第四章②
四月の終わり、フェスティバルが近くに迫った休日のこの日、森永スズメと橘マナミはいつものようにメイド喫茶ドラゴンベイビーズで働いていた。
その休憩時間、更衣室でのこと。
「ああ、もう、今週の運勢、最悪だぁ、」更衣室の中央にあるベンチに座り、バイトリーダの東雲ユミコがティーン向けの雑誌を見ながら言った。「こんなときこそ、頑張らなきゃね、嫌なことなんて見ないことにしよ」
そんなことを言いながら東雲はラッキィ・カラーの緑色のメイド服に着替えていた。スズメとマナミは東雲が読んでいた雑誌に目を落とす。マナミの運勢は最高だったが、スズメの運勢は東雲よりも最低だった。
「……嫌なことなんて見ないことにしよ」
東雲を真似てそう言いながら、スズメもしっかりとラッキィ・カラーのピンク色のメイド服を借りて着替えた。キッチン・リーダの谷崎モモカのメイド服だったけれど、東雲から認可をもらったからきっと怒られても大丈夫だろう。最近分かってきたことだが、谷崎はあらゆることであらゆる意味で、東雲に絶対に勝てないのだ。まあ、東雲に勝てる人物はきっと、ここではオーナの天之河ミツキくらいだろうけど。
「いいよ、可愛いよ、似合うよ、ピンク、」スズメの色がモノクロからピンクに変化すると、マナミは目を輝かせて早口で言った。「エクセル・ガールズの時のスズメちゃんの衣装もピンクだし、これからはメイド服もピンクにしようよ」
「そうかな?」スズメは鏡の前に立って、自分の姿を見た。多分、中学生の自分が見たら恥ずかしくて死んじゃうと思う。それくらい、ファンシィでキディな自分だった。でも、今のスズメは死んでない。心の中にアイドルとしての自分がいるか、いないかの違いだと思う。「じゃあ、マナミはブルーに着替えてね」
エクセル・ガールズのときのマナミの衣装の色はブルーだった。
「うん」マナミは頷き、そしてなぜかスズメに接近して、モノクロのメイド服をなんの躊躇いもなく脱いだ。
スズメは近くにある下着姿のマナミの体に見惚れた。
白い肌。
流線型の洗練されたライン。
胸の膨らみ。
肢体に纏わり付く艶のある黒髪。
綺麗。
マナミはスズメに魅せつけるように着替える。
スズメはじっと眺め続けた。
そんな恥じらいすら感じない自分を客観的に気付いたのは、二秒後。
マナミがクスっと小さく笑ったことで気付いた。「スズメってぱ、そんなに見つめるなよ」
「見つめてないっ!」慌ててマナミの体から目を逸らす。凄く心臓がうるさかった。なんでこんなに心臓がうるさいのか、自分で自分が分からない。「……見つめてなんて、見つめてなんてないんだからねっ、」そして遅れてはっと気付く。「スズメ?」呼び捨てにされた?
「スズメちゃん、んー、どうした?」
振り返れば、マナミはすでに着替え終わっていた。ブルーのメイド服は彼女によく似合っていた。しかしマナミを見ると、彼女の裸に近い下着姿が連想されて、スズメの顔は熱を持った。ブルーを品評するよりも、マナミの下着姿を脳ミソから消すことが最優先事項だと思った。消さないと、マナミのことを普通に見れない。
「どうしたの、スズメちゃん?」マナミは無垢な顔をスズメの顔に近づけてくる。目を大きくして見てくる。凄く困った。「顔もピンク色だぞっ」
「もう休憩は終わりだぞっ、」スズメはマナミから逃げるように更衣室を出て、ホールに向かった。「ほら、マナミ、モモカさんに怒られちゃうぞっ」
二人はホールに出て接客を始めた。休日だが客足は疎らだった。棚卸しを手伝いながら、平和に時間は過ぎていった。時折、フェスティバルのことが頭を過ぎった。フェスティバルのことを思うと脳ミソが興奮してどうしようもなくなる。そしてなぜか視線はマナミのことを探し始めるのだ。マナミを見つけると、それだけで安堵感に心が満たされて落ち着くことが出来た。不思議だった。そして不思議なこの気持ちを分析してしまうと、苦悩してしまう予感があるから分析はしない。予感があるということは心はもう知っているということだけれど、とにかく分析をしないでその答えを得ないまま「嫌なことなんて見ないことにしよ」というフィーリングでスズメは仕事に意識を戻した。
錦景第二ビルが午後の四時になった頃だ。あの娘が来た。いつだったか、マナミのケチャップのハートを断り、ドラゴンベイビーズの小さなステージでピアノを演奏して、エクセル・ガールズのデビュー・シングルのA面を作ってくれた、まだ中学生の女の子が来た。名前は確か、天之河から朱澄エイコと聞いていた。
「お帰りなさいませっ、」マナミが声を弾ませて朱澄に近づく。「お嬢様っ」
「あ、えっと、」朱澄は背の高いマナミを見上げ、人差し指を立てた。「一人です」
「はいはい、こちらにどうぞ」マナミは朱澄をソファ席に案内した。
朱澄はオムライスをマナミに注文した。今日の朱澄が纏うのは中学校のセーラ服じゃなくて、図書館とか美術館とか難しい建物に相応しい大人びた服装だった。それが朱澄にはよく似合っていて、可愛らしいな、と、そこまで考えてスズメは最近の自らの傾向を思う。
女の子のことを品評しがち……。
いやいや。
スズメは首を横に振って、分析を中断させる。
中断させて、息を吐いてから、スズメはエイコに近づいた。
曲を作ってもらったのだから一度お礼をと思っていたんだ。
朱澄は鞄の中から楽譜を取り出し、テーブルに広げ、指を中空で動かし始めた。
それを邪魔するのは凄く悪い気がしたんだけれど、お盆を抱き、彼女の横に跪き、肩に触り、声を掛けた。「あの、お嬢様、申し訳ございません」
スズメは最近の自らの傾向を思う。
最近のスズメは女の子のことを触りがち……。
朱澄はスズメの方に顔を向けて、膝の上に手を置いた。「……なんですか?」
「えっと、私、エクセル・ガールズの、」
「あ、」朱澄はスズメの声を遮って言う。「ピンクだ」
「え?」スズメは言われてすぐに反応出来なかった。「……ピンク? あ、えっと、ああ、そうなの、今週のラッキィ・カラーがピンクだから、ピンクのメイドを服を着てて、」スズメはなんでこんなことを彼女に説明してるんだろうって思った。「……えっと、そうじゃなくて、私は、」
「可愛い」
そう、朱澄はミステリアスな表情で言った。
ミステリアスって言うのは、感情が、心が読めないっていうことだ。目の前の女の子が考えていることがよく分からない、という意味だ。よく分からないけれどでも、スズメはとても素直に純粋に飾りない気持ちの笑顔で。
「ありがとう、」と言った。「……ああ、そうだった、ありがとうって言いたかったんだ、私たちの曲を作ってくれて、ありがとうって」
「聞きました、」朱澄はスズメから視線を逸らして言う。「CD」
「どうだった?」
「よかったです、その、綺麗で、声が、それから、」朱澄は早口で言う。「自分の曲を誰かに歌ってもらうことって、こんなに素敵なんだって、思いました、今までこんな経験なかったから、……その、えっと、私の歌、気に入ってくれましたか?」
「もちろん」
「そう、ですか、」朱澄は胸に手をやり、小さく息を吐いた。「よかったぁ」
どうやら彼女は心配していたみたい。気に入ってくれるか、くれないか。なかなか、考えていることが分からない女の子だけれどでも、とってもピュアな女の子だなって思った。大人びた服装をして、それに似合う表情をするけれど、夜は黒猫のぬいぐるみを抱いて眠っている女の子の表情もする。ずっと見つめていれば、ふと、発見することの出来るイノセントな表情。それを含めて彼女なのかもしれない。
そしてスズメはいよいよ、思った。
もう、素直に認めた方が、楽なのかもしれないって思った。
きっと昔からずっとそうだったんだ。
気付かなかっただけで、真実は。
嫌なことは見ないようにしていただけで、本当は。
それが嫌なことじゃないって思えば、今は。
好きだって思える。
「ああ!」丸いお盆にオムライスを乗せたマナミが高い声を出しながら朱澄とスズメがいるテーブルまで来る。「もう、スズメちゃんってば、私より先にエイコちゃんと仲良くなろうとしてぇ」
「残念でした、」スズメは立ち上がって、再び朱澄の肩に触って動かす。触っていると脳ミソで、きっと何とかっていう物質が生じて、なんだか気持ちよくなれることも最近分かってきたことの一つ。「仲良くなろうとしてるんじゃないの、もう仲良くなったんだよ、ねぇ、エイコ」
朱澄は一度惑う目をしたが、すぐに笑顔を作った。彼女の笑顔は素敵だった。「うん、そうだね、スズメ」
マナミはちょっと驚く目をしたが、すぐに普通に戻した。
マナミのそういうところ、いいなってスズメは思う。
「もぉ、スズメちゃんってば、中学生だよぉ、駄目だよぉ、」マナミはちょっと理解不能意味不明なことを言いながらオムライスをテーブルの上に置いた。「はぁい、お嬢様、お待たせいたしましたぁ、オムライスですよぉ」
今日の朱澄はケチャップのハートを拒絶しなかったし、自分で熱を冷まさなかった。今日も小さなステージで朱澄はピアノを弾いた。忙しい時間が続いたけれど、朱澄のピアノを聞いていれば、大変なことも大変じゃないと思えた。
朱澄のステージが終わる頃、スズメとマナミのメイドの時間も終了した。そしてこれからダンスホール・ビスケッタに行き、フェスティバルに向けてダンスの稽古の予定だった。でも、その前に空っぽになったエネルギアを補充するためにマクドナルドに行こうって、スズメはいつも通りマナミに提案した。「もぉ、しょうがないなぁ」なんて言いながら、マナミはマクドナルドに行くのを嫌がったことはない。マクドナルドに行くことはすなわち、スズメとキス出来るということだからだ。クォータ・パウンダ一個につき、キス一回のルールはまだ続行中。マクドナルドの前には、綺麗で清潔で音が出る最新の設備が整ったトイレがある。スズメとマナミはその個室に入り、音を出しながら、キスをして、そしてマクドナルドに向かう、というのが日常になりつつあった。もちろん、クォータ・パウンダのためだったが、徐々にキスが気持ちいいことだって気付き始めていたのは事実だったし、今日はもう、正直言って、スズメはマナミとキスしたかった。
「それじゃ、行こうか、」マナミはいつもみたいにルンルン気分でスズメの手をギュッとして更衣室のベンチから立ち上がった。「今日は何個食べたい?」
「トイレに行ってから考えよっかな」こう答えるのは初めてのことだった。
マナミはスズメの変化に気付いた目をする。
スズメはその目に、笑って見せた。
「……ねぇ、私、スズメちゃん、」マナミはスズメの肩に両手を置いて、顔を近づけて小声で言って、扉の方と事務所の方を短く睨み見て、さらにボリュームを下げて、スズメの耳元で早口で言った。「……駄目、もう、なんていうか、我慢できないから、ここでしない? っていうか、いけるとこまで行っちゃいたいな、そういう気分だわ、ホント、でも、意外とすんなりと、スズメちゃん、こっち側に来ちゃったね、もしかしてあの娘のせい? ちょっと興ざめ? でも、嬉しいわ、歓迎する、もちろん、ああ、本当に神様ありがとう、でも、不安だわ、心配だわ、実は、私、初めてだから上手くスズメのことを鳴かせられるか不安だわ、でも私頑張るからスズメ、いいでしょ、拒絶なんてしないよね?」
スズメの顔はちょっとピンク色、どころじゃなくて真っ赤だった。鏡を見なくても分かる。熱くてぼうっとしていた。マナミがこれから猥褻なことをしようって言ってるのは確かに言葉として聞かなくても、もうどうしたって分かってしまうことだった。スズメが望んでいる未来も同じだ。スズメはずっとマナミの手と唇以外の部分に触りたかった。それは事実だ。認める。認めたらどうしようもなく抑えられない、波のようなものが心の理性を飲み込んだ。理性は流されていく。追いかける気もないから見送る。スズメは頷き「いいよ」と返事をして、マナミの体に近づき、初めて自分からマナミの体を抱き締めた。「上手く鳴かせてね」
ちょっと、自分では信じられないくらい、可愛い声が出たって思った。
「スズメ」マナミの唇がスズメの唇の近づく。スズメも、唇を近づけていく。スズメはキスに飢えていた。マナミの唇が愛おしい。
しかしそのとき、キスの直前。
更衣室の扉がノックされた。
二人は慌てて離れた。
「は、はいっ」ひっくり返った声でマナミが返事をした。
すると、扉が奥に開き、朱澄が顔を覗かせ、微笑んだ。「ああ、よかった、まだ二人ともいて」
「え?」何がよかったんだろうって思った。「エイコ、なぁに、どうしたの?」
「実はさっき、お兄ちゃんからメールがあって、凄い物が見れるぞって、その、二人も一緒に来ない?」
『え、どこに?』二人の声はユニゾンした。
「箱庭、あなたたちのステージ」




