カーテンコール③
五月七日、俺はピアノを弾いていた。
南校舎三階の屋根のないあのスペースの隣の広い会議室の隅にピアノがある。そのピアノを弾いていた。
俺がピアノを弾くのは精神に過度のダメージがあるときとは限らないけれど、今は確かにそうだった。
それを和らげようとして、ピアノを弾いている。
自分のキャパシティを大きくしようとして、ピアノを弾いている。
早朝、登校すると、席替えが行われていた。おそらく、昨日だ。名前順から、配置がランダムになっている。俺の席は窓際の後ろの方に移動していた。ミヤビは廊下側の中央付近の席だった。ミヤビと離れてしまったのは、辛かった。
「辛いな、丈旗、」俺の叩き、安賀多が言う。「俺も、辛いんだ」
安賀多は俺に近い席だったけれど、斑鳩はミヤビの斜め前の席だった。二人は談笑している。
「斑鳩とは、どうなったの?」俺は聞く。
安賀多は前髪を掻き上げ、デレっとして舌を出してペロペロさせた。とても気持ち悪いものを見たと俺は思った。「聞いちゃう?」
「いや、」俺は冷たい目を向けて首を横に振った。「いい」
「え、聞けよ、」安賀多は舌を口の中に仕舞って言う。「聞いてくださいよぉ」
「上手くいってるんだろう?」俺は笑って言う。「何もかも、それなら聞く必要ないよ」
「お、さすがイケメン、」安賀多は人差し指を俺に向ける。「言うことが違うね」
「関係ないだろ、キネマの方はどうなってるの?」
「昨日、編集が終わった、見るか?」
「ああ、そうだな」
「近いうちに上映会をしようかって思ってる、まあ、キネマ研究会が認可されたらの話だが、でも、生徒会長って双子だったんだな、俺たち、全然気付かなかった、まんまと騙された、でも、そのおかげで、」安賀多はまたニヤケる。ひとしきりニヤケ終え、思い出したように聞く。「あ、そういえば、丈旗、昨日はどうしたんだ?」
「ああ、ちょっと、体調が悪くてな」
チャイムが鳴り、朝のホームルームが始まった。
なんの変哲のない、一日が進んでいく。
時計の針が進む。
考えることは、病院の屋上でのこと。
俺の眼に浮かんでくるのは、冷たく透き通ったミヤビの瞳。
「昨日はごめん」ミヤビはいきなり言った。
病院の屋上に、俺とミヤビの他に誰もいなくて、二人きりだった。フェンスに近い位置に、俺とミヤビは並び立ち、紫色に染まり始めた黄昏の景色に体を向けていた。
「昨日はごめん、痛かったでしょ?」
「いや、痛みとか、よく覚えてなくて、一瞬、凄く、痺れたのは記憶にあるんだけど、スタンガンとか、持ってたの?」
「違う、」ミヤビは首を横に振った。「違うけど、そういう感じ」
「魔法か?」俺は冗談を言った。
「・・・・・・そんなとこ」ミヤビは睨むように俺のことを見た。
「俺の方こそ、ごめん、その、最低なことをして、」俺はミヤビの前に立ち、頭を下げた。「ごめん、本当に、ごめん」
「そうだよ、あんなことしなかったら、」ミヤビの口調は当然ながら、怒っている。「私はケンのことを痺れさせたりしなかったっ!」
「ごめん、でも、俺の気持ちは本当で、それに今だった、ミヤビのことを愛してる」
「よくそんなこと言えるわね、」ミヤビは腕を組み、横を向いた。「私、ケンのこと勘違いしていた、私、ケンのこと軽蔑してる、私、ケンのこと嫌いになった、ケンが私のこと嫌いになればいいのにって、思ってる」
「……ショックだな、」俺はミヤビに全てを破壊された気がした。でも、ミヤビではなく、もちろん、俺自身に対して悔やんでいる。こんなことになるなんてと思ってる。「ショックで、死にそうだ」
「よかったね、丁度、ここは屋上だ」ミヤビが鋭い目つきで言う。
「ああ、そうだな、丁度いい、飛び降りよう」俺は言って、フェンスを掴んで揺らした。
「バカ、」ミヤビは俺の袖を掴んで引っ張る。「冗談だって」
「冗談だ、」俺は笑ってミヤビを見た。「死ぬということは、ミヤビのいない世界に行くってことだからな、俺はミヤビが死なない限り死なないよ」
「気持ち悪いこと言うなっ、」ミヤビは僅かに頬を染めていた。その反応が少し嬉しかった。嬉しさが顔に出る。ミヤビは嬉々とした俺の顔を睨み言う。「私、言ったでしょ、先輩と付き合ってるって、アブだって、女の子が好きだって、だからケンがいくらアブな私のことを好きになったって意味ないことなんだよ、だから、さっさと私のことは諦めて、いい、分かった?」
「分からない、」俺は額に手を当て、答えた。頭が痛いとは、まさにこのことだと思った。「分からない、ミヤビ、どうしてそんなに綺麗なのに、アブなんだよ」
「……最低、」ミヤビは泣きそうな顔をして言う。「ケンがそんなことを言う奴だって思わなかった」
「あの花の意味はなんだったんだ?」俺はあの花の意味に少し期待していた。
「花の意味、なんのこと?」
「赤い花を持ってきてくれたのは、ミヤビなんだよな?」
「知らないわよ、私じゃないわよ、」ミヤビは本当に知らないみたいだった。「とにかく、もう、私、帰る」
「ミヤビ!」俺は名前を呼び、腕を掴んだ。「待ってくれよっ!」
ミヤビは振り向き。
そして、髪の毛の色を光らせた。
紫色に、煌めいた。
そして俺の手は痺れた。
俺はミヤビから、手を離す。
「次に私のことを触ったら、」ミヤビはヒステリックに言い放つ。「死刑だからねっ!」
ミヤビはそのまま屋上から去った。
屋上に取り残された俺はミヤビに痺れた手を見ながら、ここは夢かと思った。不思議の国に迷い込んだアリスの気分だった。眠り、眼を醒ませば違う世界にいると思ったが、俺は相変わらず、この世界にいたんだ。俺の部屋にいた。マヨコの奇声で目が覚めた。「アリスはどこに消えたっ!?」
本当にどんな夢を見ているんだろう?
俺は可笑しくなって、微笑みながら、きっと何も変わっていない世界のことを考えた。ミヤビのことを考えると、俺はもうどうしようもなくなっていた。
俺の心はどうしようもなくなっていた。
だから、昼休み。
安賀多と斑鳩といつものように屋根のないあのスペースまで行き、昼食を食べるより先に、会議室の扉を開けて、中に入り、ピアノの前に座った。
安賀多と斑鳩はしばらく俺のピアノを聞いていたが、俺が一向に鍵盤から手を離さないから、会議室から出て行った。
会議室に一人。
俺はピアノを弾き続けた。
ピアノの音に濡れて。
俺のキャパシティは大きくなっていった。
とても時間がかかったけれど。
あらゆる現実を、受け止めることが出来た。
この恋が叶わなくてもいい。
叶わなくていいんだ。
この世界にミヤビがいればいい。
俺がミヤビのことを愛していれば、それでいい。
アブであろうが、なかろうか、関係ない。
ミヤビはミヤビである。
結論はずっと、変わらない。
ニシキと付き合っていようが、なかろうが。
気持ち悪いと言われようが、ミヤビになんと言われようが、構わない。
俺がミヤビのことを愛する気持ちに偽りはない。
それが真実だ。
それが初恋だ。
それが俺の幸せだ。
それでいい。
一つの答えが出た。
もうミヤビに殺されるまで変えない答えだ。
俺は御崎ミヤビを愛し続ける。
俺はミヤビに痺れたんだ。
……どうして俺は、痺れたんだろう?
そのとき。
誰かが、俺の肩を叩いた。
俺は鍵盤から指を離し。
振り向いた。
静寂の中に、余韻。
知らない女子がいた。
いや、どこかで見た顔だ。
しかし、思い出せない。
「丈旗君、あの、」女子は口を開く。「コレ」
女子は俺に手紙を渡した。その手紙の色は濃いに溢れた色だったから、俺はすぐに分かった。っていうか、こういうことは、前に一度、ハルカとやっている。あの時の俺は間違えた。間違えてしまったから、少し面倒なことになったんだ。
目の前で瞳は輝かせている名前も知らない女子になんて答えるのが正解だろうか?
「あの花の意味を考えてくれましたか?」
黙り込んだ俺に向かって、女子が突然そんなことを聞いてきた。
ああ、この女子だったのか、と思った。
恋することのすべて、という言葉を持つ赤い花を持ってきたのは。
いや、だからと言って、少しも俺は揺らがなかった。
揺らぐのは、ミヤビの前だけでいい。
「ごめん、」俺は言った。「実は俺は、御崎ミヤビと付き合ってるんだ、だから俺は花の意味を、考えられない」




