NYARLATHOTEP#6
灰の正体は死後に変異した生物の死骸…ナイルズは一人の少女が遺した携帯電話を不思議な力で起動し、その中にある動画を再生し始めた。
登場人物
―ナイルズ…調査に赴いたジャマイカ風の男。
午後1時8分:モンタナ州、某所山中
ナイルズは階段を急いで登り、あの服が落ちているところへと駆け寄った。朽ちて原型を残しつつも残骸と化している木のベッドの側には朽ちゆくあの服があり、ナイルズは屈み込むと服に付いた灰を指で掬い、それを躊躇い無く舐めた。その瞬間周囲で妙な不可視の気配を感じたものの、ひとまずナイルズはその味を噛み締めた――やはり日記通りに、暗澹たる不快な金属めいた味だ。そして彼は走って階段を再び降り、開け放たれた入り口のドアを抜けて外に出ると、あの気味の悪い池の岸に積もっている灰を掬って舐めた。やはりこれもあの不快な味だ。
ナイルズは鋭い眼光を池に向けた。今ではもう確信できる――やはり何らかの実体が池にいるのだ。それも恐ろしく邪悪な実体が。忌むべき前時代の仄陋に過ぎぬ者ごときが、かような狼藉を働きおるか? 傲れる尤禍の怪物よ、この冷たい水底で今なお生き永らえているであろう貴様の事を思えば、その怒りは苛烈極まるというもの。しかしてまだ仕掛けて来ぬなれば私は私で自由に調べさせてもらおう。そして貴様について更に知る事ができた時には、貴様は私を自由にしておいた事を後悔するのだ。
「まだ対決の時ではない」
ナイルズはゆっくりと歩きながら引き返した。そして湿った室内へと再び足を踏み入れると、あの2階にある惨劇の部屋へと踏み入れた。色褪せぼろぼろになりつつある服と、その上や周囲に薄く積もった灰の粉の近くで屈んだ。そして今度は左の指でそれを掬って、右掌にぱらぱらと撒いた。彼の双肩からは、実体化した怒りがゆらゆらと立ち登っては、部屋に染み付いた湿気にじゅうじゅうという悲鳴をあげさせていた。
マッケンジー家の日記のような、惨劇を語る記録がないかと思い、彼は寝室を隈なく探した。しかしながら周囲には剥がれた壁板がところどころ転がっているのみで、結局ベッドの残骸を探る他なかった。朽ちて崩れた木片を掻き分けていると、その中から少し古い世代の携帯電話を見付けた。既に朽ちてぼろぼろだったが、ノキアなどでよく見かけた当時の一般的な、平たく煙草の箱程度の大きさのモデルだった。湿気で既に壊れている事は見ての通りだったが、彼は端末に刻まれた記録を読み取るように凝視し続けた。すると朽ちた携帯電話にあろう事か電源が点き、彼はそれがさも当然であるかのように驚く事もなくデータ・ストレージ内を探った。やがてファイル名が10年近く前の年月日になっている動画ファイルを発見し、重々しい心境でそれを再生した。
「ああ、もう最悪。気が付いたら知らない山奥まで来ちゃってるし。しかも愚痴ろうかと思ったら何故か友達にメールすら送れないし。ムカつくからビデオに撮って愚痴るわ。大体なんでパパはあんなに反対したの? 私だけパーティーに派手なお洒落して行けなかったせいで絶対浮いてたわよ。あんなダサい服なんて!」
動画ファイルはこの携帯電話で持ち主自身を映したものであった。恐らくは親と喧嘩した家出少女だろう。写っている様子を見ると車内で撮っているらしかった――社内に射し込む光からすると時刻は真昼前後、ファイル名と服装を見るに季節は秋頃である。
「はぁ、もう最っ悪…なんか天気悪くなって来たし」
「あれ、私なんでこんな所に…さっきまで車に…」
少女の声色はぼんやりと寝起きのようだった。彼女はこの間、携帯電話のビデオ機能を起動し、ずっと撮ったまま歩いて来ていた。彼女は車内で次第にぼんやりとし始め、やがて車から降りて歩いて行った。あの護法善神じみた黒々とした樺林を抜けて来たのだ。
「嘘、いつの間にか擦り剥いてるじゃん…」
映像は今のところ真下を映しており、画面左側に彼女の脚が移っているのでだらんと垂らした右手に携帯電話を持っているのだろう。下草はよく見ると奇形だった――ナイルズが先程歩いた家の外もそこらに奇形の下草が生えていた。少女は恐らくこの時点では廃屋近くまで来ていたのではないだろうか。
「やだっ、何ここ…あの廃屋気持ち悪い…」
声に怯えの色が混じり始めた。ナイルズは自然と歯を強く噛んだ。
「あ、まだ撮ってるわね…これで」
少女は廃屋を映し、やがて気味悪さから逆を向いた――自分ごと後ろを向いたのだろう。
「この池は綺麗かも」
池は穏やかであった。しかしやがて、不自然な漣が立ち始め、少女もそれに気が付いたらしかった。カメラは漣を映し始めた。彼女の息遣いからするに、段々と恐怖を感じ始めたように思える。不自然な漣が出ているのはあの井戸が水没していた辺りだ。ナイルズはふと、何か異様な感じがするあの陥没はクレーターが中心なのではなく井戸が中心なのではないかと思い始めた。実際、今彼が見ている動画にも水没した井戸が映っているではないか。
するうち暗い星間宇宙を思わせる水底に、ぼんやりとした光が見え始めた。少女自身は今こうして見ているナイルズよりも遅く気が付いたらしく、何あれと震えた声で呟いた。その色は次第に濃さが増し始め、はっきりと見えるようになってくると漣も徐々に大きくなってきた。そしてそれに伴って慄然たる音がじわじわと響き出して、少女に更なる恐怖を与えた――その音が明らかに、マッケンジー家の惨劇を綴った日記に出てきた『でゅわんでゅわん』という異音であろうと思えたため、ナイルズの眉間には強く皺が寄った。
少女は悲鳴をあげて走り始めたが、焦りからかこの廃屋へと入ってしまった。咽返る黴の悪臭と不快な湿気さえもその足取りを止める事叶わず、ぶれる映像にはところどころこの廃屋内にある家具の残骸や階段が見えた――喪われた楽園にかけて、正常な判断力を喪失した彼女は誤って2階へ逃げ込んでしまったのか。
「やだっ、嘘でしょ!? 何あれ、何なのあれ!」
悲鳴混じりの声は聴くに堪えない。彼女はこの部屋で震えていたのか。
「誰か助けて! あの音と光がっ! ねぇ誰か! パパ、ごめんなさい! 私が悪かったから! ねぇ神様お願い!」
張り裂けそうな声を掻き分けて聴こえてくるは、あの尋常ならざる異音。床に落ちた携帯電話越しにはあの光は見えないが、ナイルズは恐ろしい事に気が付いた。彼がこの廃屋へ入った時に太陽光が当たった部分から、あの奇怪な色が立ち昇って厭わしい蒸発が起きていたではないか。ならばこの家自体がやはり、既にあの水底に封印されているであろう実体の触覚か外部器官のように動くとでも言うのか。ならば彼女以外の、これまでの犠牲者は? 灰の量も服の残骸も一人分しか見当たらぬなれば、それら残りの犠牲者はいずこへ?
「ごめんね、パパ。ママもごめんね! もう会えないと思うから! ああ、こんな事になるなんて!」
がさがさという音がして彼女は携帯電話をベッドの残骸の中に入れた。涙声は後悔してもし切れない、窮極的な悔悟と絶望に満ちており、次第に音が割れ始めた。
「もう一回パパとママに会いたい! やだっ、あれが!? 来ないで、来ないで!」
それからこの世のものとは思えぬ絶叫が響き、悍しい音割れが入ったそれは心底苦しそうな音が混ざっていた。ナイルズはただただそれを無言で視聴していた。やがて録画が終了したのか、動画のバーが右端に達した後画面が停止し、中央に再生マークが表示された。
ナイルズは立ち上がると、俯きながら震えていた。それは恐怖ではなくもっと別の感情であり、ポンペイを滅ぼした火山のごとく煮え滾っていたのだ。何故この映像を遺した少女以外の犠牲者が見当たらないのか、その理由に漸く察しがついた――あの池にいる実体は邪悪なアドゥムブラリ同様の精神を蝕む力を持ち、恐らくは他の犠牲者達は池に引き摺り込まれたのだろう。動画を撮った少女も車からここまで連れて来られたと考えれば説明ができる。池に潜む実体は近くを通る人間の精神に入り込み、思う存分咀嚼したのだろう。そして携帯電話の持ち主である少女は逃げようとしたものの、精神に忌むべき影響を受けてこの廃屋へと誤って逃げ込んだのか。
黒いスーツのジャマイカ人は遂に我慢が限界を迎え、猪のようにだっと走り始めるとそのまま朽ちた壁を突き破って2階から飛び降り、その勢いのまま池の畔へと駆け寄ると、轟々とした叫び声をあげた。
「下郎よ、聞こえるか!? これは貴様の罪ぞ! 知性があるにも関わらずかような残虐性を備えるか! 今すぐそこから出てくるがよい、この臆病な虫けらめが!」
「暫く観察しておったが、やはりこの世に原形質の生命が存在しておるという事か…」
するとナイルズの激昂を無視するかのように響いた宇宙的でグロテスクな声の持ち主が池の中からずるりと這い出た。大いなるジャガンナートにかけて、とても人間による正視が可能な実体ではなかった。もしも間近で目撃してしまえば、あの少女と同じく精神がぐちゃぐちゃに溶け果て逃げ惑うはずだ。それは全体的に見て、明るい紫色に輝くガスめいたもので、絶えず脈動しながら悍しい色で煌めいていた。死にゆく星の無惨な姿のごとく悍しい。仮に地球人がこの実体の見かけ上の冒瀆的な姿に耐えられた場合、幸運にもその最も恐ろしい部分は地球人にとっての不可視光であるため、それを視認するにしても赤外線などで着色する事である種のフィルターにかけられるが、もしもその真の姿がありのままに認識できたならば、その犠牲者に何が起きるかはナイルズにさえ想像すらできない。
「我が名はナイアーラトテップ、命踏み躙る怪物よ、何か申し開きをしてみるがよい」
ジャマイカ風のナイルズ、人の姿をしたナイアーラトテップは、手に結晶じみた戦鎚を握り、邪悪への怒りを渦巻かせて力強いギリシャ彫刻のごとく立っていた。
「命? 奪う? どこに生命が? 貴様をようやく生命体と判断できたところだが」
その自覚の無さを聞くと、ナイルズは怒りで気が狂うかと思うような苛烈さに身を焦がした。