ホムレン1-3
主税は愛車の軽ワゴンから降りると、畑と家の庭を眺めた。
6月の半ばともなれば、少し目を離しただけでそこは雑草天国と成り果ててしまう。ましてや何年も放置されていた畑ともなれば尚更で、堆肥を混ぜ込まれ、肥料の撒かれた畑はよほど住み心地が良いらしく、先週植えたキュウリの苗を追い越す勢いですくすくと育っている。
「また、草刈からかな」
溜息混じりに、主税は軽ワゴンからガソリンの携行缶と2ストのエンジンオイルを降ろしながら、納屋へ草刈機を取りに行く。雑草の種が落ち着くまでには最低7年はかかると言われているので、草刈はコツコツやるしかないのだろうと諦めている。
除草剤を使えば楽なのであろうが、流石に自分の食べるものには使いたくは無かった。元々健康志向で始めた野菜作りなのである。虫対策の農薬や、病気対策の消毒も同じで、出来るだけ使わないように育てて行こうと主税は考えていた。本業なら、作業効率から考えても単一作付けにならざるおえず、そうなれば虫や病気に対しての備えとして農薬の使用もやむないことであるが、現状ではまだまだ趣味の段階でしかない主税の野菜作りなので、こだわる所はこだわりたい。
それならいっそ完全有機栽培でもと思うのであるが、平日は仕事を抱え農作業ができるのは週に一日半、堆肥を作ったりする手間を考えると、とてもではないが、手が回らない現状なので断念している。ましてや有機栽培での肥料計算ともなると、参考になる資料も殆ど無く、経験則に頼らざるおえない。農業講習に通い始めて一年、自分で野菜を作るのはこれが初めての主税にそんな知識の蓄えは当然無く、できる範囲でやろうと決めている。
もっとも、自分でできる範囲で無理せずどうやるかを考えるのも、家庭菜園の楽しみの一つであり、真っ白なノートに輪作や、相性を考えながら育てる野菜の植える場所などに頭を悩ませるのも、心躍るものが有るのだが。
幸いにして主税の借りられた畑は家庭菜園と呼ぶにはいささかどころかかなり大きい。その恩恵で畝の間をかなり開けて取っているお陰で、畝間の雑草の守に草刈機が使えるのはありがたい。
持って来た草刈機を地面に置き、ついでに家の周りの草も刈ってしまおうと、多めに燃料を調合しながら今日明日の作業を考える。
(いい加減エンドウの片付けはしたいな。トマトと茄子、ピーマンの剪定もしておきたいし、白菜やキャベツの後始末もしたいし)
主税が畑を借りたのは去年の年末。当然白菜の種まきなどできないのだが、春先に「もしかして育つかも?」と、素人ならではの無謀さで種をまいたのだ。
結果、白菜は丸まることも無く、春の麗かな陽気のもと、すくすくと育ち、おりからの遅霜の支援を受けてか、主税の菜園の一角に見事な菜の花畑を作り出してくれたのである。
「あぁ、やっぱり白菜はアブラナ科で間違いなかったな……」
微妙な疲労感のもと、これはこれでと、菜の花の先端を摘み取って「おひたし」にして食べたのは、ゴールデンウィークの出来事であった。
今では、それもいい経験と思う主税だが、畑の後始末となると話は別である。キャベツや、白菜は根元が硬く太くなり、根もきついので、抜くとなると大変な作業である。それをまた今度、また今度と面倒がってるうちに菜の花畑は黄色い枯れた菜の花畑へと移ろっていった。
「それ以外にやることと言ったら…」
主税が向けた視線の先は畑の空きスペース、借りた面積が一反と広すぎるため、今の所はその三分の一も野菜を植えていないのだ。
「また爺さんに頼むかな」
使ってはいないが一応草の面倒は見ている。とは言っても、なにも主税が自分で草を刈っているわけではない。近くに住む農家の爺さんに月に一回ほどトラクタで耕してもらっているのだ。
主税の持っている家庭菜園向けの手押しの耕運機では半日近くかかる作業も、トラクタに乗ってやれば一時間も掛からない。頼んでおけば爺さんが空いてる時間を見つけて勝手に耕して行ってくれる。燃料代と手間賃で一回千円払っているが、自分でやることを考えれば安いものである。
ついでに野菜の状態を見て色々アドバイスもしてくれるから有り難い。まぁ、田舎の頑固じじぃな所も有るので、口うるさく感じるときも無くは無いが、体裁を整えながらもいやらしくこちらを追い詰める会社の上司や取引先に比べれば可愛いものである。
ちなみにこの爺さん、田舎にたまに居る”何でも自分でやってしまう”スーパー爺さんでもある。農機具の簡単な修理に始まり、作業小屋の建設、畑周りの電磁柵の自作に組み付け、猟友会の人手不足を聞けば狩猟免許を取って、自分で害獣を駆除したりと、バイタリティの塊のような人間であった。
そもそもの出会いは、畑を借りて暫くした頃、爺さんの家に挨拶に行ったのがきっかけであった。が付き合いが短い割には深いような気もする。
軽トラで爺さんが訪ねてきたのは、挨拶してから暫くした土曜日の昼下がりの事だった。
「おぉ、来てたか丁度良い手伝ってくれ」
「え? はい」
何を手伝わされるかも分からないまま、これも付き合いと爺さんに着いて行く主税。
主税が軽トラの助手席に乗り込むと、二十分も走らないうちに山道へと差し掛かる。その山道を更に進み、少しした辺りで軽トラを停め「ついてこい」と言いながら運転席から降りる爺さん。
(こんな山ん中で何するんだろう? 春だし竹の子でも採るのかな?)
のんきなことを考えながら、ワイヤーブロックとロープ持って下生えの藪を書き分けながら進む爺さんの後ろを着いて行く主税の耳に豚の鳴き声のようなものが聞こえ始めた。
(まさか……)
嫌な予感ほどよく当たるもので、爺さんに案内された先にいたのは罠に前足を捕らえられた成獣したイノシシであった。
「一週間くらい前に鹿を駆除しようと罠を仕掛けたんだがな、思わぬ大物が掛かっちまって、それも罠にかかったのが昨日みたいでまだ元気で手を焼いてんだ、悪いが押さえるのを手伝ってくれ」
「へ? いやっ、押さえるって、どうやって!?」
「これだよ、これ」
言いながら爺さんは肩に担いだロープを下ろすと、結わえを緩め、長く伸ばし始めた。
ナイロン製の丈夫そうなロープはよく見れば片方にカナビラが結わえ付けられている。
そして、何も無い片方を近くに生えている木の太い枝の上に「よっ!」と言いながら投げつける。
枝の上を通り、垂れ下がる格好になったロープの先を引っ張り、近くの木にくくりつけると、爺さんは反対側のカナビラの付いたほうのロープの先を革手袋と一緒に主税に渡してきた。
「こいつを持って、ロープを地面に這わせるようにしてイノシシの反対側に回れ。で、わしが合図したら、コッチに投げてよこせ」
「は、はいっ」
主税は初めて見る野生のイノシシに腰が引けながらも、爺さんの勢いに押されて、言われたとおりに反対側へ回る。
「兄ちゃんそんなに離れてたらダメだ、もっと近くに来いっ!」
人に挟まれて狂ったように暴れるイノシシに完全に気おされながらも、爺さんに叱咤されて及び腰にずり脚で少しずつ近寄っていく主税。ロープの方は爺さんが上手いこと捌いてくれたのか、イノシシの胴の下へと入り込んでいた。
「よし! こっちによこせっ!」
爺さんの合図で、イノシシの上を孤を描くようにカナビラを放る。受け取った爺さんは、カナビラの輪にロープを嵌めると、一気に引っ張ってイノシシの胴体を締め上げていく。
「ぼさっとすんな。枝から垂れてるロープを引っ張れ! 吊り上げるぞっ!」
言われて主税は木の方へと向かい、ロープを引っ張り始める。主税がロープのたるんでる部分を引っ張る間にも暴れるイノシシと外れないようにロープをやや上に持ち上げる様に引く爺さんとの格闘は続いていた。
やがて、枝からピンとロープが張られるのを待って爺さんがゆっくり手を離す。
「そのまま緩めるんじゃないぞ」
主税の手にはずしりとした重みが感じられるが、未だイノシシの四足は地面から離れてはいないせいも有ってか、支えきれないほどの重さではなかった。
ロープと枝の摩擦、吊られるイノシシと引っ張る主税の力が丁度良いバランスで保たれている。
それでも気を抜けば、腰の辺りを締め付けるロープの頚木から逃れようと後ろ足を跳ね上げ暴れるイノシシに体ごと持っていかれそうになるのだが。
主税が大量の汗をかきながらなんとかロープを押さえてる間に、爺さんは主税の足元で束になってるロープの弛んだ部分を張るように他の樹へと結びつける。
「もう少し我慢してろよ。直ぐだからな」
そこまでして、主税に一声掛けてから、今度はイノシシを吊っている木の根元にワイヤーブロックをくくり付け、そのワイヤーの先端にある金具を主税の手元のロープに引っ掛けた。木の根元のワイヤーブロックがずれたり外れたりしないか確認しながら、ゆっくり慎重にレバーを前後させ、やがて金具の辺りからロープが引っ張られる。
「もう離していいぞ」
爺さんの言葉に主税は手を離そうとするが、こわばった指が思うように動いてくれず、その動作はゆっくりとしたものになった。
その横では爺さんがレバーをさらに前後に動かして、ワイヤーを巻き取っていく。ワイヤーブロックには、釣りのリールのようにストッパーが着いているので一度巻き取ってしまえば、ワイヤーが引っ張り出されることは無い。後は梃子の原理と、ギアの組み合わせで、レバーを前後させる毎に3~4cm位ずつ巻き取られていく。
ワイヤーが巻き取られるにつれ、ロープは『く』の字になるように下に引っ張られ、その分イノシシが吊り上げられていく。
やがてイノシシの後ろ足が地面から十センチほど浮いた所で、爺さんは手を止めた。
「これで一安心だ。助かったよ」
「あ、いえ…。でも、はじめて見ましたけど、こんな風に吊るんですねー。知りませんでした」
感謝の言葉を口にする爺さんに、主税は身体と精神両方の疲労からへたり込みながらも好奇の目をイノシシと爺さんに向ける。
「ん? わしも初めてやったんだが? 上手く行って良かった」
と、きょとんとした顔で応えてくる。
「えーと、いつもはどうしてるんですか?」
「まぁ、大体が罠に嵌って弱ってるからな。問題なく近寄ってスパンッとして終わりだが?」
「スパンッて、まさかこれから?」
獲物をつるすなんて事を初めてやったとはとても思えない軽い口調に天然培養の野生爺の底知れなさを感じながらも、この後に続く作業(?)にタラリと冷や汗が頬を伝うのを感じる主税であった……。
「まさか、二重生活を始めて半年も経たないうちにあのイノシシの他にも、鹿2頭、鶏3羽も解体することになるとは思わなかったな」
つい最近の事も含めて苦笑いする主税だが、そのお陰もあって近頃では生き物の解体作業にも馴れてきている。
「まっ、今日も一仕事終わったら爺さんの所に顔を出すとするかな」
気持ちを切り替えるような一言と供に、燃料を入れ終わった草刈機のエンジンを始動させ、目を保護するゴーグルを着け、目の前の雑草との戦いに向け主税は「よしっ!」と気合を入れ直した。