ホムレン 1-6 第六話
「……爺さん。何を言ってるんですか?」
いきなりの言葉に主税は思考が停止し、視界が真っ白になっていくのを感じながらようやく口にできた台詞はそれであった。
主税にとって爺さんは、短い付き合いながらも、田舎暮らしに必要なことを教えてくれる師匠のような、年上の悪戯仲間のような存在になっていた。
こちらに正式に移住するにせよ、このままの生活を続けるにせよ、爺さんは常に此処に居て、できの悪い弟や息子のように叱りながら、それでも悪戯っ子のような笑顔で色々引っ張りまわしてくれる、そんな欠かすことのできない、主税がここで田舎暮らしをするという夢の一部となっているのである。
それが、田畑を売ろうとしている。ここから居なくなろうとしている。
主税の頭の中では「なぜ?」「どうして?」と納得のいく説明を求めながらも、心では「嫌だ!」と、駄々っ子のように拒否をしている自分が居た。
「なにも、今すぐって訳じゃない。買うにしても結構な金額になるだろうしな。わしとしては、どうせ売ることになるなら、見ず知らずの赤の他人よりかは、ちったぁ気心の知れたやつの方が良いってだけの話しだ。まぁ、こんな辺鄙な土地買い手がつくかどうかも分からんが…」
「いや、そういう事じゃなくて、何があったんですか!?」
「この間、息子から電話があった……。部長に昇進したらしい」
あぁ、と主税は納得してしまった。爺さんの息子は何処かの中堅企業に勤めていたはずだ。企業によってはまちまちだが、だいたい部長以上の所謂経営陣に名を連ねると定年退職の規定の範囲外になってしまう。爺さんの口ぶりからもその息子さんの勤める企業は、そういった方針なのだろう。
常日頃から『息子にゃ農業はできんよ』と、口癖のように言ってはいた爺さんだが、心のどこかでは、定年後の居場所を用意しておいてやりたいと考えていたんだろう。いずれ帰ってくる者が居るのなら、その可能性が有るのなら、それまではと気を張っていたのが、一気に萎れてしまったのかも知れない。
「だからと言って、土地を売る必要はないんじゃないですか? 息子さんは息子さんとして、爺さんたちはここで暮らせばいいじゃないですか?」
主税としても、このまま『はいそうですか』と言うわけにも行かない。実を言うならお金ならそこそこ持っている。大学3年の時に交通事故で無くなった両親の保険金と、それまで住んでいた一軒家を売った代金は定期に入れて、残してある。いやらしい話、利息だけで年15万円ほど受け取っているのだ。主税としては、今の会社の給料だけで十分生活できるので、その利息すらも手を着けていない。
それでも足りないなら何処かから借りるしかないだろう。稲作の機材一式ともなると、結構な数に登る。爺さんはお米の個人販売もしているので尚更だ。トラクタにそのアタッチメント、コンバイン、田植え機に育苗の培土機、刈り取ったお米の乾燥機に脱穀機、玄米の保管庫に精米機、さらには光学式の選別機も持っていたはずだ。それに土地もとなれば、それこそ幾ら有っても足りない。
どうしてもと言うのなら、無人販売で年間40万以上の売り上げを出して、納税申請して、それを元に就農証明をしてもらい、その上で農協などから借り入れをするしかない。
もっとも、農地を買う時点で就農証明は必要になるのだから、どの道とらなくていけなくなるのだろうが。
しかし、事は買えるから買うと言う話ではないのだ。
できれば爺さんにはこれからもここに居て欲しい。もちろんお婆ちゃんにもだ。いうなれば、主税の我侭である。主税自身にもその自覚はある。
「さっきも言ったが、今すぐって訳じゃない」
「というと?」
「わしも婆さんも、もう70を過ぎとる。この先いつおっちぬか分からん。今は二人だから何とかやっていられるが、これが一人になったら今迄みたいには出来なくなる。だから、それまでに決めて欲しい」
「おっちぬって、爺さん」
「しかたなかろう、お迎えなんて、来るときは来るもんだ」
「そりゃぁ、そうですけど」
「で、そん時に、これまで生活を支えてくれた田んぼを安心して任せれる奴に引き継げるのならそうしたいってだけの話だ。もし受けてくれるのなら、これから暇を見て教えれることは教えていく。まぁ、今《現代》じゃぁ、分からないことが有ったら、農協か農業普及課に聞けば大概の事はタダで見てくれるから、ずいぶん気楽に成ったがな」
気を取り直すように明るく喋る爺さんから目を逸らし、縁側に座る御婆ちゃんの顔を見れば、少し寂しそうな翳りを持ちつつも、何処か納得しているような面差しで柔和な笑顔を浮けべてこちらを見つめていた。
恐らく息子さんから電話があった後にでも夫婦で話し合ってこの事を決めたのであろう。
後継者にと指名されてるような状況に若干嬉しく思いながらも、自分達の終について相談する老夫婦の姿を思い浮かべ、寂しさも感じる主税であった。
「そういう事なら、暫らくは会社を辞める訳には行かないですね」
どの道、今すぐにと言う話ではない。ならば少しでも引き伸ばしたいと考えながら、主税は口を開いた。
「まぁな、色々手続きとかも有るだろうし直ぐの直ぐにとはいかんだろう」
主税の言葉に承諾とも拒否とも受けかねて爺さんが相槌のようなことを言う。
「いえ、そうじゃなくて、専業になるにしても、時期と言うか、タイミングと言うか、できることなら受ける恩恵は最大限に受けたいと持ってますので……」
「ん?」
主税の言葉にいぶかしむ爺さん。恐らくもっと他の条件を求められると考えているのだろう。
「いや、なに、俺が今の会社に勤め始めて6年目になりますが、年金が貰える様になるのに20年必要ですので、あと14年は会社を辞めることはできないなと思って。だって勿体無いじゃないですか、せっかく6年間も払ってきたのに、此処で止めたら一銭も入ってこなくなるんですよ?」
田舎暮らしに憧れながらも、そこは抜け目の無い現代っ子の主税である。その手の計算(?)もそれなりにはしているのであった。
「はっ?! あと14年もたったら、わしらは90手前だぞ? 何を言ってるんだ兄ちゃんは」
「そうですね。でも、できるだけそれまでは頑張って貰わないと。なにより俺の年金のためにね」
「図々しい兄ちゃんだな。まったく、まじめに話をするのが馬鹿らしくなってくるは」
何処か呆れたような口調で言う爺さんに、さっきまでの歯切れの悪さは無くなっていた。
「まっ、さっきの話は、考えておいてくれればそれで良い。話はそれだけだ」
「考えるだけでいいなら、考えておきますよ」
「全く、くちのへらん……」
主税が少し茶化した受け答えをすると、いつもの頑固さが戻ってきた爺さんがぶっきらぼうに応えながら口をへの字に曲げる。
「さてと、今日はこの辺で失礼します。暗くなるとご飯が作れなくなりますから。それと、お茶ごちそうさまでした」
いいながら、主税は腰を浮かし、コップの底に残っていたお茶を飲み干して、軽ワゴンへ足を向ける。
「おう……、また来いよ」
爺さんの声を受けながら「えぇ、また」と応えて、軽ワゴンに乗り込み此方での我が家へ車を走らす。
運転をしながらも、爺さんとお婆ちゃんの顔がどうしてもチラついてしまう。
ニュースとしては見聞きしていた農家の後継者問題だったが、こうして目の当たりにすると何処か物悲しさを感じてしまう主税であった。




