第一章⑧
スズメとマナミが油汚れの激しいお皿を洗って、シンクを綺麗にすると、モモカは早々に次のことを指示した。「このオムライスを八番テーブルに持っていって、ハートのケチャップを書いて、ご主人様に食べさせてきて!」
皿洗いから、急にハードルが高くなった。きっと、人手が足りていないからだ。二人がちんたらと皿洗いをしている間に、お客さんはかなり増えているみたい。次々にオーダが入り、厨房で働くメイドさんたちの顔から笑みが消えていく。鍋を振る、激しい音が響く。モモカは鋭い口調でメイドたちに指示を飛ばしている。モモカの指示に従って、メイドたちは無駄のない動作で調理をしている。厨房のこの様子は見ていて息を呑むほどに凄いけれど、その景色の一部にはなりたくないなって思っていたら、モモカはスズメとマナミに、そう指示したのだった。
「ちょっと、何してんのよっ、」パフェを作りながらモモカが言う。「早く行きなさいっ」
「橘さん、行って、」スズメは綺麗なシンクに向かって前のめりになる。「私、洗い物してるから」
「そんなスズメちゃんに、」マナミは髪が揺れるほど大げさに首を振る。「洗い物なんてさせられないわ、手が荒れちゃう、」そう言ってスズメの手を触った。「お先にどうぞ、スズメちゃん」
「そんな、私の手のことなんかより、」スズメはマナミのすべすべな手を触り返した。「橘さんの手の方が心配だわ、私のことは置いて、行ってよ、橘さん」
「駄目よ、スズメちゃん、スズメちゃんのことを放ってなんていけない」
「私だって、橘さんのこと」
「じゃあ、二人で行って来て!」
包丁を持ったモモカのヒステリックな怒鳴り声に、二人は慌ててオムライスを持って厨房を出た。
八番テーブルに座っていたのはセーラ服を纏った女の子だった。円卓に楽譜を開いて置き、中空でピアノを奏でるように指を動かしていた。中学生ぐらいだろうか。スズメはほっと、息を吐いた。男の人じゃなくてよかったと思う。スズメは男という生物が苦手だった。こんなんでメイドを続けてられるのかと心配になった。
一方、マナミはなぜか目を輝かせ、スズメが両手で持っていたオムライスを奪って完璧な笑顔を作って、彼女の傍に立ちわずかに高くなった声で言う。「お待たせ致しました、お嬢様、オムライスでございます」
その娘はゆっくりと顔を持ち上げて、ゆっくりと円卓の上の楽譜をどけた。
「ハートを描かせていただきますね、」マナミはケチャップの蓋を外して言った。「それでは、よいしょ、失礼して」
「あ、いいです、」マナミがケチャップのボトルをギュっとする直前で、彼女は言った。「自分でかけますから」
「あ、そう、ですか、」なぜかマナミは残念そうだった。「あ、フウフウしますよ?」
「いいです、」その娘はケチャップをちょこんと垂らしてから首を横に振った。「自分で出来ますから」
「そうですか、」マナミはなぜかしょんぼりした表情を一瞬作ってから、思い出したように飛びきりの笑顔を作って体を横に傾ける。「あ、お嬢様、ご用がありましたら、なんなりとお呼び下さいね」
「ありがとう」その娘の表情の一瞬は、とても大人びて見えた。
スズメとマナミはその娘から離れる。
「あの娘、」マナミが言う。「メイド喫茶に何しに来たんだろうね?」
「オムライスを食べに来たんでしょ?」スズメはあまり考えることもなく答える。「メイド喫茶だからって舐めてたけど、あのオムライス、すっごくおいしそうだもん」
「もう、スズメちゃんってば、」マナミは笑った。「そればっかりなんだからっ」
「え、私、」スズメは首を傾げる。「何か変なこと言った?」
それから二人が皿洗いに戻ることは許されなかった。教育されていないのにホールの仕事に回され、オーダを聞いたり、料理を運んだり、割れたグラスを片づけたり、様々な仕事をした。教育されていないのに。忙しくて、目が回りそう、という体験は初めてだった。しかし、やって出来ないことはなかった。スズメは意外と器用な自分を発見した。マナミもお盆をひっくり返すこともなく、そういうキャラクタだと思っていたんだけど、テキパキと仕事をこなしていた。
気づけば錦景市は夜の七時。
夕方のピークを越えて、店内は落ち着きを見せていた。
店の外に立ち、お客を呼び込んでいると、モモカが二人のところに来て言う。「二人とも、もう上がって、ご苦労さん、初日にしては二人とも、まあ、頑張った方じゃない?」
スズメは素直に嬉しいって思った。
なるほど。
これが労働の喜びってやつ?
「あ、ご飯食べていく?」
モモカの提案にスズメは飛び上がって返事をした。「はい、食べますっ、私、食べますっ、いただきますっ!」
「だからうるさいのよ、」モモカはスズメを睨んでから、笑う。「アンタはっ!」
二人は更衣室で制服に着替え、店内の空いたテーブルに座った。オムライスが運ばれてくる。スズメが思っていた通り、オムライスはめっちゃおいしかった。スズメはお代わりした。本当はあと、三回くらいお代わりしたかったけれど、まだ初日で恥ずかしかったから、一回で我慢した。
店内には素敵なBGMが流れていた。それはマナミのハートを拒絶した女の子が奏でるピアノだった。彼女はここにピアノを弾きに来ていたのだ。だから、ハートもいらなければ、マナミがオムライスを冷やす必要もなかったのだ。生の演奏に癒され、仕事の疲れは薄まっていく。
「今日はご苦労様、」東雲が颯爽と二人の円卓に近寄ってきた。「どうだった?」
「楽しかったです、」イノセントな顔をしてマナミは答えた。「明日筋肉痛ですけど、楽しかったです」
東雲は笑顔をマナミに向けてスズメの方を見る。「スズメちゃんは?」
「オムライスがおいしかったです、」自然と口から出たのはそんなことだった。「あ、仕事の方は、ええっと、まあまあです」
「そうか、まあまあか、どう、やっていけそう?」
「はい、もちろんです!」マナミが元気よく返事をした。
「私も別に、」スズメは小さく頷く。「出来ないことはないかなって」
「そう、期待してるわ、ああ、エクセル・ガールズの方もね」
そう言って、東雲はお母さんみたいにスズメとマナミの頭を撫でた。
東雲からはなんとなく、母性のようなものが滲み出ていると思った。年齢はまだ知らないけれど。いや、知ったらすなわち死刑だから、考えちゃいけないことの一つだけど。
撫でられた頭から、今日という日の緊張がとれて、安らぎに満たされた気がした。
エクセル・ガールズのことも、なんとかなりそうだって思った。
全然予告の見えない未来だし。
根拠なんて、まるでないんだけれど。
「あ、そうだ、二人とも、」東雲は思い出したように手のひらを合わせて言った。「ここで働くことになったんだから、天神さんにお参りに行かなくちゃ駄目よ」
『天神さん?』二人は声を合わせて首を傾けた。