第四章⑨
ブロック・ガーデンの中では紫の太陽が描かれたステージを後ろに簡単なリハーサルが行われていた。フェスティバルには錦景ビルに関わる様々な人たちが出演するようだった。
オープニング・アクトを務めるのはシノヅカカノコ・アンド・オーバドクターズ。そして彼女たちに続くのは錦景女子高校の軽音楽部に所属する、フォレスタルズというバンドだ。その後は雰囲気一転、錦景ビルのオーナであり、錦景市市長で桜吹雪屋藍染タロウ氏による挨拶があり、彼の秘書により錦景市の現状と展望に関する談話がなされる予定だ。それに続くのは錦景市に本社を構える、パイザ・インダストリィの社長、大森テルヨシによる、最新技術についてのプレゼン。続いて『錦景百犬』という劇団による喜劇が一時間。錦景交響楽団の精鋭たちにより奏でられるベートーベンが七十二分。そしてやっとメイド喫茶ドラゴンベイビーズ所属、東雲ユミコと谷崎モモカのステージ。二人は昭和アイドル歌謡を三曲歌う予定だ。そして最後にエクセル・ガールズが満を持しての登場。エクセル・ガールズはいわゆるオオトリだった。そういうプログラムが組まれていた。
そのことは事前に知らされていたスズメだった。でもしかし、リハーサルが進むに連れて、なんだか、もう気分が重くなっていくのをどうしようも出来なかった。頭痛が痛い。胃がきりきりする。こんなに胃がきりきりするなんて、思い出せばたくさんあったかもしれないんだけれどでも、今までなかったって思う。特筆すべき、緊張にスズメは襲われていた。
ステージ、紫色の向日葵の前では、オーバドクターズのリハーサルが行われている。
ロックンロールを奏でている。後ろの絵に刺激されて作ったという『向日葵』という新曲。
途中で篠塚は片手を上げて演奏を止めて、照明さんに指示する。「ここで一気に明るくして欲しいんですけど、いけますか?」
そんな様子を、スズメはお腹を押さえながら、ぼうっと見上げていた。
おへその位置までボタンがある黒いポロシャツに、カーテンの端と端を糸で編み込んだようなロングスカートが、オーバドクターズの衣装だ。
篠塚の独演会しか見たことなかったスズメは、三人揃っての演奏に痺れていた。リハーサルでこんなに格好良いんだから、本番はどれほど格好良いんだろうってスズメは思った。オーバドクターズはエクセル・ガールズのバックバンドもしてくれるという。それはかなり興奮することだけどでも、胃がきりきりしてくるのをスズメはどうしようも出来なかった。
「お腹減ったの?」マナミがスズメの耳元で言う。耳元で言わないと声は、篠塚のギターのディストーションに呑まれるのだ。
「違うわよっ、」スズメはマナミを睨み、耳元で怒鳴る。「お腹減ってるんじゃなくて、お腹減ってるんじゃなくて、その、」スズメはマナミに緊張を悟られたくなかった。朝ごはんも一杯しか食べられなかったとか、ウインナを十本しか食べなかったとか、そういう弱い自分はマナミに見せたくなかった。「……トイレよっ」
「あらぁ、」マナミは舌を出し、スズメに謝る。「ごめんちゃい」
スズメはステージ袖から裏に回り、裏口からブロック・ガーデンの外に出た。右手に進むとお手洗いがある。スズメはそこに入り、鏡の前に立った。ちょっと自分でも驚くくらい顔色が悪かった。ブロック・ガーデンの中じゃ、照明がステージの方を向いているから誰にも分からなかったと思うんだけれど、鏡に映る自分の顔の色は群青色だった。そして目の下の隈が酷かった。朝、鏡で見た顔とは違う顔だ。
スズメは顔を洗った。鏡に映る濡れた顔を見る。
ニコッと無理に微笑んでみる。
呼吸が荒れるほどのエネルギアを消費して後悔。
痛み続ける胃を押さえる。
目を瞑って堪えた。
自分のメンタルの弱さを痛感。
こんなんじゃいけないって思う。
こんなんじゃステージに立つことなんて出来やしない。
ダンスの稽古も歌の稽古も頑張った。
スタイルよくなるために、マクドナルドの量も減らした。
凄く頑張った。
この日のために頑張ったんだ。
頑張ったのに、これじゃあ、駄目だ。
駄目駄目だ。
痛みがなんだかずっと来て、消えない。
スズメを倒そうと襲ってくる。
痛い、痛いんだ。
体に力が入らない。
立っているのが辛かった。
膝を折る。
瞼が勝手に閉じた。
瞳に光が来ない状態のまま、スズメの体は横に倒れた。
バタンと音がした。
自分の体が落ちた音だとスズメは思った。
朦朧とする。
きっと、ご飯一杯しか食べてないからだと思った。
意識が遠のく。
「ちょっと、大丈夫!?」
声がスズメの鼓膜を揺らす。
スズメの体を誰かが揺らす。「ねぇ、ちょっと、もぉ、嫌だぁ、しっかりしないさいよっ」
スズメの頬は弱い力で何度も叩かれた。
スズメはそれに反応出来ない。
反応ゼロ。
エネルギアがゼロだから、そうなる。
「……仕方ないわね」その人は言った。
そして。
熱を感じた。
唇に。
スズメの唇が途端に熱くなった。
口元から痺れが来る。
痺れが、全身に回る。
体中が痙攣した。
長い痙攣だった。
いや、正確な時間は不明だけれどでも。
スズメにはとても長い痺れだった。
痺れは最後に、脳ミソに届く。
スズメは目を開けた。
綺麗な人の顔が近かった。
その綺麗な顔の人の髪の毛は、黄昏のように優しい紫色に輝き、重力に逆らうように揺れていた。
そしてその人の唇はスズメのそれに強く重ねられていた。
唇が離れる。
「ぷはぁ!」スズメは水面から顔を出すときの音を出した。
そしてその綺麗な人を、スズメは目を丸くして見た。
綺麗な人は、なんていうか、魔性に微笑んだ。「もう、大丈夫そうね」
その人はかなり大きめのサイズのドレスを着ていた。スパンコールが煌めくそのドレスの胸元は広く開いていて、その人の豊満な二つの物をスズメは近い位置で観察する事が出来た。
「あら、嫌だわ、」その人はスズメの目元を手で隠した。「そんな風にジロジロ見ないの、ほら、そんなことより、立ちなさい、立てるでしょう?」
その人はスズメを引っ張り立たせた。そして「じゃあね、バイバイ」と手を軽く振って去って行った。
スズメはちょっと放心状態だった。
あの人。
私に何をしたの?
何かしたのは本当だ。
その証拠に、スズメはもう何もかも、大丈夫だった。
頭痛も痛くない。脳ミソは掃除をしてもらったみたいにクリアだ。
胃も痛くない。痛くないどころか、謎の満腹感に満たされている。
なんで?
どうして?
キスのせい?
スズメは自分の口元に手を当て、思った。「……そんなバカな」
そして遅れてお礼も言ってないことに気付く。
追えば、まだ間に合うだろうか。
そう思ったとき、トイレにマナミがやってきた。「あ、スズメちゃん、なかなか戻ってこないから、心配したんだよ、」とそこまで言ってマナミはちょっと今まで見たことないくらい、怖い顔をした。「スズメちゃん、い、一体ここで、」マナミの体はわなわなと震えている。「何してたの?」
「何してたって、」今のマナミを見て、キスのことを言わない方が懸命だと思った。なんとなく、まずいって思ったのだ。「べ、別に、何もしてないよ、トイレだよ、トイレだよ」
「とぼけないでっ!」マナミはヒステリックにがなった。「鏡を見て御覧なさいよっ!」
スズメはマナミに言われた通り鏡を見た。
スズメの顔色は悪くない。血色のいい、HP満タン、という顔色だ。
しかし、スズメの口元は紫色だった。
その紫色は誰かの唇の形をしていた。唇にキスマーク。
誰が見ても、キスの跡。キスの後だ。
スズメは慌てて声を出した。まるで浮気を疑われるイケメンみたいに声を出した。「ちがっ、こ、これは、違うのよっ!」
「何が違うのよっ!」マナミは涙声で叫ぶ。「スズメちゃんのバカぁ!」
マナミはトイレから走り去った。
スズメは後を追ってトイレから出る。左を見る。その先の通路には誰もいない。右を見る。近い場所に、マナミに抱き締められているハルカがいて、その足下には黒猫がいた。
黒猫はスズメのことを睨んでいる。
いつかの黒猫だって気付く。
マシロの家の黒猫だ。
ハルカがマナミに聞く。「マナミちゃん、どうしたの?」
「……聞かないで」マナミは涙声で小さく言う。
「……よしよし、」ハルカはマナミの頭を撫でて、離れたところにいるスズメにゆっくりと視線を向ける。「スズメ、どうしたの?」そこでハルカは吹き出した。「なんで充電された?」
「え、充電?」
「大丈夫だよ、マナミちゃん、」ハルカは言う。「つまらないことだと思うよ、きっと」




