第一章④
メイド喫茶ドラゴンベイビーズはマクドナルドから出て、南へ向かう通路を進み、すぐ左に見えてくる錦景第二ビルの出入り口の自動ドアを通過して、すぐ右手の方に見えてくる一階への階段を上がって、すぐに見える。店構えはドラゴンという感じは一切なかった。両開きのチョコレート色の扉は開かれている。扉の左の方ではファンシィな看板が光を出しながら回転している。看板にはその名前が丸みを帯びた字体で書かれていた。
通路を挟んで対面には国際的アニメショップ、ゲーマーズがある。左隣はそば屋で、右隣はゲームセンタだ。左右に伸びる通路の脇には飲食店やレコードショップなど様々なお店が並んでいる。錦景第二ビルには一階から三階までそういったテナントが入っている。
「どうしたの?」
マナミがそう聞いたのは、彼女が手を引っ張るのに、スズメが立ち止まったからだ。
「いや、本当に、」スズメは目を細めて店内を覗き込んで言う。腰は引けていた。「ここでバイトするの? っていうか、メイドなんてやるの?」
「今更尻込み?」マナミは握る手を強くした。「さっきやるって言ったじゃん、時給が高いからやるって言った」
「うん、時給が高いからやろうと思ったけど、何かと食費が掛かるからね、でも、」スズメは自分がメイド服を着て、ウェイトレスをする姿を想像して、ありえないって思った。「やっぱりあり得ないと思います、あんな耳付けて、」店内のウェイトレスは形、色様々な耳を頭に着けていた。「笑顔でなんていられないもの、多分、途中でお盆を投げちゃうと思う、だから橘さん、手を離して」
「マナミって呼んでよぉ、」マナミは手を離した。手を離したその表情は浮かない。「ちぇ、スズメちゃんのメイド服姿見たかったのにな」
「は?」マナミが変なことを言うからスズメは睨んだ。
「ううん、」マナミは笑顔で首を横に振る。「なんでもないんだぞ」
「あ、橘さん、そば屋でバイトとか、どうかな?」
「チェーン店だから、おそば食べ放題とかじゃないと思うよ」
「あ、向こうにカレー屋があるね、」スズメのお腹はすでに空腹訴えていた。「あ、ラーメンもいいなぁ」
「あ、久しぶりに餃子食べたいな」
そのときだった。
「君たち、」店の中から、おそらくドラゴンの耳を頭に乗せた可愛らしいメイドさんが通路まで出てきてスズメたちに話しかけてきた。「さっきから、お店の前で何してるの?」
「あ、えっと」スズメは口ごもる。
「実は、」マナミがスズメの前に進み出て歯切れよく言った。「ここでアルバイトしようと思って」
「おいっ、」スズメはマナミを睨んだ。「おいっ、橘っ」
「ああ、なんだ、やっぱりそうだったんだぁ、」メイドさんは手の平を胸の前で合わせて、凄く笑顔になった。「大歓迎よ、二人とも、うん、二人とも、可愛いから大丈夫、オーナも文句は言わないと思うわ、うち、いつでも人が足りてないから面接もしないし、ラッキーね、お給料の振り込み先だけ教えてくれればもう即採用だよ、」メイドさんは弾んだ声でそう言いながら、マナミとスズメの手首を掴んだ。掴んだら二度と離さないっていう決意が感じられる握力。「さ、中へどうぞ」
マナミは笑顔でメイドさんに従った。
「いや、あの、わ、私はいいんです、」スズメは抵抗した。でも、メイドさんの力は強くて、気づけば店の中にいた。「私はいいんですっ」
「何が?」メイドさんは笑顔で聞いてくる。凄みのある笑顔。ふざけたことを言ったら、大変なことになりそうな笑顔だった。「何がいいのかな?」
「いえ、何でも、ないです、」スズメはそう言ってから、キッとマナミを睨んだ。マナミは知らぬ存ぜぬと言う顔でそっぽを向いている。スズメはマナミの耳元で小声で怒鳴る。「後で覚えとけよっ」
「さあ、こっちよ、」メイドさんは入って左手のカウンタの方に二人を誘う。「あ、私の名前は東雲ユミコ、あ、年齢を聞いたら死刑だからねっ」
「……死刑って」スズメはちょっと笑えなかった。
平日のこの時間、お客さんは少なかった。席は二割くらいしか埋まっていない。男性と女性、比率は半々くらい。これは意外だった。男の人しかこういうところには来ないと思っていた。その男の人だって、メイドさん目当てで来ているお客さんはざっと見て、一人だけだ。何人かのスーツ姿のサラリーマンがコーヒーを傍ら、キーボードを叩いている。錦景市の南側はビジネス街になる。きっとそこで働く人たちが電源とネット環境を求めてここに来ているのだろう。店内は想像していたよりもずっと広かった。手前には円卓が並び、中央にはパーティションに接するようにテーブル席があり、奥には柔らかそうなソファが見える。フロアの角、出入り口から一番離れた右奥には一段高くなった半円形のステージがあった。四人くらいは踊れるスペースだ。今は誰も踊ってはいないが、ステージがあるということはメイドになってしまったら、あそこで歌って踊らなければならない、ということだろう。時給が高い理由はおそらくそこにある。スズメは憂鬱になった。
東雲はカウンタ奥ののれんを潜った。二人は静かに付いていく。厨房に出る。狭い厨房で三人のメイドさんが談笑していたが、東雲の登場に黙って、綺麗なお皿を磨き始めた。東雲がメイドさんたちのリーダ的存在なんだろう。なんていうか、雰囲気が彼女だけ違う。ドラゴンの耳を付けているのは彼女だけだと言うことに気付いた。
さらに先に進むと更衣室があった。左右にロッカーが並んだその奥に扉があり、どうやらそこが事務所みたいだった。東雲はその扉をノックした。「オーナ、よろしいですか?」
「どうぞぉ」
声がして、東雲は扉を開ける。
事務所は狭く、煙草の臭いが充満していた。奥にデスクがあり、そこに向かって座っていた人が振り返れば、その人はキセルを咥えていた。
「なんだい、東雲、」煙を吐き、その人は言う。「後ろの二人は?」
「アルバイト志望の二人です」東雲は淀みなく返答する。
彼女は前のめりになり、スズメとマナミのことを睨んだ。
スズメは、これはヤバい、って思った。そのキセルを咥えた人が、極道の女が纏うような黒い着物を身に纏っていたからだ。その着物の胸元には玄武、右袖に白虎、左袖に青龍、太股から膝に掛けて朱雀があしらわれていた。帯は金色で、おそらく黄龍を表現していると思われる。化粧は濃い。作りものの睫が長い。口元の紅色は強烈だった。髪の色は黒の中に金が混じっている。下手なことをしたら、死刑だって思った。
マナミはスズメの腕を抱いた。マナミは震えている。スズメと同じで、ビビってるみたい。マナミが連れてきたくせにって怒鳴りたかったけれど、彼女に見られている間、声は出せそうになかった。
「あはは、」その人は急に笑った。「可愛いわね、ビビってるんだ」
スズメはどんな返事をすればいいか分からなかったし、どんな表情をすればいいか分からなくて困った。
その人はキセルをデスクの上に置き、二人に手を差し出した。「オーナの天之河ミツキよ」
マナミはスズメの顔を見て、天之河の手に恐る恐る触って、握手を交わした。「橘マナミです」
スズメも手を伸ばして握手した。「森永スズメです」
短く言って、手はすぐに引っ込めた。
鋭意警戒中の二人を見て、天之河は愉快そうに笑う。
「安心して、こんなナリだけど、別にどこかの組に所属しているとかじゃないからさ、コスロテよ、コスロテ、いわゆるコスチューム・ロウテイションだと思ってよ」
天之河が笑うから、スズメとマナミは無理に笑顔を作った。
「東雲、」天之河は部屋の隅に姿勢良く立つ東雲に言った。「この二人に決めたわ」
「決めたとは?」東雲は首を傾ける。「……あ、もしかして、いや、でも、それはモモカだって、昨日、おっしゃっていませんでしたか?」
「それは二人がいなかったからよ、」天之河はスズメとマナミを見つめて言う。「二人が現れたから、話は変わってくる、当然のことだと思うんだけどな」
「モモカが悲しみますよ」
「モモカはまだ早い、」天之河は人差し指を立てて言う。「彼女はまだ、旬じゃない、東雲だって、そう言っていたじゃない」
「そうですけれど、でも、すいません、実はもう伝えてしまったんです、私、モモカが喜ぶ顔が見たくて」
「本当?」天之河は僅かに眉を潜めた。「弱ったな、でも、それは東雲の責任だよね、それは分かるね?」
「そうですね、」東雲は大きく息を吐いて、天井を見た。「ああ、なんて言ったら、泣かないかな、もちろん、その涙さえ、モモカの魅力なんですけれどね」
「本当に残酷な魔女だよ、君は、」天之河は高い声を出して笑う。「とにかく、もう決定だ、東雲、藍染氏に連絡を取ってくれ」
「分かりました」東雲は頷いた。
「あ、あの、」スズメは勇気を振り絞り声を出した。「一体、なんのことを話しているんですか?」
「森永、君の誰かを睨む目は、いいな」
「はあ?」急にそんなことを言われて、スズメは天之河を睨んでしまった。慌てて視線を足下に移動させる。「え、えっと、あの、すいません」
「二人の制服は、商業?」天之河が聞く。
「はい、そうです、」マナミが頷いた。「今日、入学式でした」
「どうしようかな?」天之河は腕を組み、目を瞑り、何かを考え始めた。「商業だろ?」
スズメとマナミは顔を見合わせた。
もう、この状況の意味の何もかもが分からないから。
「こんなのはどう?」天之河は目を開け言った。「エクセル・ガールズ」
『はあ?』スズメとマナミの声はユニゾンした。
「いいですね、」東雲は手のひらを合わせ首を縦に振る。「いいですよ、ピッタリです」
「というわけで今日から二人は、」天之河は両手を広げて言う。「エクセル・ガールズ、ということで」