2.ボカディーリョ売り、美女に会う
朝、芦田は目を覚ますと米をとぐ。炊飯器にセットしてスイッチを入れると着替えて自転車に乗る。10分程自転車を走らせると、パン屋がある。
南田パンというパン屋で、この界隈ではコッペパンが有名なパン屋である。芦田はここでバゲットやクロワッサンを作ってもらっていた。毎日まとめて仕入れるため、安くておいしいパンを手に入れられるのだった。
芦田がボカディーリョ売りを始めたころは既製品のパンを買っていたのだが、南田パンに通ううちに、なんとか頼んでボカディーリョにちょうど良いサイズのパンを作ってもらっていた。ボカディーリョを買うお客さんは、おやつがわりに高校生の裕太のようにハーフと呼んで、半分に切ったサイズを求める人達も多かった。
特別なものを作ってもらう以上、個数を不安定にすることは、なかなか難しい。ここ最近芦田は一週間毎に一日あたりの個数を決めてパン屋に予約し、毎朝当日分を受け取っていた。
芦田は店に入り挨拶すると、
「今日は、サッカー場に行こうと思うんだ」と店長に言った。
「それじゃあ、稼ぎ時だね」店長がパンを紙袋に詰めながら返す。
芦田はパンを抱えると、
「まだ、ちょっと残ってるからさ、今日で売り切りたいよね」と言った。
南田パンの店長は、
「売れ行きがいいとうちもありがたいけどさ、体が資本だから、あんまり無理するなよ。今日も暑くなるってよー、まだ夏じゃねぇってのによ。倒れられちゃぁ、それこそ困っちまうわな」と言って笑った。
芦田も笑いながら、「じゃあ、どうも」と言って店の外に出ると、自転車のかごにパンを入れ、手を振りながら自転車を走らせた。
芦田が家に戻ってくると、ご飯が炊けている。鍋を火にかけ味噌汁を作る。いつもパンと生ハムばかり食べていると、ご飯と味噌汁が食べたくなるのだった。
腹ごしらえをすると、車に商売道具を積み込み出発する。
「今日は、じいさんのとこは無しだな」芦田はつぶやいた。
試合開始は13:00からだが、ボカディーリョ屋は午前中から営業していることが望ましい。移動にもいつもの場所より時間がかかる。芦田はそう考えていた。
芦田はワーゲンバスを走らせる。
日差しは強いが、窓を開けると気持ちの良い風が入ってきた。知らずのうちに芦田は鼻歌を歌っていた。
サッカー場の駐車場の脇に止まっているワーゲンバスの側面のカウンターの中で、芦田は座ってカフェコンレチェをすすっていた。
キックオフ前の慌しさはひと段落して、サッカーの試合が始まっていた。
なんとか予想を上回る売上で満足していたが、今度はハーフタイム中にやってくるお客に出す在庫が足りるかどうかが芦田の頭の中では気になっていた。
時折スタジアムの中から漏れてくる歓声を聞きながらぼーっとしていると、突然バタンと助手席のドアが閉まる音がした。
芦田は後ろから車を降り、運転席を開ける。助手席には女性が座っていた。
「あの、どちらさま?」芦田は戸惑いながら尋ねた。
女性は、10代後半にも見えたし、20代にも見えた。東洋人にも見えたし、西洋人にも見えた。髪の色は黒く、目の色は青くはなかったが、大きな目と高い鼻が人種をよくわからなくしているようだった。
(ハーフ?)芦田はそう思い、
「エクスキューズミー。ハウアーユー?」と尋ねてみた。
フロントガラスの向こう側を無表情でじっと眺めていたその女性は、芦田の方を向くと、
「ひとつ頂いてもよろしいですか?」と言った。
(日本語しゃべれるんだ)と芦田は安心すると、
「あー、普通の生ハムのボカディーリョでいいですか?」と尋ねた。
助手席の女性は、ゆっくり頷いた。
芦田は「少々お待ち下さい」と言って、運転席のドアを閉めると、車内のキッチンへ向かいボカディーリョを作り始めた。
(なんだあの女は!めちゃめちゃ美人じゃないか!ハーフなんだろうか?でも、少し発音が変だったな)
芦田は以外な展開に少し興奮しながら作業をする。
ボカディーリョを紙に包んでいると、スタジアムの中からスーツを着た男が二人ゲートへ向かって走っていった。
(なんだ!?)芦田は手を止め、男達を眺めていると、目の前にスーツを着た西洋人の男が突然現れた。
「あなた、不審者をみませんでしたか?」男は走って来たようで少し荒い息で芦田に尋ねた。上手い日本語だった。
「...いや、特に見てませんが...」そう言ってから芦田は、
(っていうか、俺の車にいる女はなんだ?不審者か?)と思い鼓動が早くなった。
スーツの男は、首を左右に振り、辺りを見回していた。
すると、助手席のドアが開いて例の女性が降りてきた。
降りるなり、スーツの男の前に行き、
「ちょっと!商売のじゃましないでよね!」と叫んだ。
芦田はまったく意味がわからなくなり、口を開けてみているしかなかった。
女性はさらにスーツの男に詰め寄ると、
「ちゃんと許可取って営業してるのよ!言いがかりをつけるなら警察を呼ぶよ!」と叫んだ。
(ちょっと!実は許可取ってないんですけど!)
芦田は思い切り叫びたかったが、口を開けたままで精一杯だった。
女性はスーツの男の体を反転させる様に男を押した。
スーツの男は肩をすぼめる仕草をして、そのままゲートの方へ走っていった。
芦田は一連のやり取りを飲み込めず男の後ろ姿を眺めていたが、女性が口を開いた。
「お願いがあるの」
「はい?」と芦田が返す。
「駅まで車で送ってくれませんか?時間がないんです」女性はそう言って、芦田の目を見つめた。
芦田は色々と理解できないことが多かったが、女性が急いでいることだけは理解できた。
「急いでるの?」と芦田は女性に尋ねた。
女性は芦田の目を見ながら頷いた。
芦田は紙に包んだボカディーリョを女性に渡すと、
「前に乗って」と言って、最低限発車出来るようキッチンを片付けた。
発電機も止めて中にしまうと、ワーゲンバスの側面と後部も閉じ、運転席に乗りエンジンをかけた。
「すぐそこの駅でいいんだよね?」芦田は女性に尋ねると、女性はボカディーリョを食べながら頷いた。
二人が乗ったワーゲンバスはスタジアムのゲートを出て、国道に入ると駅に向かった。駅までは車で5分位の近い距離だ。
「ハーフ?」芦田はハンドルを握りながら、女性に尋ねた。
女性は首を横に振った。
「日本語うまいね」もう一度芦田は話しかける。
「勉強しました」女性は答えた。
「名前はなんていうの?僕は、トモユキ・アシダです」
少し間があり、
「私は、ミラです」と女性は言った。