第一章②
「おまたせっ」
可愛らしい声を作りました、という感じの弾んだ声で言って、橘マナミは長方形の狭いテーブルの上にトレーを置き、森永スズメの対面に上品に座った。
「え、それだけ?」マナミのトレーの上になんの特徴のないハンバーガ一つとSサイズのアイスコーヒーしか乗っていなかったから、スズメは聞いた。「それだけで夜ごはんまで平気なの? 貧血で倒れたりしない?」
「うん、平気、っていうか、」マナミはスズメのトレーを見て、引きつったように笑う。「スズメちゃんこそ、そんなに食べて気持ち悪くならない?」
スズメのトレーの上にはクォータ・パウンダが一つと特盛ポテトとチキンナゲットとバニラ・シェイクとコーラがあって、右手にはすでに三回かじった形跡のあるダブル・クォータ・パウンダがある。あるのだけれど、スズメには食べて気持ち悪くなる量だとは思えないし、むしろこの量はセーブしているくらいだった。こんな量じゃきっと、錦景市が夜の七時を迎える前に、腹ペコになって頭痛が痛くて大変になってしまうから、自宅に帰る前にロウソンに行って甘いお菓子、かりんとうとかを購入して、リスみたいにポリポリしながら道を歩かなくちゃいけなくなる。そんな量だ。量をセーブしたのは、今日が錦景商業高校の入学式で、目の前のマナミの姿を初めて確認したのは今日の朝の八時十五分くらいで、相手にあまりお行儀の悪いところを見られたくないという細やかな恥じらいのためだった。でも、これだけしか注文していないのに『そんなに食べて気持ち悪くならない?』と聞かれるのは、本当に理解不能意味不明の事態だった。そんな風に酷いことを言われるくらいだったら、あと三つくらいクォータ・パウンダのLLセットを注文すればよかったと思う。いや、そんなことよりも、心配はマナミのトレーの方だ。もしかしたら、マナミは凄く恥ずかしがり屋で、スズメ以上にお行儀に気を遣っているのかもしれない。本当はクォータ・パウンダを注文したかったのに、スズメが量をセーブしていることに気付いて、さらに量をセーブするという恥ずかしがり屋を発動させてしまったのかもしれない。それを考えるとマナミが可哀想で、スズメには珍しく、優しい気持ち、というものが芽生える。「本当に、足りる?」
「うん、全然足りるけど」
マナミはそう言うが、スズメには信じられなかった。「ポテト食べる?」
スズメはポテトを一本摘んで、マナミに差し出した。
「え、どうしよう?」マナミはマクドナルドの店内をぐるりと見回してから、手の平を合わせてメッチャ笑顔になる。「食べさせてくれるの?」
「は?」スズメにはそんなマナミの反応が謎だった。「食べさせて上げるっていうか」
「嬉しいな、」マナミは言って、スズメのポテトを食べた。「うーん、おいちい」
マナミはスズメの指まで舐めた。なんだ、やっぱり、ポテト食べたかったんじゃない、飢えてるじゃない、とスズメは思ってナプキンを広げてポテトを二人が食べやすいように移動させた。「いいよ、食べて」
「ありがとう、」マナミはそう言ったが、ポテトには手を付けなかった。「でも、スズメちゃんのトレーを見ているだけで、なんだか、もう、お腹一杯かも」
「あはは、」スズメはなんだか可笑しくて笑ってしまった。「嘘付かなくってもいいよ」
「んふふ、」マナミはスズメを上目で見ながら上品に笑う。「スズメちゃんって、面白いね」
「面白い?」スズメはマナミを睨むように見てから、大きな口を開けてダブル・クォータ・パウンダに齧り付いた。もぐもぐして、ごっくんして、コーラで流し込んで聞く。「どこが?」
「ご、ごめん、」マナミは膝の上に手をおいて首を竦めた。「怒った?」
「え? 怒ってないけど」
「なんだ、よかったぁ、」マナミは胸に手を当て、息を吐き、アイスコーヒーのストローを咥えて喉を鳴らした。「よかった、私ね、たまに女の子が考えていることが分からないことがあって、心配になるときがあるの」
「は?」スズメはマナミがいきなりそんなことを言うから、丸い目で睨んでしまった。
「ごめん、なんでもない」マナミはストローを口に咥えて下を向いてしまった。
「いや、別に、……いいけど」
スズメはクォータ・パウンダをもぐもぐしながら、チラチラと上目でこっちを見てくるマナミのことを観察した。マナミはクラスで一番背が高くて、モデルみたいにスタイルが良くて、髪の色が産まれたままの色で長くて、肌の色が白くて、お人形さんみたいで、薄化粧で、美人で、お嬢様っぽくて、まるで錦景女子高校に通ってそうな、そんな女の子だった。丸顔の童顔で、背も高くなくって、太ってはいないけれど別に細くなくって、春休みに髪の色を茶色にして、耳にピアスの穴を開けたスズメとは対照的な女の子だった。そんなマナミと初めて会話をしたのは、ほんの一時間前のことだ。入学式、それから未来に向けたあらゆるガイダンスがつつがなく終了して、お昼からの放課後を迎えたときだ。絶賛人見知り発動中で、四方の席のクラスメイトに自己紹介もせずに家に帰ろうかなって思っていたとき、マナミが話しかけてきた。配られたばかりの専門書を胸に抱いていた。「エクセルは得意?」
「……コンピュータのことはよく分かんない、です」突然話しかけられて、スズメは俯いた。顔が熱くなっているのが分かった。
「私、」マナミは床に膝を付いて、スズメの顔を覗き込むようにして見た。「十ページまで、読んだよ、理解したよ、説明してあげよっか?」
「は?」スズメは急にそんなことを言うマナミを睨んだ。「いきなり、なんなの?」
「……ごめんなさい、」マナミはしゅんとした。「ちょっと、お話したかっただけなんです」
スズメとマナミ、二人とも全くコンピュータのことも分からなければ、国際的な表計算ソフトのことも全然分からなくて、数学も英語も理科も苦手だと言うことが判明したところで、スズメはお腹が減ったので、マナミをマクドナルドに連れてきた。このマクドナルドは錦景市駅の南側の地下街にあって、立地条件が微妙で、あまり混まないから、中学の頃は親友のハルカとよく来て、身のならない話を繰り返した場所だった。錦景商業からマナミの自宅まで反対方向だったけれど、マナミは迷うそぶりも見せずにスズメに着いて来た。なぜマナミが急にスズメに話しかけてきたのか、ということはまだ聞いてない。聞く必要がないことだ。そう思うから、スズメは別の質問をする。「橘さんはどうして錦景商業に入ったの?」
「橘さんって、そんな、よそよそしいなぁ、」マナミは上目でスズメを見つめて言う。「名前で呼んでよ、スズメちゃん」
「……橘さんは、」スズメはマナミの言うことを無視した。「どうして錦景商業に入ったんですか?」
「もぉ、」マナミは頬を膨らませ、指に長い黒髪を絡めた。「……私、本当は錦景女子に行きたかったのぉ」
「ああ、やっぱり、そうだと思った、」スズメはコーラを飲む。「実は私も、親友が頭良くってさ、私も一緒に行きたかったんだけど、机に向かってじっとしているのが、もう、無理で、諦めたの、決断は早かったな、秋ぐらい? 中途半端な進学校に行って中途半端な大学に行くのも違うかなって思って、とりあえず商業かなって、ここなら就職に困らないなかって、でも、エクセルは予想以上に難解だなぁ、私はこれからやっていけるのだろうか?」
「私も数学が駄目でぇ、机にはずっと座っていられるんだけど、全然出来なくって、」マナミは悲しみを表情に表してから、そして笑顔に変えて、スズメを見た。「でも、スズメちゃんに会えたから、いいかなって」
そしてマナミはスズメの手を急に触る。
急に触られて、なんだか、しびれたみたいに、全身が震えた。「……なに? どうして触ったの? どうして私に会えたから、いいの?」
「んふふ、」マナミは不敵に笑って前のめりになる。「ねぇ、バイト探してるって言ったよね?」
「うん、」スズメはマナミから身を引き頷いた。「なぜか人よりも、食費が掛かるからね、なぜか」
「この上の階にドラゴンベイビーズっていうメイド喫茶があるの、知ってる?」