第四章③
キス・シーンは雰囲気のある場所を見つけてから、ということで一旦、撮影を切り上げ、ミヤビと丈旗は五月五日のフェスティバルが開催される、錦景第二ビル三十二階のブロック・ガーデンに向かった。この時間、生徒会長兼美術部部長の藍染ニシキがその壁面に絵を描いているはずだった。
錦景をどんな風にそこに描くか、ずっと悩んでいたニシキだったけれど、ミヤビのアドバイスを聞いて、何かを見出したらしい。そう、どんなアドバイスをニシキに送ったのかは分からないけれど、丈旗はミヤビからそう聞いた。
ここ一週間近く、ニシキは錦景女子高校で開かれる春の球宴、要は野球大会に関する打ち合わせでずっと部活に来ていなかった。野球大会と言っても錦景女子で開かれるそれは中央の学園祭に匹敵する規模で行われる。そのため、男子の労働力が不可欠で、毎年その日、選ばれた屈強な男子が錦景女子に送り込まれるのだと言う。男子は労働力というだけでなく、プロ野球で言う助っ人外国人の役割も兼ねている。大会はクラス対抗で行われるが、クラスに一人の助っ人が充てがわれる。どのクラスにどの男子が行くか決めるから、だから打ち合わせの回数がどうしても多くなる。
錦景女子、春の球宴の日にニシキは生徒会のメンバと、錦景女子に憧れる屈強な男子を五十人連れて、お手伝いに出ていた。一仕事終えて、ミヤビと丈旗がいる美術室に帰ってきたニシキの表情は憑き物が落ちたような、そんなスッキリとした感じだった。一仕事終えたのもそうだけれど、話を聞くに、どうやらブロック・ガーデンのステージの壁面に描くものが脳ミソにハッキリと浮かんだ、ということらしかった。ニシキはスケッチブックにクレバスでイメージを描いた。すぐにクレバスを机の上に置いた。ミヤビと丈旗にそのイメージは見せてくれなかった。「設計図を見ても仕方がないでしょ?」
全くその通りだと思った。設計図は設計図でしかない。そこに感動はない。つまり、善し悪しは壁に描かれたものを見るまで判断できない。というわけで、撮影を終えてミヤビと丈旗は彼女に内緒でブロック・ガーデンまで来たのだ。しかし、二人の行動は予測されていたらしい。
「お、やっと来たなっ」
ニシキはブロックガーデンの立方体の空間の奥にあるステージに腰掛け、足をぶらぶらさせて、缶コーヒーを飲んでいた。彼女の声は、この不思議な空間によく響いた。そしてその声は熱を帯びていた。いつもの透明度の高さはなく澄んではいない。粘りのあるざらつきと感じた。薄暗い空間にあって、彼女の周辺はぼんやりと照らされていた。ニシキは制服姿だった。中央高校の紺のブレザ、臙脂色のネクタイ、灰色のスカートは全て、乱れていて、極彩色に汚れていた。眼鏡は安賀多の眼鏡のようにわざとらしく右に傾いているし、髪の毛は乱れ、後ろで髪を縛っていたリボンは毛先に近いところで、辛うじて仕事をしていた。そしてまるで芸術家のように、血走った目をしている。彼女のそんな目を見る機会は今までなかった。薄化粧は汗で落ちている。
そして彼女の後ろには背の高い梯子。
さらにその後ろには絵がある。
絵というよりは、壁に付いた色。
色が縦横無尽に走っている。
とても自由に、孤独に、優雅に、加速してとどまることを知らない姿勢。
その中心には、太陽。
紫色の太陽があり、それは光を出し、周囲を走り回る色を煌めかせている。
「これは太陽じゃない、」ニシキは丈旗の心を読んだみたいに言う。「これは、向日葵」
「紫色の向日葵とは、なんて言いましょうか、奇抜ですね」
向日葵。
確かに、それは向日葵に見えなくもないが、しかし、表現しているものは太陽だろう。
いや、そんな解釈はあまり関係ない。
丈旗は感動していた。
目元が震えて、涙が落ちた。
「あらら、」ニシキはそんな丈旗を見て、小さく笑う。「ちょっと、予想してなかった反応だぁ」
「え?」ミヤビが丈旗の顔を覗き込んだ。「まさか、泣いてるの?」
「感動したんだ、」丈旗は目元を拭った。しかし抑えきれない感動、という最上級なものに丈旗の心は奪われていた。丈旗はステージに登り、近づいてニシキの巨大な紫色の太陽、じゃなくて向日葵を間近で見た。「先輩、僕、この絵、好きです、頂けませんか?」
「あはは、無理言わないの、壁に描いたんだから」
「冗談ですよ」
「そんな顔で冗談言わないでよ、あ、でも、丈旗にうってつけの大役があるんだけど引き受けてくれるかな? 黒板係の丈旗君にうってつけの大役があるんだけど」
「大役?」丈旗が振り返れば、ニシキはいたずらな目をしている。「なんですか、大役って?」
「でも、先輩、」ミヤビはいつの間にか丈旗の隣に立って、絵を眺めていた。「これは欲しくなる絵です、私にも下さい」
ミヤビは壁を指先でなぞろうとした。
「あ、待って、まだ乾いていないから」
「指でなぞりたかったんですよ、」ミヤビは指を引っ込めて手を後ろで組んで、愉快そうな表情をニシキに向ける。「私が指でなぞればこの絵は、私と先輩の初めての共同製作になりますから」
「指でなぞるのはまだ早いよ、もう一度色を重ねるんだから、」ニシキは小さく欠伸をした。「でも、そうね、ミャアちゃんがいなかったら、ミャアちゃんのアドバイスがなかったらこんなもの、私は描けなかったな、描いたのは私だけど、私はミャアちゃんのイメージを取り出して、それを絵にしただけ、そうね、この向日葵は私とミャアちゃん、初めての共同製作だね」
「なぜ向日葵を?」丈旗は聞く。「この絵に僕はなぜか凄く揺らぎます、けどでもこれが果たして錦景ですか? なんていうか、日本的でも西洋的でも東洋的でもないですよね、強いて上げれば、中南米辺りの、ええ、そっちの方の風景を僕は連想します」
「講釈が必要?」ニシキが眠そうな目で聞く。
「していただけるならお願いします、僕は先輩やミヤビと違って、凡才なので、ある程度の言葉がないと、深くその素晴らしさを感じ得ない、と言いますか」
「ミャアちゃん、」ニシキは二つ指をミヤビに向けて言う。「説明して上げてくれる?」
「はい、えっと、ケン、つまりね、」ミヤビは説明をしてくれた。「この太陽、じゃなくて向日葵はね、淡く滲み煌めく雅な景色と萩原なんとかって詩人が錦景を評価したことに対する挑戦なんだよ、せっかくのフェスティバルだから、せっかくの機会だからフェスティバルを利用して挑もうってことなんだ、私、ずっと思っていたことがあってね、先輩も私が思っていたことに同意してくれたわ、思っていたことっていうのは錦景のことを、淡く滲み煌めく世界のことを綺麗だって感じることは違うんじゃないかなってこと、ううん、もっと強く確信に近いくらいずっとそう思ってた、私はそんな世界は幻想だと思う、皆、錦景っていう幻想の中にいて騙されてるんだ、淡く滲み煌めく世界にいてあらゆることの本質が見えていない、それなのに見ようとしない、知ろうとしない、この世界に対して対決しようとしない、世界はこのままでいいと思っている、私はそんな世界は違うって思うんだ、だからこの中心の巨大な太陽で、じゃなくて向日葵でこの街を照らし出す、走る色は街、極彩色の私たちの街、淡くもなく滲んでもいない街、本当の街、向日葵によって具体的に映し出される苛烈な現実という表現、錦景を鮮明な世界にするという決意、それが先輩がここに込めた表現、祈り、」そこまで早口で言って、ミヤビは深く息を吸う。「そういう漠然としたイメージを絵にしてみました、それがコレなんですね」
「ありがと、ミャアちゃん、ミャアちゃんが言うように、これは挑戦なの、錦景という名の世界への挑戦、すなわち新しい世界の幕開けの表現さ、誰かが曖昧にして滲ませた世界を、紫色の太陽で、いや、紫色の向日葵で照らす出す、いいえ、浮かび上がらせる、とにかく、ここで一番大事なのは、太陽が照らす世界ではないということよ、紫は電気、エレクトリック、人工的な光、人類の科学の結晶が本来の姿を映し出す、ということよ、お分かり?」
「なるほど、ええ、よく分かりました、それから、」丈旗は頷き言う。「テラス先輩のことを気にしているっていうことは凄くよく分かりました」
「何を言ってるのかよく分からないな」
ニシキは首を傾げ言って、そしてミヤビのことを後ろから抱き締めた。おへその前でニシキの両手が繋がり、ミヤビは身動きがとれなくなる。
「ちょ、先輩、急にどうしたんです?」
「少し眠くってさ、ずっと起きていたからさ、」ニシキはミヤビの背中に顔を埋める。そして、呼吸がスヤスヤし始めて二秒、はっと眼を見開き、ニシキはミヤビから離れ言う。「ごめん、ミャアちゃん、おつかい、頼まれてくれる?」
「はい、なんですか?」
「ローラ、ほら、この前も頼んだやつ、壊れちゃって、」ニシキは大きな欠伸をした。「ミャアちゃん、買ってきてくれる?」
「はい、前と同じローラでいいんですね?」
「うん、あれ、よかったから、滑りがね、ちょうどいい、引っかかりもちょうど良くって、」言って、ニシキは丈旗に視線を向ける。「アンタはちょっとここにいて、私、マクドナルドでコーヒー飲んでくるから」
「え、なんで?」
「あ、ミャアちゃん、ローラ買ったら、マクドナルドに来て」
「はい、分かりました」
「ちょっと、先輩、」背中を向けて離れる二人を丈旗は呼び止めた。「どうして僕はここに?」
「見張りよ、すぐに戻ってくるからさ、今日中に完成させたいの」
というわけで、二人は行ってしまった。
広いブロックガーデンに一人は寂しいものだった。
音もなく、静か。
すぐに帰ってくると、ニシキは言ったが、もちろん、すぐには帰ってこなかった。
ふと。
丈旗は思うことがあった。
ニシキに抱き締められたときのミヤビは。
とても、嬉しそうな顔をしていたな。
それは丈旗といるときには絶対にしない、表情で……。
と、そんなことを考えているときだった。スマホが震えた。メールが来た。小学生の頃、同じピアノ教室に通っていて、今でも丈旗のことを『お兄ちゃん』と呼ぶ女子からメールが来た。
『こんばんは、これからピアノの演奏だよぉ、三度目だけど、緊張するよぉ、お兄ちゃん、助けてぇ!』
『頑張れ』短く返信する。
三十秒後、『うん、頑張る』と返信が来る。
丈旗は少し迷ってから、返信の内容を決めた。彼女も、丈旗と妹のマヨコの影響で美術に興味を持っている。だから『ピアノが終わったらブロック・ガーデンに来い、凄いものが見れるから』、と誘った。




