っていてくれ。俺が用意する」
仮にも今日の主役だ。冬見をキッチンから遠ざける。彼女は俺を見る目を丸くした。
「……ありがとう。あなたは、私を中心に据えてくれるのね。甘えさせてもらうわ。麦茶をもらえるかしら」
暗い顔をどこへやら、機嫌よい返事がくる。
うちの冷蔵庫事情を把握しているあたりが彼女らしい。すぐに用意できる冷えた飲み物は、麦茶と牛乳のどちらかだけだ。
「ほらよ」
結露したコップの表面を拭って、片方を手渡した。芝居がかった恭しさで冬見が受け取る。
「ん――」
麦茶を飲む彼女の白い喉に、知らぬ間に視線が吸い寄せられた。渇いていたのだろうか。冬見の一口目は長い。
「ふう。落ち着いたわ」
ゆっくりと喉を潤した彼女が、満足そうにこちらを見た。けだるさの混じる眼差しが、俺の目にはなまめかしい。
見立てに反して、コップの麦茶はそれほど減っていなかった。
「じ、時間よりも随分と早かったじゃないか。何かあったのか?」
ごまかすように、俺は玄関での問いを繰り返す。一瞬にして、冬見の眉間にしわが寄る。爆発するほどではないが、隠れない不機嫌。彼女でも見過ごせないくらいには、根深い怒りらしい。
「もうしばらく機嫌よくさせてくれてもいいじゃない。まあ、話すために来たけれど。甘いものはないかしら。多分長くなるわ」
――甘いもの。買っているのは誕生日ケーキくらいだ。冬見も薄々気が付いていると思う。それでも、糖分を欲していると。よほどエネルギーが足りないのか。
愚痴のお供に選ばれた運命を哀れみつつ、俺は再び食器とケーキを取りに向かった。
※
「誕生日おめでとう」
「ありがとう」
形ばかりのやり取りを終え、取り分けたケーキの味を見る。欠片を口に運ぶタイミングは、冬見とほとんど同時だった。純白のはずのクリームは、この上なく甘いけれどもほろ苦い。
目をつぶり、じっとしている冬見を見守る。口元がもごもごと動き、飲み下したようだ。それでもしばらく動かない。血中に糖が行きわたるのでも待っているのだろうか。
「何を怒っていたんだ」
「今、ネガティブな言葉は聞かせない方がいいわよ。寛容にはなれないから」
尋ねるのが早すぎたみたいだ。大きく開かれた眼に真顔で諭される。抑揚のない冷たい声だ。少しの刺激も危ないらしい。
自らを落ち着けるように、冬見がすーっと息を吐く。
「……悪いわね。八つ当たり気味で。聞いてくれるかしら」
「ああ」
小さく頷いて彼女は話し始めた。
「ミーティングがあるって話は覚えている? 三限のあと顔を出さなくちゃいけない、って言ってた打合せ。虫の居所が悪いのはそれが原因よ」
うんざりした様子で、冬見が紅茶に手を伸ばす。眉が苛立っているが、飲みっぷりは実にスマートだ。
「なるほど。サークルか……」
「サークル」に「ミーティング」。居心地の良い集団とは縁遠い俺からすれば、聞くだけで気力を持っていかれそうな内容だ。口ぶりから察するに、彼女も厄介ごとに巻き込まれたようだが……。
「いったい何があったんだ?」
「誕生会があったのよ、私の」
「は?」
思いもよらぬ返答に、二の句を継げなくなってしまった。
冬見の誕生日を祝う、そんなアットホームなサークルだったのか。彼女が所属しているくらいだから、もっとストイックな集団だと思っていた。サプライズパーティーだなんて、学生生活をエンジョイしていると思う。
まあ、驚かされた本人が苦々しげなのだが。冬見から聞こえてくるのは、ため息ばかりだ。
俺が祝われる立場でも、多分落ち着かないと思う。だからといって、その場から逃げ出す勇気もない。主役がいなくなってしまっては、祝う方も立つ瀬がないのではなかろうか。
「お祝い、無視してきちまったのか?」
「祝われなかったわよ、全く。話を続けてもいいかしら?」
問いかけにも冬見は涼しげに返す。けれど、その顔は憂鬱なままだった。何やら事情がありそうだ。とりあえず聞くだけ聞いてみよう。
「ああ。話してくれるか」
「もちろんよ」
居住まいを正して、彼女が目を開いた。
「誕生会、私の知らないところで準備が進められていてね。開始時刻より早く会場入りしちゃったの。十五分前。代表の怒号が飛びまくる部室の中に、主役がひょっこり入っちゃった空気って想像できるかしら」
「うまく想像できないな」
「準備していた人たちが一斉に青ざめて、気温が五度は下がった気がしたわ」
「はぁ」
簡単には呑み込めない場面説明だった。祝いの話を聞いているはずなのに、和やかなムードの欠片も感じられない。人々が一斉に青ざめるなんて、代表がよほど高圧的なのだろうか。
「問題は代表か?」
「察しがいいのね。正解よ」
冬見が悠然と紅茶に口をつけた。だが、ティーカップを置いたその目には、闘争望む一点の炎が宿っている。いけない。態度こそ平静を装っているものの、内実かなり怒っているようだ。
「私と彼がこじれたの。激怒した彼に付き合いきれなくなって、私は会の中止を提案してここに来た。……こう話すと私の負けみたいね。意識すると、なおさら腹立たしいわ」
声にも棘が現れ始めている。負けず嫌いがよくない方向に働こうとしているのは明白だ。代表、恐らくは年上と騒動になるのは、どうか止めてもらいたい。
余計な火の手が上がらぬよう、何とかガス抜きできないか試みる。とりあえず、もっと会話を意識させよう。
「ひと悶着あったのは何となく分かった。だが、全貌が見えてこない。もう少し詳しく話してくれないか?」
「んっ。それもそうね。持ち込んだのは私なわけだし。感情的にならないよう、代表の人となりから説明したいのだけどいいかしら」
怒っているようでいて、冬見の理性はばっちり働いていた。敵に回さなくてよかったと思うのはこんなときだ。
説明する彼女を見るのは好きだったりする。あわよくば、このまま落ち着いてもらいたいが……。
「それで構わない」
とにかく聞き手に回ろう。
俺が答えると、冬見はゆっくりと目を細めた。
「分かったわ。どうしても主観になってしまうけれど、それは勘弁してね」
恥ずかしそうに微笑んで、彼女が仔細を話し始める。冬見が語る代表の姿は、俺が何となく想像した通りの人物だった。
「とても声が大きい人よ。全身に自信が満ち溢れている。一度決めたら立ち止ったりしないから、集団を引っ張っていくには頼もしいかもしれないわね。事実、サークルはそれで回っていたんだし。ただ、思い込みの激しい人だから、会話をしようとするととても疲れるわ。自分の常識や直感を信じて疑わないの。先入観が強すぎて、意見を聞いてもらおうとするなら、同じだけ大きな声を出さなくちゃいけない」
まとめると、こうなるだろうか。
「ほんと、何であんなに怒鳴れるのかしら……」
最後に付け足されたのは、完全なる愚痴だった。
俺の脳内には、いかつい老け顔のゴリラが生成された。そいつが大音声をあげている姿をイメージしてみて、辟易する。体育会系。俺にも冬見にも似合わない形容だ。
しかし、何がそんなにゴリラを怒らせたのだろう。分析には長けた彼女だ。いかに面倒な相手でも、下手に刺激する真似はしないと思うのだが。
感想と疑問をそのまま口にする。
「人物像は何となくつかめた。ゴリラだな。何がゴリラの怒りのツボだったんだ?」
「森の賢者に謝りなさい。人相が全く違うから。……『時間厳守』だったのよ」
苦々しげに冬見が漏らした。俺の理解はまだ追いついていない。聞いた限り、別に遅刻はしていなかったと思うのだが。
「予定の十五分前に着いたんだろ? お前に非はないと思うんだが」
「なんだか、さっきまでの私を見るみたいで安心するわ。でも、『厳守』なのよ。考えてみて」
「厳守」を強調されても、言わんとしていることが分からない。「この時間に遅れるな」以外に何を意味するというのか。義務教育から幾度も聞かされた「五分前行動」の教えが頭を過る。
「悪い。分からない」
「そう。やっぱり分からないわよね」
冬見は一人で納得して何かを考え始めた。取り残された俺の頭には、疑問符が浮かぶばかりだ。少しは説明してほしい。
「なあ、何が言いたいんだ?」
「あら、ごめんなさい」
思い出したように冬見がこちらに向き直る。その表情は、心なしか憑き物が落ちたようだった。血色の戻った顔と同じく、俺の消化不良も解消してくれるとありがたいのだが。
視線で彼女に続きを求める。
「私も代表から何度も繰り返されたのよ。『時間厳守』って。なぜこんなにも『絶対に遅れるな』と念押しされるのか分からなかった。でも違ったの。『厳守』は、『指定の時刻より後にも先にも来てはならない』って意味だったのよ。『あれほどきつく言いつけたのになぜ早く来た』ってものすごい剣幕だったわ」
「なるほどなぁ……」
早く来てはならない、そういう意味合いも考えられるのか。代表の側からすれば過不足なく伝達したつもりなのだろうが、ちょっと実感が伴わない。こんな心境で怒鳴られたのだとすれば、冬見への同情を禁じえなかった。中立だった心情が、彼女の方へ大きく傾く。
「普通は考えつかないよな」
「誕生会だと知っていれば、また違ったかも知れないけれどね。ミーティングと聞かされていたのよ? 早く行って怒られるなんて思わないじゃない。『準備が』『段取りが-』とがなる代表を見て、私より会の成功が重要なんだとげんなりしたわ。サークルの運営に私の誕生日を使わないでほしい」
冬見がさらに続けようとして、俺の顔を見て口をつぐむ。浮きかけていた腰を落ち着けて、背後にゆっくり倒れこんだ。後ろにあるのは俺のベッドだ。彼女は背中をそこに預け、右の手の甲を額に当てて天井を仰いでいる。
怒ることにも疲れたみたいだ。何か声を掛けるべきだろうか。
「ケーキ、要るか?」
「いい。口に運ぶのも億劫だわ」
「俺が運んでやってもいいぞ」
とっさの軽口に、しばしの沈黙が訪れる。
おもむろに冬見が上体を起こした。睨むとも嫌がるとも知れない強い視線を感じる……。
「答えないわよ」
その頬は、うっすら赤かった。
ケーキを差し出さねば、噛みつかれるだろう。おとなしく、フォークに取った一片を冬見の口の前まで持っていく。
「んっ」
小さく口を開けた彼女は、小鳥の雛みたいだと思った。
「やっぱり、甘いわね。……そっちに行ってもいいかしら」
「動きたくないだろ。俺が行く」
「そう」
隣に座った俺の肩に、彼女は頭を預けてきた。腕に掛かる彼女の体重は、軽く弱弱しい。やはり無理をしていたようだ。
「無理して話すこともなかったんじゃないか?」
「いいの。全部を話したかったのだから。もう少し付き合ってくれるかしら」
「ああ。気が済むならな」
腹に力を込めない楽な声音で、お互いに言葉を交わす。至極身近でうつろな響きは、夢うつつの境を少しずつ曖昧にさせていった。
「これからどうするんだ」
「サークル? そうね、辞めてしまうかも。元々思い入れは希薄だったから。あなたと話していると、戦う意思もなくなってしまいそう」
「そうか。まあ、決めるのはお前だ。俺からは口出ししない」
「ふふ、嫌そうね。まあ、今の私は腑抜けているから。戯言と取ってもらって構わないわ。決めるのは、明日の私だもの」
「そうか」
「ええ、そうよ。それにしても、代表はどうして誕生会なんて企画したのかしら。今までだって誰かが誕生日を迎えていたはずなのに」
冬見の言葉の違和感に、俺の意識は呼び戻された。まだぼんやりしている彼女に、平静を装い尋ねてみる。
「サークルで誕生会なんて今までなかったのか?」
「ええ。準備した経験も祝う側で参加した経験も皆無だわ」
「なのにお前だけ祝われそうになったと」
考えすぎかもしれない。けれども、疑惑が徐々に確信へと変わっていく。俺の男としての直感が、サークルの危険性を訴えかけていた。
さらに詳しく尋ねてみる。
「聞きたいんだが、企画したのは誰だか分かるか?」
「代表じゃないかしら。部室でも取り仕切っていたわけだし。他の子は委縮して、とても自発的には見えなかったわ」
俺の中では、もう完全に黒だった。真実がどうであれ、今すぐ彼女を遠ざけておきたい。思ったままをそのままに口にする。
「なあ、ひょっとしてお前、代表から狙われているんじゃないか?」
「えっ」
まどろんでいた彼女の瞳が、はっとなった。問いかけた俺の目を、まじまじと見つめてくる。続けて、顔面蒼白になった。本当に気が付いていなかったみたいだ。
「そういえば、あなたの話なんてしたことがなかったわ。思い上がりでなければあるかもしれない。ここまで頭が回らなくなるものなのね。不覚だわ……」
好意に驚いているのか、好意に気が付かなかった己を恥じているのか判断をつけかねた。これは慰めてもよいものだろうか。
肩を抱き寄せたものか悩んでいると、力強い視線の存在に引き寄せられる。彼女が、確固たる意志を持った目で俺を見つめていた。
「私に不貞の意思はないから」
目を合わせて一呼吸。堂々たる宣誓をいただいた。あまりにも物々しい言葉と態度に、いけないと分かっていながらも思わず頬が緩む。
「ちょっと仰々しすぎないか」
「少なくとも、なびくつもりは微塵もないもの。あなたも、そこは分かっているわよね」
分かっていなければ許さない、という念押し。俺は彼女に肯定の意を示す。
「ああ」
「そう。それならいいわ」
目まぐるしく表情を変えた彼女は、ようやくいつもの顔に落ち着いた。何事もなかったように、残りのケーキに手を伸ばす。粛然と食べ進める姿は、俺の部屋だということを忘れさせた。お菓子メーカーの宣伝を目の前にするような心持ちで、俺は向かいの席に戻る。自分のケーキを崩すより、彼女をこのまま眺めていたい。
「そんなに見られると食べにくいのだけど」
控えられたお声をいただいて、俺は仕方なく紅茶を口にする。冷め切った紅茶に対する感想は特に浮かばなかった。
唇にティッシュを当てた冬見が、口元が汚れていないことを確かめて宣言する。
「サークルは、やっぱり辞めることにするわ」
「ああ」
「今夜は泊まっていいかしら」
「ああ」
しばらくの間、彼女がつぶやき俺が答えた。気が付けば、また隣り合っている。
「ゲッカ」
寄り添う横顔にささやきかけてみる。しなやかに流れていた冬見が、抗議の意思を持って面を上げた。
「下の名を許した覚えはないわよ?」
きれいな名前だと思うのだが。彼女はどうしても気に入らないらしい。これからもずっと「冬見」でいるつもりだろうか。
彼女と肩を合わせ、彼女の名前を考える。窓を見れば、もう日は暮れかかっていた。