第一章⑦
ニシキのスマホに着信があった。何やら急用が出来たようだった。もう美術室の鍵を閉めて帰ると言うので、丈旗とミヤビは美術室を出た。去り際、窓を施錠しながら、ニシキは二人に言った。「あ、今日、私と会って、話をしたからって、美術部に入部する義務なんてないからね、まだ仮入部期間にも入ってないんだし、よく考えて決めてね、私は二人が入部届けを持ってこなくたって、恨んだりはしないから」
それは入部しなかったら恨むということか。
あるいは、その言葉通りだろうか。
丈旗とミヤビは美術室を出てから、特に遅くも、特に早くもないペースで廊下を並んで歩き、階段を降りた。なんとなく、どちらも話し出すことはなかった。その沈黙は気にならなかった。ミヤビはどう思っているか分からないけれど、丈旗はそうだった。下駄箱の前で靴を履き替え、昇降口を出て、右手の方に進む。正面にはグランドが広がっていて野球部がノックをしている。グラウンドの左の方には部室棟が見える。右の方には駐車場があって、その先に駐輪場がある。丈旗もミヤビも自転車通学だった。駐輪場へ向かう道すがら、ミヤビは聞いてきた。「丈旗は美術部に入る?」
「どうしようかな、御崎さんが入るなら、入ろうかな」
「なんだ、それ、」ミヤビは丈旗の恋心など一ミリも理解していないという表情だ。「先輩も言ってたでしょ、よく考えて決めろって」
ミヤビは優しい。どうやら丈旗の未来を心配しているみたいだ。丈旗の未来の心配のほとんどはミヤビのことについてだから、その優しさは申し訳ないけれど見当違い、というやつだ。丈旗はわざと未来について悩んでいる表情を作って聞く。「……御崎さんはどうするの?」
「私は美術部に入るよ、もう決めた」ミヤビは進行方向を真っ直ぐに見たまま言う。彼女の横顔は素敵だ。
「そっか、じゃあ、俺も、そうしようかな」
「私に気を使ってるわけ? そういうのいらないからね、今日は無理矢理付き合わせちゃったけど、本当は美術になんて興味ないんでしょ?」
「興味はないことはないさ」
「私の芸術論、聞いてなかったくせに?」
彼女の芸術論を真剣に着ていなかったことは、バレていたらしい。ミヤビのことばかり考えていたことは、どうやらバレていないらしい。丈旗は弱ったな、という客観的に見て気障な表情を作成して後頭部を触った。「聞いてなかったっていうことはないよ、聞いていたよ、確かに聞いてたよ、とっても興味深かった、でも、思い出せと言われたら難しい、そのときの緊張と興奮はよく覚えているんだけれど」
「そういうのを聞いてないって言うんだろう?」ミヤビは愉快そうに笑っている。彼女の手が何の脈絡もなく、優しく、丈旗の二の腕を押した。「無理しなくていいって、丈旗は、丈旗が入りたい部活に入りなよ、入りなさいよ」
「いや、無理はしていないんだけどな」言いながら丈旗はミヤビのソフトタッチの意味について苦悩している。
「中学のときは何部だった?」
「野球部だった」
「じゃあ、野球すれば?」
「中学の頃は夢中だったけど、なんだか、野球よりも大事なことが見つけられそうな気がしてるんだ」
「大事なこと、それって何?」
「何かはまだ判然としていなくて、輪郭は曖昧だけれど、どうやら美術室のどこかで見つけられそうなんだ、長い時間を掛けて創り出す種類のものかもしれないけれど」
「嘘、」ミヤビは睨む目を作って丈旗の顔を下から覗き込む。「嘘付き」
「嘘じゃない、俺の母親の家系は芸術一家で、おじさんはプロの画家、名前は知らないと思うけれど、絵だけを仕事にして生活している、俺も小さい頃、いろいろ教育されたんだ」
「本当の話?」ミヤビは丈旗を見る目を僅かに変化させた。ちょっとだけ煌めいている。
「別に信じてもらわなくても構わないけれど、本当」
「じゃあ、本気なんだ、美術部に入りたいって」
「うん、」正確にはミヤビと同じ空間にいたい、ということだが丈旗は神妙に頷く。「そうだ」
「うーん、」ミヤビはゆっくりと納得した風に頷いたけれど、丈旗が隠しているものを見通そうとしている。「でも、やっぱり何か、違う気がするんだよな、なんていうかな、何か企んでいる気がするんだよな、何か、企んでるっしょ?」
「企む?」丈旗は少し早足になって、はぐらかす。「何を? 何で?」
「いや、分かんないけどさ、そんな気がするだけ、素直に君のことを信じてはいけないって、脳ミソのとあるセクションが反応しているんだよね」
「とあるセクションって、どの辺」
「この辺?」ミヤビは丈旗の耳の上を指で押した。
丈旗は思う。
女子は嫌いな男の脳ミソのこの辺はきっと、触らないだろうって。
二人は駐輪場に着いた。それぞれの自転車を押し、出口で合流する。しばらく、雑談した。クラスのこととか、授業のこととかいろいろ話した。携帯番号とメールアドレスも交換した。それはミヤビが何気なく提案した。向こうから聞かれることはないって、どこか思っていたから、とてもびっくりしたし、嬉しかった。動揺は表情には出なかったけれど、スマホのタッチパネルをスムーズに操作することは出来なかった。
「ぼちぼち帰る?」ミヤビは時間を確認して言う。すでに黄昏が近い。
「そうだな、」丈旗は誰かに対しての名残惜しさというものを初めて実感している。「そろそろ空の色が、紫色に変わりそうだ」
「とにかく今日はありがとう、」ミヤビは自転車に跨り、笑顔を丈旗に向け、手を軽く左右に振った。「じゃあね、バイバイ」
ミヤビの進路は北。丈旗の進路と真逆だ。
その方向には黄昏時、錦景山を骨子にした、素晴らしい景色が見えている。
錦景をこんな風に思ったことは、丈旗の人生、特質すべきことだ。
見慣れているのにどうしてだろう。
産まれた時から変わらない景色だ。
ずっと昔から、変わらない景色だ。
なのに、どうしてこんな風に思えるのだろう。
これは説明が難しい問題だ。
……いや、そうじゃないかもしれない。