第一章⑤
食堂はやっていなかったから、丈旗とミヤビは一度学校から出てロウソンに行って、お弁当を買って教室で食べた。教室には誰もいなくて二人きりになった。早々の告白を考えたけれど、話題が六十年代日本のアヴァンギャルドについてだったから、丈旗は告白を断念した。話題がそれでなくても、客観的に見て、時期尚早だろう。とにかく、お弁当を食べながら、丈旗はミヤビの芸術論を聞いていた。彼女の口元は滑らかに回転していた。彼女はおにぎりとサンドウィッチとチョコレートをコーラで流し込みながら、夢中にしゃべっていた。ミヤビには悪いけれど、丈旗は彼女の芸術論を聞いていたが、理解はしていなかった。終始、ミヤビに見惚れていたからだ。
食事を済ませた二人は美術室を探し始めた。きっとどこかに案内板とかあったと思うし、誰かに聞けばすぐに見つかったんだろうけれど、丈旗とミヤビは美術室を探した。まだ建物の造りを知らないから、それは探検という作業に近かった。小さな頃に毎日のように感じていた熱のようなものを思い出した。美術室を見つけだしたときは、嬉しかった。ミヤビだって、嬉しかったんじゃないかと思う。同じ気持を共有できたと思う。
美術室は特別教室の集合する北校舎の四階にあった。美術室があったからといって、この時間に美術部が活動している根拠はなかったけれど、美術室には人がいた。
一人だけ。
窓の外から差し込む自然光を透過した白いカーテンがはためく手前。
絵を描いている人がいる。
「ん?」とその人はこっちを向く。彼女の眼鏡は大きくズレていた。彼女はズレた眼鏡を折り畳んで机の上に置いた。左右におさげが二つ。「……あなたたちは?」
「入部希望です、」ミヤビは丈旗の前に進み出て言う。「その、美術部の」
「ああ、そっか、」その人はおさげを触りながら一度微笑む。「弱ったな、何も準備してないから、誰かが来るなんて思ってもなかった、まだ、入学式の後だから」
「お邪魔でしたら、今日は帰りますけど」
「邪魔だなんて、そんな、落書きをしていただけだし、」彼女は手を膝の上に置いて言う。その口調は上品だった。「そうね、適当に座って、あ、ここにある作品なら何でも見ていても構わないわよ、私、三年の藍染ニシキ、美術部は残念ながら私一人なの、ごめんね」
「別にその、」ミヤビは椅子に座りながら言う。「人数は気にしません、あ、私、御崎ミヤビです」
「丈旗ケンです」丈旗もミヤビの隣に座った。
「ミヤビに、ケンね、覚えたわ、とにかく、よかった、去年は私だけしかいなかったから、入部希望者は一人もいなかったんだ、」ニシキは下を向いてほっと息を吐き、描いていた絵に布を掛ける。「私の代で終わりそうになくて、よかった、あ、質問とか、何かある?」
「生徒会長だったんですね」ミヤビが言う。
「うん、そうなんだ、」ニシキは落ち着かない、という感じで体を揺らしながら答える。「実は、生徒会長なの、似合わないって思うでしょ?」
入学式、丈旗はミヤビの背中ばかり眺めていたから、きっと彼女は生徒会長として何か挨拶をしていたと思うんだけれど、全然ピンと来なかった。ニシキが自分で言うように、彼女の小さな体には生徒会長というのは荷が重すぎる、という感じを受けなくもない。
「全然、そんな、」ミヤビは勢いよく首を横に振った。「素敵でしたよ、壇上の先輩のスピーチは素敵でした」
「素敵だなんて、」ニシキは頬をうっすらとピンク色に染めた。「照れるな」
「どんな絵を書かれているんですか?」
「女の子の絵、今日のモデルは錦女の娘」
錦女、というのは錦景女子高校の生徒を指している。キンジョ。発声の仕方は金魚。
「見せてもらってもいいですか?」
「これはまだ途中だから、駄目、でも、」ニシキは布を触りながら答える。「私の他の作品でよかったら、いくらでも」
「はい、見たいです、」ミヤビの口調は興奮気味だ。「見せて下さい」
「君は?」ニシキはつぶらな瞳を丈旗に向ける。
「俺も見たいです」丈旗は歯切れよく答えた。
「本当?」ニシキは眼鏡をはずして畳み、疑いの目を向ける。
「本当ですよ、」ミヤビみたいに興味があるかと言えば、嘘になるが。「俺には見せないっていうのは、止めて下さいよ」
「よし、じゃあ、」ニシキは軽く微笑み立ち上がった。「こっちに来て」
ニシキは二人を黒板横の扉から、隣の美術準備室に案内した。狭い空間に天井に届くまでの棚が四列並んでいた。彫刻、陶器などの美術品、授業で使用する工具類が規則性なく敷き詰められている。ニシキは窓際の隅置かれた、青色の布団をしまっておくような大きなケースに近づいた。蓋がされていて、簡単に開いてしまわないように両サイドがロックされている。ニシキはロックを外してケースを開けた。そこには絵が保管されていた。保管というよりは、とりあえず残してある、という感じだった。何枚もある。ニシキはそれを乱暴に掴んで、ケースから出した。「どうぞ、感想を聞かせてくれたら嬉しいな」
ニシキはミヤビに絵を手渡した。ミヤビは膝に絵を乗せてゆっくりと見ていく。丈旗もミヤビの隣でニシキの絵を眺めた。ほとんどが女の子の絵だった。写真のように、装飾少なく、ありのままの女の子を描いた絵だ。たまに抽象画が混じっていてそのギャップに驚く。画風は様々だ。彼女が繰り返してきた実験の結果を眺めているような気分になる。一通り、見終えた。ニシキという人が凄い絵描きだということが理解出来た。ただ未だ、世界の画壇から評価されていない、というだけの話。
「どうだった?」おさげをいじりながら、ニシキは聞く。おさげはいつの間にか解けている。
「凄い、」丈旗はハッキリと言った。「将来は美術の道に?」
「来年のことはまだ考えていないけど、」ニシキは照れたように言う。「どうしよっかなって、迷っているところよ」
「色を付けてみろ、」ミヤビはニシキをじっと見つめていった。「藍染先輩ですか?」
「あ、色を付けてくれたのね?」
「あれは、その、どういう、意味、いえ、メッセージだったんですか?」
「メッセージ?」ニシキは首を傾けて、何やら思考して、そして上機嫌そうに微笑んだ。「……ああ、ただあれは、落書きをしようとしたら色の付いたチョークがなかった、……っていうわけじゃなくてね、うん、私がそこに込めた大事なメッセージというのはね」
「メッセージというのは?」
ニシキは笑って首を竦めて横に体を揺らす。「忘れたわ」