第四章⑤
錦景第二ビルは午後の十時。錦景地下街のマクドナルドの隣にある交番勤務のポリスマンが調子に乗った高校生たちを捕まえに動き出そうとする時刻を、丈旗の腕時計の針は示していた。そのころになって、ミヤビとニシキはやっとブロック・ガーデンに戻ってきた。
扉が開き、入ってくる人の気配に、ステージの上でごろんと仰向けになって眼を瞑っていた丈旗は、上半身を持ち上げて声を上げた。「遅いですよ」
「ごめん、ごめん、」両手に新品のローラを持ったニシキの声はなんだか、サッパリしていた。ニシキが丈旗のところまで来ると、シャンプの匂いが漂った。髪の毛も眼鏡もちゃんとしている。「ちょっと、体を清めてきたの」
ふと、ミヤビを見れば、彼女の髪の毛も濡れていた。二人して漫画喫茶かどこかでシャワーを浴びてきたのだろう。「そうそう、ちょっと体を清めてきたんだ、」そこまで言って、ミヤビは丈旗の顔をまじまじと見た。「丈旗のほっぺ、紫色、どうしたの?」
「いや、別に、なんでもない、ちょっと、ぶつけだだけだ」
丈旗は低いトーンで言って、手で頬を隠した。スズメの友達のあの女子に叩かれた頬はあざになってしまったみたいだ。自分では痕はもう消えていると思っていたんだけど、でもずっとひりひりしていた。頬もそうだが、心もずっとひりひりしていた。女子にあんな風に叩かれたのは初めてのことだった。ちょっと自分でも信じられないくらい落ち込んでいた。あの女子の怒った表情と声が脳ミソから消えない。そして朱澄が言い残した、『お兄ちゃん、昔から女の子のこと、全然、分かってないから』という台詞も消えない。その台詞から導き出される答えは単純明朗に、丈旗が女子の気持ちに鈍感である、ということだ。そもそも、なぜあの女子に叩かれたのか、丈旗は分かっていなかった。
「え、本当にどうした?」
ミヤビは彼女にしては珍しい優しい声を出して、丈旗の頬に手を伸ばし、そこに触れた。
瞬間、丈旗の体は痺れたみたいになって一度大きく震えた。
「あ、ごめん、」ミヤビは手を引っ込めて言う。「痛かった?」
丈旗は首を横に振る。
「痛くない、大丈夫だ、ミヤビ、お願いだ、少しだけ、触っていてくれないか? なんだか、触っていてくれた痛みが消えそうだ」
「え、そんな力、私にはないよ、治癒能力みたいな?」ミヤビは笑いながら言って、ちょっと恥ずかしそうにそっぽを向く。「え、本当にそんなこと頼むの?」
「いいから、お願いだ、いや、気持ち悪いことを頼んでいることは分かっているんだけど」
「え、なんで、泣いてるの?」
丈旗は気付かなかったが、泣いていたみたいだ。「……ミヤビが俺を痺れさせたから」
「え、私、何もしてないよ、」ミヤビはなぜかちょっと慌てている。「いや、でも、もしそうだったら、ごめん」
「ごめん、」丈旗はミヤビの手を取り、自分の頬に触らせた。「ごめん」
ニシキは可笑しそうにハニかんだ。「あらら、本当に、どうしちゃったんだろう?」
丈旗は目を瞑った。
ミヤビの体温を頬で感じれば。
乱れていた呼吸が徐々に整っていく。
乱れていた心臓が規則正しく、脈を打ち始める。
頬の痛みが和らいだ気がした。
「……ねぇ、ケン、」ミヤビは困った風に言う。「もう、いい?」
「もう少しだけ」丈旗は目を瞑ったまま答える。
「……今のケン、変だよ」ミヤビの声に
「大丈夫、自覚があるから、ないよりは、正常だ」
「正常じゃないと思うな、針が振りきれるほどの異常じゃないってだけで、……ねぇ、もう、いい? なんか、ちょっと、恥ずかしくなってきたんだけど、……先輩、黙って見てないで、なんか言って下さいよっ」
「ちょっと、面白い光景ね、」ニシキは冷やかすように言う。「新しいな、すっごく、今度絵にしたい」
「それはそれは、ご感想ありがとうございます」ミヤビはツンと言った。
「ごめん、ありがとう、」丈旗はミヤビの手を離した。「もう、変じゃないよ」
「そう?」ミヤビはゆっくりと頬から手を離す。そして優しい目で丈旗のことを見つめてくれた。「もう、平気?」
丈旗は頷く。
このままミヤビのことを抱き締めてキスしたかった。
でも、ニシキがこっちを見ながらローラを紫色の塗料に浸しているから、それは無理だった。
「さぁてと、一気に完成させちゃおうかなっ」
ニシキは塗料に濡れたローラを両手に持ち、梯子に登った。
ローラが回転して、色を壁に重ねていく。
向日葵の色合いがその都度変化した。
丈旗とミヤビは座り、ニシキの作業を見上げていた。
気のせいかな。
紫色のローラが優しい光を放つように見えたのは。
向日葵が輝いているように見えたのは。




