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雅に痺れたね(A Brocade Scene Program)  作者: 枕木悠
第一章 ミス・ヘヴンリィ・ゴット
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第一章①

 錦景女子高校及び錦景商業高校並びに他の県内の高校の入学式と同じ日にもれなく、G県立中央高校の入学式もあった。朝早い時間、昇降口の前でクラスが発表された。丈旗ケンは一年三組の所属になった。

 一年三組の教室は普通教室の集合する南校舎の二階にあって、階段の踊り場を挟んで職員室の隣、というポジションだった。その反対に二組、一組と並ぶ。三階には同じ配置で六組、五組、四組と並び、職員室の真上は屋根のないスペースがあって、そこでは洗濯物が干されていた。見上げれば当然、春の曇り空だった。四組に近い扉から入り、そのスペースを抜けると、反対側は教室二つ分の会議室が存在していた。丈旗が入学初日の朝の時間にぶらっと回ったところはそんな感じだった。

 丈旗の席は廊下から三列目の一番前だった。教卓に一番近い席だ。これでは授業中にいろんなことが出来ないなと少しだけ憂鬱になった。ノートもしっかり取らねば、ヒステリックな女教師を怒らせかねない。丈旗は机の横に鞄を掛けながら、そう思った。

 教室は比較的静かだった。顔を知らない人間たちが集まっているのだから、初めはこうなるのが当然だ。後ろの方では自己紹介し合っているグループがいる。しかし盛り上がりに欠ける。出身校が同じもの同士で、何組か談笑している。しかし盛り上がりに欠ける。丈旗と同じ、春日中学校出身の人間はこのクラスにいない。中央を受験し、合格した人間が何人かいたが、そいつらは皆、理数科という特殊なクラスの所属になった。彼らの教室は理科室がある北校舎にある。

 丈旗は別にコレといって社交的な人間ではないけれど、しゃべらない人間でもないので、誰かと会話をしようと思った。左を見れば、左の席の女子はその左の女子と会話をしている。流行のアイドルの話で盛り上がっている。今一番の盛り上がりだった。なんだか話し掛けづらい。右を見れば、右の席には誰もいない。初日から遅刻だろうか。さて、後ろを見れば、男子が机に突っ伏して眠っている。起こそうにも、耳にはイヤホン。外界からのコンタクトに応じる気はないという分かりやすい表明。前を向けば、教卓がある。その奥には左右に緩やかな曲線を描き広がる黒板。中学の頃より、僅かに大きくなっただろうか。そこにはおそらく上級生からだろう、巨大なメッセージがあった。

『色を付けてみろ』

 そんなメッセージだった。

 通常、入学おめでとう、だとか、そういうことがメッセージとして書かれるべきだと思う。中学のときは確かそうだった。『色を付けてみろ』というのは、なんていうか、少し乱暴ではないだろうか。

 そのメッセージには『色を付けてみろ』というだけあって色が使われていなかった。白いチョークだけで明朝体でもないし、ゴシック体でもない統一感のない文字が、よく言えば勢いよく、悪く言えば雑に描かれている。チョークの側面を黒板に当てて、ゴシゴシと擦るように描かれている。

 色が足りないと思った。

 しかし色を付ける場所、というものが思いつかない。

 丈旗はほんの少しだが、絵を描いたりする。母親の家系が芸術一家なので、小さい頃はいろいろと教育された。そのおかげで絵はある程度上達した。しかしコンクールに出品されるレベルまでの上達だ。大きな賞を取ったことはないし、自分でもよく出来たなとは思っても上手いなとは思ったことがない。こればかりは先天的なものが非常に大きく関わってくるものだから仕方がないだろう。しかし様々な教育のおかげで、見る力というものは養われたと思っている。だから分かる。平凡と圧倒的なものの違い、というものが分かる。

 メッセージをしばらく観察して見ればそれは少なからず、芸術的だった。

 一人で描いたものだ。

 ワイワイと数人で計画性なく、描かれたものじゃない。

 一人が描いた挑戦状のように見える。この学校の美術部の人間だろうか。その人がいたずらに置いていった挑戦状。美的センスを試しているのかもしれない。

 丈旗は腕を組み考える。

 挑んでみようと思った。

 色を付けるとしたら、どこか。

 難しい。

 このメッセージは完成されているからだ。

 もうなにも加える必要も削る必要もないように思える。

 非常に難解な問題だ。

 丈旗のポテンシャルではおそらく解けない難問。

 あるいは。

 考え過ぎだろうか。

 問題などは目の前になく。

 ただの理解不能意味不明なメッセージに過ぎないのだろうか。

 そうだったらそれは少し。

 寂しい気がする。

 丈旗は黒板から視線を離した。

 視線を離したところで、教室の扉が勢い良く開き、女子が入ってきた。

 右隣の席の女子だろう。

 丈旗の推測通り、彼女は隣の席に座り、鞄を机の上に置いた。

 机と机の間には人一人分の隙間が空いている。

 それがすなわち、丈旗と彼女の距離だ。

 丈旗は彼女の様子を横目で窺っていた。彼女と会話しようと思ったからだ。左の女子は流行のアイドルの話題で信じられなくらい盛り上がっているし、後ろの男子が外界とリンクした気配はないし、目の前に広がるのは巨大なメッセージ。右隣の彼女が、話相手に丁度いいだろう。

 彼女は鞄から黒いペットボトルを取り出してゴクゴクと豪快に飲んだ。コーラをそんなに豪快に飲んだせいだろう、げっぷを我慢している。彼女は口元を押さえた。丈旗は彼女の方から小さく「けぷっ」と音がしたのを聞いた。

 彼女はそれから、肩胛骨辺りまである髪の乱れを直し始めた。艶やかな黒髪は所々乱れていた。朝寝坊して、櫛を入れる時間もなかったという感じだ。

 彼女の目元は凛々しい。

 眉の角度も緩やかじゃない。

 全体的に可愛らしい顔の造りだが、鼻筋が通っていて堀が深い。

 血管が透き通って見えるほど肌が白い。

 分かったことがある。

 彼女は丈旗が人生で見たどんな女性よりも、綺麗だということだ。

「……何?」彼女はその大きな瞳を動かして丈旗を見た。

 というか、睨んだ。

 気付けば彼女の方に顔を向けて、丈旗は彼女の顔を見ていた。睨まれて、当然だと思った。

「えっと、丈旗です、」丈旗は笑顔を作って手を差し出した。「よろしくお願いします」

 彼女は丈旗を睨み、そして差し出した手を睨んで言った。「ミヤビです、御崎ミヤビ、よろしくお願いします」

 ミヤビは丈旗の手を握ってくれなかった。

 丈旗は手を引っ込める。

 その段階で、ミヤビは笑顔になった。笑顔といっても作られた上にいびつなものだったがしかし、初対面というものは、こういうものだ。恥ずかしがり屋なのかもしれない。男子との会話を苦手とする女子は世界に以外と多い。だから丈旗は気にしないようにした。気にしないようにしたということは、気にしているということだ。丈旗はこの段階で、ミヤビのことが気になっているということを自覚した。

「どこの中学?」丈旗は聞いた。

 ミヤビは頬杖付き、正面、黒板の方を向いて答える。「箱田」

 箱田中学校は中央から自転車で北に十分の位置にある。

「あ、それじゃあ、家はこの近く?」こんな風に丈旗が積極的に誰かのことを知ろうとすることは珍しいことだ。自然に質問できているかが、少し心配だった。

 すぐにもっと心配すればよかったって思った。

 ミヤビが答えてくれなかったからだ。

 沈黙の発生。

 その原因はまだ不明だが。

 丈旗の、不慣れ、というのが一番の沈黙を産んだファクタに思えた。

「……なんなの?」

 不機嫌そうに、ミヤビは言う。女子に『なんなの?』なんて言われたことはなかった。しかもミヤビは正面を睨んでいる。正面を睨んだまま、不機嫌そうに言った。

 彼女じゃなかったらきっと、丈旗は動揺しなかったと思う。

 彼女だから酷く、これも人生で初めてと言っていい経験だ、狼狽えている。

 彼女は立ち上がった。

 立ち上がり、正面を睨んだまま腕を組んだ。「……なんなの、これ?」

 そこで、丈旗は気付く。

 気付いてほっとした。彼女が睨んでいたのは丈旗ではなくて、白いメッセージのことだった。そのことはつまり、丈旗はミヤビから無視されている、ということになるのだがとにかく、ミヤビは白いメッセージを睨み首を捻っていた。「……難しいな」

「え?」

「……いや、簡単か?」ミヤビは一段高くなった黒板の前に立った。そしてその中央にある小さなチョークの引き出しを開けて言った。「……なんだ、色がないだけじゃない」

 ミヤビは教室を出ていく。すぐに戻ってきた。手にはチョーク。長さはそれぞれ違っている。

 赤、青、緑、黄色。

 そしてミヤビは、メッセージに色を塗り始めた。

 チョークの側面を削り、メッセージをなぞる。

 斜めに当て、細かく音を立てて、表現したり。

 新たな輪郭をそこに加えたりして。

 きっと彼女の手が止まったとき、メッセージは完成したのだろう。

 色は付けられた

 ミヤビの手は色で汚れていた。

 クラスメイトは彼女を奇異な目で見ていただろう。

 丈旗はその黒板一杯の巨大な表現に対してしびれた。

 チャイムが鳴った。ミヤビは欠片になったチョークを引き出しに仕舞って、席に戻る。

 丈旗は彼女にハンカチを差し出した。

 ミヤビは満足した表情で、ハンカチを受け取り、細い指先を綺麗にして、様々なチョークの色に汚れたハンカチをしわくちゃのまま丈旗に返した。

 そのタイミングで担任の女教師が教室に入ってきた。彼女は教卓の前に立つ。背後の賑やかな色が気になるみたいで黒板をきつく睨み付けていた。「……もぅ、全く」

 歳は二十代後半くらいだろうか、担任は自分の名前を名乗るよりもまず、ヒステリックな表情で長い時間をかけて黒板を綺麗にした。「君、立ちなさい」

 どうやら丈旗のことを言っているらしい。訳が分からなかったが、丈旗はその場に立った。

「私が来るときに黒板が綺麗じゃなかったら、許さないわよ、分かった?」担任は丈旗を睨んで言う。「というわけで今日から君は黒板係ね」

「……え?」

「黒板を綺麗にする係、それが黒板係」

「いや、そうじゃなくて、どうして俺が?」

「文句ある?」担任は三色ボールペンをカチカチしながら睨んでくる。

「……えっと、」丈旗は後頭部を触りながら最良の選択を考えて、ここは素直に従うのがベターだと判断した。「ありません」

「よろしい、」担任は腕を組み、笑顔になって頷いた。「座りなさい」

 座って右横を見れば、ミヤビはお腹に手を当てて笑いを堪えているようだった。

 丈旗はそんなミヤビを見てなぜか、凄く嬉しかったんだ。


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