第四章⑥
錦景第二ビルは五月五日を迎えた。フェスティバルの日だ。フェスティバルの名前は、ミス・ヘヴンリィ・ゴッド・フェスティバル。いわゆる天神祭である。錦景第二ビルは朝からちょっと、浮かれていた。光を反射する素材で作成された豪奢な飾りが至る場所を彩り、フェスティバルの存在を知らせるポスタも至る場所に張られていた。
まだ早朝、エクセル・ガールズのスズメとマナミは錦景第二ビルの屋上の天神さんに訪れた。鳥居には一羽のカラスが留まっていた。エレベータから社まで延びる石畳の上にはスズメの群が餌を探している。スズメたちのためにスズメはロウソンで食パンを買ってきていた。千切って、スズメたちに振る舞う。スズメたちはパンを啄む。スズメは優しい気持ちになれる。自分の名前の小鳥だから、自分の名前がスズメだと認識した頃からずっと、スズメはスズメのことを愛おしいと思っている。
マナミはスズメたちを追いかけ回したりして、朝から楽しんでいる。
「ちょっと、マナミってば、可哀想でしょ、」スズメは朝が苦手だ。声も通常のボリュームの半分も出ない。「いじめないないで」
「いじめてないよ、」マナミは朝から高い声ではしゃいでいる。「一緒に遊んでいるんだよっ」
それはつまり、スズメたちとマナミの意志が通っている、ということだろうか、とスズメは朝の回転数の少ない頭で思う。
スズメはスズメたちの隙間を通って、天神さんの前まで来た。賽銭箱にお賽銭を入れた。持っていた小銭をじゃらじゃらと全部入れた。総額、クォータ・パウンダ一個分くらいになっただろうか。こんな大金をお賽銭箱に入れたのは、初めてのことだった。
「うわぁ、スズメちゃん、気合い入ってるねぇ、」マナミは愉快そうに言って、そしてお財布の中から一万円札を取り出した。「じゃあ、私も、えーいっ」
「ちょ、いいの!?」お賽銭箱の中に消えてゆく一万円札を見て、スズメは驚く。「一万円っていったら、一万円だよぉ」
「いいの、いいんだよ、スズメちゃん、」マナミは頭上の高いところにある鈴を鳴らして目を瞑り、胸の前で手を合わせて言う。「天神さんは私のお願いを叶えてくれたから」
「え、お願いって、何?」スズメはマナミの横顔を見て聞く。
「もぉ、言わせるなよぉ!」マナミは目を瞑ったまま変なテンションで、スズメの背中を叩いた。「もぉ、わざと言わせようとしてぇ、分かってるくせにぃ、もぉ、スズメちゃんのバカぁ!」
「バカ?」スズメはマナミを睨む。「バカって言ったなぁ」
マナミは片目を開けてスズメの表情を確認して「んふふ」と不適に笑う。「んふふ、あはは」
スズメは舌打ちした。後ろのスズメたちも舌打ちしてるみたいにチュンチュンしている。「もぉ、なんなのよぉ」
とにかく、スズメは鈴を鳴らし、胸の前で手を合わせ、天神さんにお願いした。
今日のステージが上手くいきますようにって、お願いした。
目を開けた。
マナミが近くでニヤニヤしている。「ねぇ、スズメちゃん、キスしよっか?」
「え?」スズメはちょっと戸惑う。でも、その提案に体がちょっと熱くなった。ダンスの稽古が佳境を迎え、キスどころじゃなくて、あの日、更衣室でことに及ぼうとしたのを朱澄に邪魔されてから今日まで、ああいう空気にならなくて、キスはずっとお預けされていたのだ。だからちょっと、興奮したんだ。「でも、天神さんの前だし、まだ、朝だし」
「天神さんにお願いが叶ったことを見て欲しいの」
「は、どういうこと?」朝だからスズメはちょっと難しいことを言われると、もう分からなかった。「願いが叶ったところを見て欲しい?」
「もぉ、恥ずかしいこと言わせんなよぉ」またマナミはスズメの背中を叩いた。
さっきよりも強い。
スズメは少し苛々した。「叩くんじゃないよ、二度も叩くんじゃないよっ」
「ごめんなさい」マナミはしゅんとした。
「とにかく天神さんの前だし、朝だし、スズメたちも後ろでパンを食べてるし」
「クォータ・パウンダは後で食べさせてあげるから、」マナミはどうやらスズメがキスしたくないと思っているらしい。それは違う。スズメだってキスしたい。でも、天神さんの前だし、朝だし、スズメたちが後ろでパンを食べているから乗り気じゃないってだけなんだ。「ね、お願いよぉ、スズメちゃん、ちょっと、我慢の限界っていうかぁ」
「別にクォータ・パウンダはどうでもいいよ、ただ、ここはちょっと、」言いながらスズメは賽銭箱の向こうからおかっぱ頭がこっちを見ているのを見つけて「ぎょっ」と驚いた。「か、カノコさん!?」
エクセル・ガールズのカップリング曲『エクセル・ディスコ』を作ってくれた、二十八歳独身で、アブで、オーバドクタの篠塚カノコが賽銭箱の向こうから鼻から上を出し、スズメとマナミを感情のない目で見つめていた。
「あ、おはようございます、」マナミは驚くこともなく、冷静に挨拶をした。「カノコさん」
「私は天神さんだ、」きっと隠された口元は笑っているだろうが、目元は無表情そのままにふざけたことを言った。「ほら、さっさとキスしないか、ちゃんと私が叶えた願い、その愛のしるしとやらを見せてもらおうじゃないか」
「はい、」マナミは頷き、スズメの肩を触り、振り向かせた。「天神さんの仰せのままに」
「出来るわけないでしょ!」
スズメは大声を出して拒絶した。
スズメたちがスズメの声に驚き、羽ばたく。
なんだか一瞬で、目が覚めた。「ひ、人前でキスなんて出来るわけないでしょ!」
「私は天神さんだ、」篠塚は前みたいに不敬にも賽銭箱の上に立ち、二人を見下ろして言う。思った通り、半笑いの表情だった。「私は人じゃない」
「ふざけないでくださいよ、もぉ!」
「もう、スズメちゃんってば恥ずかしがり屋さんなんだから、」マナミが指先でスズメの体を触りながら言う。「でも、そういうところが可愛いんだよな、近づいたらすぐに逃げちゃう、まるでそう、スズメみたいに」
「はあ?」スズメはマナミを睨む。「理解不能意味不明っ」
「なるほど、詩的だなぁ、」篠塚は頷いていた。「深いなぁ」
「詩的でもないし、深くもないっ」
「じゃ、よいしょ、」マナミはスズメの肩に手を置き、というか掴んで、唇を近づけてきた。「失礼して」
そのときだった。
チンと音がしてエレベータが開いた。
ぞろぞろと出て来たのは、錦景第二ビルで働く人々だった。世界のサブカルチャショップ、ゲーマーズの店長やラーメン屋の店長やエステサロンのお姉さんたちが見えた。その先頭に、喫茶ドラゴンベイビーズの天之河ミツキの姿がある。衝撃的な極彩色の極道の衣装は相変わらず。天之河は二人の姿を見つけて手を挙げて微笑む。「おーい」
「しょうがないな、」マナミは天之河の方に手を振りながら残念そうに言う。「また今度ね」
スズメは大きく息を吐いた。
篠塚にキスが見られなくてよかったって思った。
同時にちょっと、残念だと思った。
だけど、その気持ちはマナミには言わない。
言えない。
言えるわけがない。
恥ずかしがり屋さん、なので。




