1.ボカディーリョ売り、日々を暮らす
春の陽が照らす港の堤防には、釣りをする老人とそれを見守る青年がいた。
老人は、まばらな春の雲の間から差し込み、海面に反射する光が眩しそうに釣り糸を上げた。
黙って餌をつける。また濃い群青の海の中へナイロンの釣り糸を放り込むと竿を置いてつぶやいた。
「まだ来ねえな」
老人は座りながら、じっと竿の先を見ている。
「いずれ慌しくなるよ」
老人の後ろに立つ青年が言った。
青年の後ろには一台のワーゲンバスが止まっていて、窓には雲と日差しが反射していた。
「今日は暑くなりそうだからな、夕方からがいいかもしれん」老人が顔を動かさずに言った。
「そう。じゃあ今日はカタクチイワシは諦めるかな」青年はそう言って運転席に乗り込んだ。
青年はハンドルを握ると、日差しが眩しくてサングラスをかけた。
「今日は暑くなりそうだからな、帽子かぶったほうがいいよ」青年は運転席から老人に叫んだ。
老人は黙ってジーンズの尻ポケットからキャップを取り出しかぶった。
青年はエンジンをかけ、車を走らせ、いつもの港を出ると町に向かった。港から橋を渡ると磯の香りが薄くなる。青年はいつも橋を渡る前に深呼吸をするのだった。
彼、芦田という男は車で移動販売をしていた。
天気の良い日、大体老人はサビキ仕掛けでカタクチイワシを釣っていたし、芦田もそんな日は大体港に寄って老人の釣果を気にしたり、ときどきは一緒に竿を出したりした。
昼前に芦田はオフィス街にやってくる。
ここで彼はボカディーリョを売るのだ。ボカディーリョとは、バゲットに生ハムなどを挟んだもので、生ハムの塩気とバゲットの噛み締めるほど出てくる甘みがちょうど良いスペインのサンドウィッチだった。
オフィス街のいつものちょっとした広場の脇にワーゲンバスを止めると、車を降り、バスの側面を開いた。これでやっと移動販売っぽい形になる。外で発電機を回し、バスの後ろから乗り込み、エスプレッソマシーンをセッティングする。クーラーボックスから生ハムの塊やバゲットやチーズやオリーブオイルやバターを取り出し、いつもの位置に並べる。数日前に港で釣ったカタクチイワシで作った、自家製の簡易アンチョビも冷蔵庫に入れる。
街のなかでは12時前でも結構お客がやってきた。
昼をずらす必要がある仕事の人達や、朝食と昼食の間として芦田のボカディーリョを食べる人達だ。
12時前はバゲットのボカディーリョよりクロワッサンに生ハムを挟んだものが良く出た。
12時を過ぎると、忙しさはピークに達する。
芦田の一日の売上はほぼこの時間で稼ぐと言ってよい。残りの食材と並んでいる客の数にも気をまわさねばならない。大行列とまではいかないが、平日の昼は最大10人程は並んでいた。
「生ハムのボカディーリョと、カフェコンレチェ下さい」
近くの会社に勤めるOLがやってきた。
「お、ありがとうございまーす。今日はチーズはいいの?」
芦田が答える。OLの真紀は常連である。
「うん。今日はいい」と真紀が返す。
芦田はテキパキと作業を行なう。チラチラと真紀を見ながら、
(まったく、今日もかわいいぜ!都会に咲く一輪の花とはこいつのことだ!コケティッシュスマイルの真紀とは俺が名付けた最高の賛辞だ!これでもくらえ!)と思いながら、
「はい、ボカディーリョとカフェコンレチェお待ちどう様でしたー」と言って、商品を渡す。
お金を受け取り、お釣りを渡すと、今日もこの時間が終わってしまったと、この瞬間芦田はもの寂しい感情を覚えるのだが、並んでいる客はそんな感傷に浸っている隙を与えてはくれない。
ピークは13時過ぎまで続く。
夕方になると芦田はワーゲンバスを走らせ、いつもの公園に行く。その公園は駅から伸びる商店街の間にある。商店街の先は住宅街で学校もある。スーパーの駐車場にはいつも焼き鳥の移動販売がいて、芦田の定位置は公園の脇だった。日も暮れてくると学生も立ち寄る。
「おっさん、俺、パンコントマテのハモン入り、ハーフで」
高校生の裕太が芦田に注文する。裕太は高校生で部活帰りにたまに立ち寄る。芦田の常連だ。
「お兄さんだって言ってるだろ」芦田はおっさんと呼ばれることが気に食わないようだ。
裕太の隣にはいつも舞という裕太と同じ高校の女の子がいる。
「おっさん、あたしクロワッサンのハモン入りで」舞が注文する。
芦田は「だから、お兄さんだって」と答えながらボカディーリョを作り始める。
裕太と舞は笑いながら、もう別な事を話題に話をしている。
(こいつら、注文のセンスはいいのだが、25歳の俺をおっさん呼ばわりするのはいったいどうしてくれようか)
芦田はそう思いながらボカディーリョを紙に包む。
「はい、おまちどうさま!」
「どうもー」
裕太と舞はボカディーリョを受け取ると、公園のベンチに二人並んで座る。裕太は制服のブレザーのポケットからコーラのペットボトルを取り出す。舞も同じようにブレザーのポケットから炭酸水のウィルキンソンを取り出す。
コーラなどは芦田のところで買うより他で買ったほうが安いからだ。
「今日の部活きつかったー」裕太がコーラで喉を十分潤してから話した。
「ゆう、今日走らされてたもんね」舞が返す。
裕太はサッカー部で、舞は演劇部だった。いつも舞の方が早く部活が終わるのだが、裕太を待ってから一緒に帰るのだった。
「あー、あたしもそっちにすればよかったかな」舞が裕太の食べかけのボカディーリョを見ながら言った。
「あ、食べる?」裕太がボカディーリョを舞に向ける。
舞は何も言わずに、裕太の手首を掴んで食べかけのボカディーリョにかぶりつく。
「んー!ふまい」舞が食べながら話す。
裕太は自分が食べたところを舞が食べるという行為を、いえ、ぜんぜん気にしていませんよ、と言う風に、「太るぞ...」とつぶやく。
それを聞いた舞が笑いながら、
「うるさい!」と言って軽く裕太の肩を叩く。
二人の一連の流れを暇な芦田は眺めることになる。
「かぁー!青春だねぇー」
そう言ってエスプレッソをすする。
(しかし、チェリーボーイ裕太よ。舞ちゃんはたしかにかわいいが、既に小悪魔っぷりが出てきておる...果たしてお前の手におえるかな?)
芦田は余計な裕太の恋の心配をし、腕時計を眺めた。夜が更けてくると商店街でボカディーリョはあまり売れなくなる。もうそろそろ帰っても良い時間だが、芦田は10分待った。
すると、裕太と舞が立ち上がり、芦田のところへやってきた。
「おっさん、これお願いね」
「すみません、お願いします」
そういって、ボカディーリョの包み紙と空のペットボトルを芦田に渡す。近くにゴミ箱がないので、いつも芦田に捨ててもらうのだった。
二人の帰る時間は割と正確だった。電車の時間に合わせていることを芦田は知っていた。
「おう、気をつけてな。おやすみ」そう言って、芦田は二人を送り出す。
芦田は店じまいをすると、ワーゲンバスを走らせ、自分の家に向かった。
しばらく車を走らせると、海岸線が見えてくる。そのまま海岸線を走る。いつもじいさんが釣りをしている港へ向かう橋が見えてくる。その橋を渡らず、海辺の方へ曲がる。すると辺りが松の木林になる。林の端に小さな小屋があり、ワーゲンバスはその小屋の中に入っていった。平屋の小屋は車を止める所と住家が一体になっていた。
芦田はワーゲンバスからクーラーボックスを持ち出し家の中に入れる。それから布巾を持って車に戻り中の調理台などを掃除する。それが終わると、また家に戻り、台所でクーラーボックスの中身を冷蔵庫に入れる。
ひと段落すると、あまったバゲットと生ハムと缶ビールをテーブルに置き、テレビをつけてソファに座る。
こうして腹を満たし、一日の疲れをとると芦田の一日は終わる。
「明日は、サッカースタジアムだな」
芦田はスマホでスケジュールを確認して、バゲットをかじった。