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【ニコ生企画】空気読めない玉【お題:ビー玉】

作者: くろのす

 アパートで一人暮らしをする男子大学生のどれほどがそうなのか分からないが、少なくともこの部屋は、率直に言って汚い。


 書籍の購入にあたって本棚のキャパシティを考えないせいで、溢れた本が床に積まれていく。崩れたら、そのまま。

 ゴミを出すのが億劫でゴミ袋がどんどん溜まり、最終的に袋にさえ入れずにカップ麺の空き容器が積まれていく。いよいよとなって捨てるためには虫がく事を恐れる必要があるため、虫の涌かない冬場ともなればサグラダファミリアのように空き容器の塔がどんどん育つ。


 そんな足の踏み場の無いような部屋でも、彼は快適に生活していた。暇になれば本棚まで行かずとも手の届く場所に本が積んであるし、ゴミが出た際にそのやり場に悩むこともない。毎週ゴミ出しをせずに数ヶ月おきにまとめて出す方が合理的で、このやり方が最適とさえ思っている。


 彼の自覚する問題点は、ひとつしかなかった。探し物の際に面倒だという一点。

 探している教科書が本の中に紛れていたら面倒。携帯電話を見失った時に、もしゴミの山の中にでも紛れていたら面倒。こうした問題に直面するたびに「片付けようか」と少し思うのだが、結局片付けも面倒でその場を乗り切ってしまう。


 今日も彼は面倒な探し物をしていた。一冊の本。大学でその本に関する話題が出たので気にかかって読みたくなったのだが、この部屋で一冊の本を探すというのは大変な労力を要する。


「これは違う…こっちに積んでおこう。あ、これ前探して見つからなかった…ベッドの上に置いておこう。」


 こうして、片付けることもなく探索は進む。むしろ散らかっていく程だ。


 ふと、ベッドの下を見る。そこにも幾らか本があったはずだ。ゴミもあるが。

 2リットルのペットボトルの空き容器が転がっている脇に、数冊の本が積んであるのが見えた。手を伸ばして一冊ずつ手に取る。


「これでもないか…。」


 一冊、また一冊、とベッドの下から本が現れる。

 そうして最後の一冊を手に取った直後、思わぬものが目に入った。本の影になって見えなかった位置に、それはあった。

 小さな球体。ベッドの下に届くわずかな明かりを淡く反射する、半透明な丸。ビー玉だった。


「ビー玉か…ビー玉?なんだろ、そんなものどこから転がったかな。」


 このアパートに暮らし始めて二年、ビー玉単体で買った覚えもなければ瓶ラムネを買った覚えもない。ビー玉が部屋にある理由に思い至らなかった。


「まあ…いいか。あるもんはある。」


 今は本を探しているのだ。そう割り切って、彼はベッドの下の最後の一冊の表紙を見た。探している本ではなかったことに落胆する。

 早くも探索に疲れていた彼は、これから部屋の中の塔から目的の本を探すことを諦めた。ベッドの下の最後の一冊を開き、やれやれと呟いて何度か読んだはずの内容に没頭し、その夜は更けた。



「…あ、もうこんな時間か。夕飯…。」


 本に集中して数時間が過ぎ、既に時刻は23時。気が付いた途端に空腹を覚え、彼は本を置いて立ち上がった。カップ麺か、無ければコンビニか。そんなことを考えつつ、本を適当な塔に同化させる。



 コンビニで雑誌を立ち読みしてから、弁当をひとつ、明日の朝食のためにサンドイッチをひとつ、飲み物を適当に2つ買った。

 今日初めての外出が、深夜近くなってからコンビニに行くだけ。不健康だな、と自覚する。しかし休日となると外出する気も薄く、用事さえなければ基本的に部屋の中で過ごしてしまうのだ。コンビニに行っただけましとさえ言える。


「ただいまー。」


 誰もいない部屋に、帰宅を告げる。返事が返ったら怖いと思いながら、しかし癖で言ってしまう。一人暮らしなのにトイレのドアを閉めて用を足すようなものだ。誰が見ているわけでもないのに、そうする。

 手を洗い、買い物袋をベッドに置き、上着を脱いで…上着は、適当に放る。部屋が片付かない一因である。


「…そういえば。」


 きっかけは無い。「何故か」とか「不意に」としか言いようのない感覚。

 何故か、不意に、ベッドの下のビー玉を思い出した。理由もなくそこにあったビー玉。


「この辺だっけ。」


 ベッドの下、先ほど本を探した時に見た辺りを覗き込む。ペットボトルは相変わらずそこに転がっているが、本は全て取り出したのでベッドの下には無く…そして、あのビー玉も見当たらない。

 首を傾げた。確か、あの辺り。ペットボトルがあって、本があって…ビー玉があったはずだが。


「うーん…いいや。別に害になるでもなし。」


 床が実は少し傾斜しているのかもしれない、とか、知らない内に地震でもあったかもしれない、とか適当な理由をつけて探すのをやめた。今更ビー玉ひとつを気にするような部屋の有様でもない。

 それより今は、弁当だ。



 翌日、月曜日。大学の友人と雑談中、思い出してビー玉の話を聞かせてやった。


「なにそれ心霊現象?部屋の中探したら実はお札でも貼ってあるんじゃないの。部屋行ったことないけど。」


 ひやっとした。

 心霊現象かもしれないという事にではない。話題にしたのは自分だが、彼の部屋のことが話題に上がった事に対して…つまりは「行きたいと言われたらどうしよう」という事に彼は軽く戦慄した。

 部屋がひどく汚いということは自覚しているのだ。片付ける気がないだけで。


 その場は「お札効果ねーじゃん」などと言って話題を逸らして乗り切ったが、部屋の話題には気をつけなければと肝に銘じる。



 帰宅後、自分の部屋を見て苦笑する。流石にここに人は呼べない。


「…ゴミをまとめるくらい、しよう。」


 台所からゴミ袋を取って戻り、手当たり次第にゴミを放り込んでいく。カップ麺の空き容器、空のビニール袋、昨日の弁当の容器…燃えるゴミに分類していいものは楽だ。


 問題はビン・缶・ペットボトル。ペットボトルはビニールを取って洗う必要があるし、缶はアルミとスチールで分けるし。

 しかし彼は、部屋を片付けないという欠点があるだけで、意志の弱い人間ではない。「ゴミをまとめる」と決めたら半端はしない。


「今日はゴミだけやるって決めたしな…。」


 部屋の所々に散乱する缶やペットボトルを拾い上げ、別の袋に入れていく。洗うのは後だ。


 そういえば、ベッドの下にも…。思い出して覗く。相変わらずペットボトルは転がっていたが、ビー玉は無い。

 ペットボトルを回収し、少しベッドの下を見回してみた。ビー玉は見当たらない。一体どこへ転がっていったのだろうか。


「まあ、この部屋ならどこに転がったって見つからないよな。」


 自嘲しながら、再び缶やペットボトルを集め始める。洗う時間も含めたら、どれだけかかるか…。あまり考えない事にして、とにかく集める作業を進めた。



 さらに翌日、大学。昨日と同じ友人が訊ねてきた。


「お札あった?」


「は?」


「お札。心霊現象あったなら、帰ってから探さなかった?」


「いや、探して見つかった方が怖いだろ…。心霊現象とも言ってないし。」


 友人はつまらなそうな顔をするが、すぐに何か思いついた顔で笑う。よからぬ事だ、と彼は分かった。


「代わりに探そうか。」


 ひやっとする。

 昨日とはわけが違う、直接的に「部屋に行く」という旨の発言。昨日ゴミだけは片付けたが、まだまだ物が散乱するひどい部屋だ。招くわけにはいかない。


「だから、見つかったらどうすんだって言ってんだろ。やめて。」


 本当の理由は明かさずに拒否した。部屋が汚いから、とは言いづらい。


「お札探しは冗談にしても、遊びに行きたいんだけど。本たくさんあるんでしょ?」


「え、いやっ…あるけど。え?本は、うん。」


 今度は心臓から全身に向かって熱が走ったように思った。

 どうする。本はある。それは事実だが、問題はそこではない。部屋が汚いのだ。

 拒否するための言い訳を考えた。友人は不思議そうな顔をして、彼の返答を待つ。

 長い沈黙は、彼からどんどん冷静さを奪っていった。一秒ごとに熱が増すように感じ、押しつぶされるような重圧に耐えきれなくなっていく。なんと答えればいいのか。


 すると、返答を待っていた友人が何か気付いたような顔で言う。


「あ、部屋片付けたいとかあるならさ。今日とは言わないよ。」


 その言葉が彼にどれほど救いになったか計り知れない。大学に合格したことが分かった瞬間と、どちらが安心したか…。


「うん。部屋片付けないと。」


「なんでそれしきの事でそんなに言葉に詰まるの。どんだけ汚いんだ。」


「やばい。」


「やばそう。」


 どんなに言いあぐねていたことでも、一旦ノリが合ってしまえば、冗談のように言える。悩んだのが馬鹿らしいと今彼は思うが、先ほどまでは本当に心底悩んでいたのだ。


「じゃあ、片付けたら呼んでよね。週末とか暇よ。」


「頑張ります。」


 そう言って友人はどこかに去っていった。もう帰るのだろうか。

 …自分も帰ろう。今週中に部屋を片付けないと。




「今は君に関わっている場合じゃないんだよ。」


 彼は部屋で一人、そう呟きながらクローゼットを閉じた。



 帰宅した直後から彼の戦いは始まった。

 二年かけて散らかした部屋を数日で片付けるとは理屈に合わない気もしつつ。しかし、散らかしたときは全力で散らかしたわけではない。全力で片付ければ、わからない。歩いてきた道のりを走って戻るようなものだ。全力の方が早いに決まっている…。

 そんな風なことを考えながら、ひたすら片付けた。片付くと信じながら。


 そして上着をしまうためにクローゼットを開けたとき、それを見つけた。

 クローゼットに入ってきたわずかな明かりを淡く反射する、半透明な丸。ビー玉だった。

 何故こんなところに。そう思ったのも束の間、そんなことを気にしている場合ではないと努めて無視する。


「今は君に関わっている場合じゃないんだよ。」


 ………。



 日は過ぎて金曜日。

 彼の部屋は、見違えるようだった。学校帰りに弁当を買い、自炊の時間も惜しんですぐ必死に片付け始める生活の賜物だ。今週はレポートが無かった事も幸いした。


 彼を救ったのは、主にダンボールである。

 洗濯だけは定期的にしていたが、問題は収納容量にあった。服の数に対してタンスの容量が、上着の数に対してハンガーが少なすぎた。普段は洗濯して干して乾いたものから着て、着ていないものは洗濯機の中にあって、上着はその辺に放ってあって…というような状態だったからだ。その対策に悩んだ結果、溢れた服はダンボールに詰めることにした。

 無論、本棚も足りなかった。ダンボールに詰めた。

 幸いにして、実家から送られてくる荷物のダンボールが(片付けず捨てなかったために)大量にあったので、問題の解決が容易だったとも言える。


 そして金曜日。大学から帰って、最後の仕上げに入った。掃除機をかけるということ。

 埃をかぶっていた掃除機は、それでも電源を入れればまともに動作してくれた。床の細かな埃や毛などを吸い、それを隅まで行う。

 これが終われば、あの友人を部屋に呼べる。そんな希望を持って。

 部屋に呼んだら、その友人と何かなかろうか。部屋に呼べないような相手に告白することも何もかもが出来ずにいたが、これで…。そんな期待を持って。


 カツン、と何かが掃除機に当たった。

 もう床にほとんど物はないはずだが、一体なにが…。見ると、それはどこかへ転がっていく途中だった。

 窓から入る昼下がりの明かりを淡く反射する、半透明な丸。ビー玉だった。


「だから、おまえどこから来たんだよ…。」


 しかし、今は掃除機掛けを終わらせなければ。この片付いた部屋なら、探すのも容易だろう。


 ベッドの下までちゃんと掃除機を掛けて、部屋を見回す。完璧だ。これ以上片付ける余地は自分には分からない。

 あとは…友人を呼ぶだけ?他に何かなかっただろうか。ベッドに腰掛けて考えていると、電話が掛かってきた。友人からだ。


『おーっす。部屋片付いた?』


「片付いたよ。今日来る?」


『場所がわかんないよ。』


「そうだっけ?じゃあ、迎えに行くからどこか…。」


 そうして彼はまた、ビー玉のことを頭の隅に隠してしまった。




「あれ、意外に本棚が小さい。」


 友人にそう言われて、「入りきらない分はダンボールに入れてる」と、まるで普段からそうしているかのように言う。見栄でないといえば嘘だが、言葉自体は嘘でもない。

 それより、部屋について言及してもらえなかったことに彼は少し落胆した。せっかく片付けたのに、きれいだと言ってもらえなかった。勝手だが、成したことは褒めてもらいたいのが人情だ。


「おお、たくさんあるね。帰る時何か借りていい?」


 ダンボールを覗いた友人の言葉に「いいよ」と頷く。友人は「じゃあまた後で」とまるでダンボールに対するように言って閉じ、立ち上がった。


「さあ、お札を探そうか。」


「は?」


 そういえば、そんな事も言っていたが…冗談だとも言っていた。

 そういえば、ビー玉はどうなったのだろう。

 そういえば、ベッドの下にあったり無かったり、クローゼットの中にあったり床にあったり…あれはどういう事だろう。


 散らかった部屋では全く気にならなかった、あるいは片付けの最中で気にする余裕がなかった事。今やそれが気に掛かり、少し寒気を覚えた。心霊現象。


「よく考えたら、ビー玉が現れたり消えたりって、怖いかもしれん。今日また見つけたけどどっか行ったし。」


 そんな弱音と報告を言うと、友人が首を傾げる。


「どっか行ったって…どこで見つけたの?見つけた時に確保しなかったの?」


「いや、見つけた時は掃除機掛けてて…で、そっちに転がっていったけど。」


「どれ。」


 そっち、と指さした方を友人が探り始める。勉強机の辺りだ。ごそごそやりながら、「ないなあ」と呟いている。

 彼はベッドに座ったままそれを眺め、ビー玉の行方と由来を考えた。どこからきて、どこへ行ったのか。


 しばし探った後、友人は「なかった」と報告しながら勝手にベッドに座った。唐突に隣に座られた事に怯む彼には構わず、友人は机の下を見つめている。


「しかし、机の下も埃ひとつないとは偉いね。ちゃんと掃除機掛けて。」


「ん?うん。まあ…。」


 彼はその一言で気をよくした。片付けた事自体に対してではないが、局所的とは言え、きれいと言われただけで満足だ。


「普段から?私が来るって言ったから?」


 その問いに、彼はまた返答に悩んだ。何と返せばいいだろう。正直に言う方がいいだろうか、普段からと言った方が格好良いだろうか。

 頭の中、そう悩む部分とは別の部分に、言葉が浮かんだ。その言葉は、普段の彼なら決して口に出来ずに仕舞い込んだはずなのだが、今の彼の心は普段とはまるで違う。片付けた部屋に友人がいて、隣に座っていて、自分の部屋を(机の下だけだが)きれいだと褒められ、いつになく…言わば、調子に乗っていた。


「お前が来るって言ったからだよ。普段はそんなきれいにしてない。来るって言ったから…。」


「そうなんだ。」


「来て欲しかったから。」


「…ん?」


 彼の付け加えた一言に、今度は友人が怯む。どう返したらいいやら戸惑っているのか、彼の言葉の意味を察して照れているのか、それともそういう事を言うなら帰ろうかと思っているのか…どういう感情が彼女の内にあるのか、彼には分からなかった。

 言ってよかったのかと少し後悔しつつ、しかしいずれ伝えたかった言葉をこういう形で勢いで言えたという安堵もありつつ、彼は黙って友人の反応を待った。


「…ふーむ。」


 友人がわざとらしく言う。互いが発する言葉を持たない場でも、沈黙が満ちないようにするためか。少なくとも、このまま帰ろうという気はないようだと彼は少しだけ安心した。明確な返答があるまでは真に安心することはできない。

 そして、いよいよ友人が返答のために彼を見て口を開いた。


「まあ、そうだよね。本好きが本好きを自宅に招きたい気持ち、あるよね。」


 そう言って納得顔をしている。

 確かにそういう事はあるかもしれない、と部屋に人を招いた事などない彼でさえ思った。本を手元にして談義をするにせよ、本の数を自慢するにせよ、自宅に招きたい欲求は起こるだろう。彼は何であれ部屋に招く事は今まで出来ずにいたが、ついに部屋を片付けた以上、今後は出来るのだ。


 …って、違う。彼は友人の顔を真正面から捉えて、自分の顔が熱くなるのを感じながらはっきりと言った。


「本好きだからじゃなく、俺がお前を好きだから、来て欲しかったんだ。」


「………。」


「………。」


「はっきり言われると、どうしていいか…。」


 友人の困り顔が、心なしか赤くなっている事に気付き、彼は「言ってよかった」と思った。この場で成就するか否かは別にして、一切脈なしということもなさそうだ。

 では、「今答えなくてもいい」とか言えばいいのだろうか、と彼は考える。それとも、「今答えが欲しい」と強制した方が後腐れもないだろうか。帰ってから彼女が悶々とするのも忍びない。


 彼が悩んでいると、友人が先に言った。


「…え?これ、どういう流れ?」


「え?」


「何の話だっけ。お札、じゃなくて…えっと?ちょっと待ってね、混乱してきた。」


 友人の言葉を聞く限り、どうやら何の演技や誤魔化しでもなく、ただひたすら本当に混乱しているらしい。

 彼も混乱してきた。どっちがどんな発言をする流れなんだ、これは。自分の告白に対して彼女が返答を返すんじゃなかったか。違うのか。やはり自分が何か言うべきか。すると、また「今答えなくてもいい」か「今答えが欲しい」かで悩む事に…。


 彼女から視線を外すと、何かが視界に入った。

 二人を照らす西日を淡く反射する、半透明な丸。ビー玉だった。


 しかし今は、それどころじゃない。言葉を探さなければ。自分と彼女をこの状況から助ける言葉。進展させる何か。


「あのさ。」


 友人がまた口を開き、彼は視線を戻した。意を決したような真剣な表情が待っていた。


「ごめん、こういうの初めてで分からないんだけど…こういう展開って、あれかい?どこまでするの?」


「は?」


「いや、ごめんなさい!私今おかしな事を訊いたね!?」


「ん?うん…。うん?ごめん、混乱してきた。」


「ごめん…流れが掴めなくて本当申し訳ない…。」


 互いに混乱しながら、それを伝え合っても仕方がない。彼の方から情報を整理することにした。


「まず、俺がお前に好きだと言ったわけだ。」


「はい。」


「で、お前は困ったわけだ。」


「そうですね。」


「なんで困ったんだ?」


「この後の展開が分からなくて…。恋愛ものとか興味ないから、不勉強で申し訳ない。」


「展開…?何かテンプレとかあるの?」


「いや、それが分からなくてね。テンプレあるのに素っ頓狂な事言ったら恥ずかしいじゃん?」


「まあ、テンプレかは分からないけど…相手に好きって言われたら、自分の方は好きか嫌いか答えるんじゃないか?」


「…ああ!それだ!ごめんね、私そこ言ってないね!?うん、好きよ!」


「ええ…?」


 かなり勢いのある返答に彼は困惑する。嬉しい返事のはずだが、何故こんなに納得いかないのだろうか。

 しかし、なんとか話が進展した事に彼は一応安心した。しかも好展開だ。これなら、あとは二人で頑張って進めていけばいい。


「本当ごめん。混乱してたんです。」


「わかったわかった。飲み物でも持ってくるから待ってて。何がいい?何でもあるわけじゃないけど。」


 ベッドから立ち上がりながら言うと、友人は「コーヒーか水道水以外」と返す。じゃあ紅茶でも入れてやろう、と思いつつ彼は台所へ向かった。



 その後、二人付き合う事が談義の結果決定した。スムーズな展開で良かったが、さらにその後また彼女が事あるごとに「ちょっと流れ掴めない」と漏らして、二人は恋人になるということの難しさを思い知る事になった。


「…もう今日はこの話題はやめとこうか。」


「うん。土日で細かいところを詰めていこう。」


「一体何の会議なんだ…。」


 その話題はやめることにして、並んで座ったまま、本の話やお札の話をした。今日何を借りていくか、いや明日も来るから借りなくてもいいかもしれない、それはそれとしてお札探しはどうする、そもそもビー玉はどうした。そんな話から、彼は先ほど見かけたビー玉を探す。彼女から視線を外した時に見たはずだが…全く見当たらない。


「なんだ、空気読めないビー玉だなあ。」


 彼女も探しつつぼやき、「私が言うな」と自分でつっこみを入れる。確かに、とはっきり言ってしまってはかわいそうなので、彼は「これから頑張ろうな」と暗に肯定しながら応援した。


 …結局、ビー玉は見つからなかった。彼は何度か確かに見たのだが、しかし触れてさえいない。

 彼女がその存在を疑っているかどうかは分からないが、ビー玉の件を面白がっているようなので、特に問題ないだろう。


 その存在するかしないかわからないビー玉を、彼は「シュレディンガー玉」と名付けようとしたが、彼女に「ださい」と言われてやめた。

 じゃあビー玉のままか、と彼が訊ねると、彼女は「空気読めない玉」と答えた。ださいと思ったが、彼女が「ちなみに空気読めない王は私な」と続けたので、天才かと思った。


 その後も何度か「空気読めない玉」は姿を見せたが、それどころじゃない時にしか現れなかった。例えば大学に遅れそうな時、例えば風邪で意識が朦朧としている時、例えば王がお怒りの時、など。


 大学卒業までの間、確保することは出来なかった。




 そして、引越しの日。



「この部屋ともお別れかー。」


 自分が片付けた時以上に片付いた部屋。全てがダンボールに詰められ、ベッドやタンスは撤去され…空っぽになった部屋。


「空っぽになっても、空気読めない玉は出てこないね。」


「な。お前一度も見なかったんだっけ?」


「見てないねえ。でも、面白かったよ。」


「本当にあったんだよ。」


 彼がむすっとして言うと、彼女は笑った。笑ってから、少し泣きそうな顔になった。


「今度から、ここに来ても君はいないわけだ。」


「そりゃそうだ。」


「ちょっと…なんか、わかんないけど、寂しいかもしれない。空気読めない玉ちゃん探しも、もうしないんだ。」


「お前、そういう事言うからだろ?もっと明るい事言えよ。」


 しかし、結局彼女は泣いてしまった。

 とは言え、自分のいた場所がこれからは無関係な場所になる事の寂しさは、彼にも分かる。だから隣で泣く彼女を抱き寄せて、頭を撫でて、泣き止むまで幾らでも待つ事ができた。


「……ごめんよ。」


「いいよ。」


「多分私、来年自分の部屋でも泣く。」


「だろうね。」


「君の仕事の無い日に合わせるから、立ち合ってね。一人で泣くの嫌だ。」


「いいよ。引越しの手伝いとかも、言ってくれたらするからな。」


「うん。…君、さっきからどこ見てんの?」


 彼の視線が、自分ではなく部屋のどこか一点を見つめていることに気付き、彼女はその視線を追った。少なくとも、自分が泣き止んだ時にはもうそこを見て…。


「…ええ?」


「ほら見ろ。あったろ。」


 空っぽになった部屋に差し込む日中の光を淡く反射する、半透明な丸。ビー玉だった。


 確かに何もなくなったはずの部屋なのに、そこにはそれがあった。


 彼はビー玉から視線を外さずに歩み寄り、屈む。触れる事を躊躇しているようだった。


「やっと捕まえられる、けど…どうするかなあ。」


 触れてしまっていいのだろうか。

 これまで空気を読まずに現れることに徹していた、名付けられた通りの挙動に終始した、「空気読めない玉」。最後の最後でも、彼が「それどころじゃない」と思うタイミングで現れた。

 最後までその矜持のようなものを貫いた玉に対して、触れることは果たして…。


「王に任せろー。」


 彼女が平気な顔でひょいと拾い上げてしまった。呆気に取られる彼の前で、彼女はへへへと笑う。


「空気読めない王の前では、君がどんなに躊躇っても無駄な事よ…。」


 彼の気持ちがわかっていないわけではないようだった。ただ、どうするか決めきれずにいた彼のために、思い切って行動した。

 そんな彼女に彼は苦笑し、感謝もし、しかしどうも納得いかないような気持ちもあり…立ち上がると、言った。


「今日からお前は空気読めない王じゃなく、空気読まない王な。」


「それはなに、褒めてる?」


「どうかな。わからんけど、読めたのに読まなかったろ。」


「ふふん。」


 得意げな顔で彼を見返した後、彼女は自分の手の中のビー玉を彼の上着のポケットに放り込んだ。

 怪訝そうな顔の彼に、言う。


「新しい部屋に転がしてあげたらいいよ。きっとまた、君と遊んでくれる。」


 彼は少し笑って、ポケットの中に手を入れた。ビー玉の感触がある。触れていないとまた消えて部屋に隠れてしまうのでは、と不安だったから、そのまま触れ続けた。もう片方の手は、彼女の手が触れ続けた。


「じゃあ、行くか。」


 あとは残ったダンボールを運ぶだけ。引越し業者の仕事だ。


 彼と彼女は、部屋を出た。彼女は名残惜しそうに部屋の中を振り返り、また少し泣きそうになったが…ドアが閉まると、ひとつ大きく息を吐いて、笑った。




 ダンボール箱だけが残った部屋の中。


 カーテンさえなくなった窓から入る光を淡く反射する、半透明な丸…。

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