第一章⑨
丈旗の自宅は中央高校から自転車で三十分くらいの距離だった。一度南に下り、一級河川を跨る橋を渡ってから、再び北に向かうというルートを取る。錦景市は風が強い日が多い。だから南風の日も、北風の日も、どっちも汗を掻いて自転車を漕がなければいけない。四月は比較的、風は緩やかに拭いている。だから今日は、汗を掻かずに自宅まで帰ってくることが出来た。
丈旗の自宅は春日中学校の近くにある。歩いて五分という距離だ。だから中学の時、野球部に在籍していたときには、仲間たちの溜まり場になっていた。彼らが持ち込んだゲーム機やカードゲームやボードゲームは、誰かが引き取ることもなく、丈旗の部屋に置かれたままだ。
ガレージに停まる紫色のムーヴの隣の狭いスペースに自転車を停めた。後方の車輪を施錠してからふと、ハルカのことを考えた。
ハルカも丈旗の部屋に何度か来たことがある。
ハルカはボードゲームが好きだった。ハルカと丈旗、それから妹のマヨコの三人で、ボードゲームをしたりして遊んだ。その時間は楽しかった。懐かしい。そして部屋に来るとき決まってハルカは、相談事を持ってきた。そのほとんどは、どこかふざけていて、真剣に答える必要がないものだったと思う。今、思い出そうとして思い出すことが出来ないってことは、そういうことだ。
丈旗は玄関を開けた。
一階は静かだ。両親はまだ仕事から帰っていない時間だ。玄関にはローファが二足。二歳年下の妹のマヨコのものと、誰の靴だろう。友達だろうか。まだ真新しく、艶がある。
二階への階段を上がった。
「あ、帰ってきたっ!」上からマヨコが顔を覗かせ、フルボリュームで言った。「もうっ、遅いよ、何してたの? 今日、入学式だったんでしょ?」
マヨコは春日中学校に通う二年生だ。今も春日の制服姿だった。切り揃えられた前髪はハルカの髪型を真似したものだった。マヨコは童顔で、とにかく丈旗には似ていなかった。
「え?」丈旗は顔を上げて惑う目をした。普段、兄のことに興味関心を抱かない妹のことを珍しいと思った。丈旗兄妹の人間関係は、他の家のそれよりも、客観的に見て随分、ドライだと思う。別に仲が悪いとか、そういうことではない。単純にお互いのことに興味がないだけだ。それは両親に対しても同じスタンスだった。いや、どちらかというと両親が兄妹に興味がないから、そんな風に育ったのだと思う。とにかく、そんなことを言う今日の妹のことを丈旗は変だと思った。「なんで?」
「ハルカちゃんが来てるよっ」
「……なんで?」丈旗は表情を変えて階段を上り、マヨコに並び立ち言う。「なんでハルカが来てるんだ?」
「なんでって、そりゃあ、」マヨコは首を竦めて上目で見て言う。「ケン君の彼女さんでしょ?」
「そんなこと誰が言った、ハルカが言ったのか?」
「……いや、」マヨコは小刻みに首を横に振った。「誰も言ってないけど、でも、そうじゃないの? 私、てっきりそうだと思ってたんだけどな」
「いつから?」
「えーっと、」マヨコは指を口元にやって答える。「とにかく、ずっと前から、ずっと前からだよっ」
「そうか、」丈旗は小さく息を吐き聞く。「それでマヨ、ハルカは?」
「……ケン君の部屋」マヨコは丈旗の部屋を指差し言う。
「俺の部屋で何を?」丈旗はそっちに向かいながら聞く。
「ボードゲームしてた、」マヨコは後ろを歩きながら答える。「ボードゲームしてただけだよ、ごめん、まずかった?」
どうやら丈旗は怖い顔をしていたようだ。
「いや、別に構わないけど」丈旗は怖い顔を消して言う。それは本当だった。
「あ、散らかったままだから片付けるよ」マヨコは早口で言う。
丈旗は部屋の前で立ち止まり、マヨコに振り返って言う。「とりあえず、部屋には入ってくるなよ、マヨ、いいか?」
「うん、」マヨコは困惑した表情を見せながらも頷いた。「分かったよ」
丈旗は自室に入る。
後ろ手にドアを閉めた。
「おかえり、」ベッドに座った、錦景女子高校のセーラ服を身に纏ったハルカは、ボードゲームに使用するダイスを手の中で転がしていた。「あれ、マヨちゃんは?」
「宿題するって、」丈旗は嘘を付く。「えっと、ただいま」
「あ、丈旗も、一緒にやろうよ?」ハルカは足をぶらぶらさせている。「新しいゲーム、買ってきたんだ」
ハルカの足元には錦景ロフトの黄色い袋がある。
「髪、切ったんだな、」丈旗はベッドの反対にある机の上に鞄を置き、キャスタ付きの椅子に座った。「そっちの方が、似合うよ」
「そうでしょ、セーラ服にはショートだよね、マヨちゃんも似合うって言ってくれた、」ショートヘアのハルカはニコッと微笑み言う。「丈旗は、コンタクトにしたんだね」
「うん」中学の時の丈旗は眼鏡を掛けていた。
「よく見える?」
「なんだか、物の見方が変わった、よく見えるようになったわけじゃないと思うんだけど」
「中央高校はどう?」
そう聞かれ、ミヤビのことが脳裏に過る。表情が変わらないように注意した。注意する必要なんてないと思うんだけど。「まあ、居心地は悪くない、錦景女子は、どう?」
「うーん、」ハルカは腕を組み、首を傾ける。「なんていうか、変人が多いね、煩い娘が多くて、初日から騒々しかったな、個性が強いっていうか、エキセントリック・ジーニアスばかりで、楽しい」
「ハルカみたいな?」丈旗は笑って言う。
「いや、私なんて、平凡だよ、いわゆるモブ・キャラになりかねないね、そういう危険を感じたよ、コレはヤバいなって、だから、どんなキャラがいいかなって思って、帰り道、歩いてた、歩いてたら、ここに辿り着いていたの、丈旗に相談しようと思って、丈旗は素晴らしいアドバイザだからね」
「相談?」
「どんなキャラクタが似合うと思う?」
「ええっと、」ハルカの相談を理解するのには、少し時間が必要だった。「何、要するに、キャラ作りをしようっていうの?」
ハルカは一度窓の方を見て、頷く。「うん、高校三年間限定の、森村ハルカを作りたい」
「……そうだな、」丈旗は腕を組み、考える。もちろん、いい案なんてすぐには浮かばない。ハルカがこっちを見つめてくるから、適当なことを言った。「図書室に住まう魔女、っていうのは?」
「図書室に住まう魔女?」
「うん、魔女になるのは簡単、とにかくいつも図書室にいればいい、図書室にいて、たまにさ、魔女の目をして誰かに微笑み掛けたらいい」
「魔女の目ってどんなの?」
「あのときの目だよ、」丈旗は言葉を続けるのに勇気を使った。少しだけ。「俺に告白したときの、あの目」
「なるほどね、」ハルカは頷き、短くなった後ろ髪を触った。「あのときの目か」
「覚えてる?」丈旗は聞いた。
「覚えてるよ、忘れるわけないじゃん、」ハルカは愉快そうに笑って俯いた。「……図書室に住まう魔女か」
「他にも案を出そうか?」
「うん、出して」
それからマヨコを交え、ボードゲームをしながら、ハルカの三年間のキャラクタについて話し合った。
楽しい会話だった。
少なくとも丈旗はそう思った。
ハルカが何を考えているのかは、一ミリだって分からなかったけれど。
結局、三年間の森村ハルカのキャラクタは『図書室に住まう魔女』に決まった。
「あ、丈旗に言っておかなくちゃいけないことがあるんだった」
玄関でローファを履き、爪先をトントンしながら、ハルカは言った。
「何?」
聞くと、ハルカは首を横に振った。「ごめん、やっぱり今日はいいかな」
「今日は?」
「それじゃあ、またね、さよなら」
「さよなら」
丈旗が玄関の閉まった扉を見ながら、大きく息を吐いた。
ハルカのことが分からない。キャラ作り、というのは、きっと冗談だろう。
得意のハルちゃんジョークだ。
しかし今日、どうして丈旗のところに来た?
ハルカはまだ丈旗のことを好きなのか?
そんな素振りは一切なかった。見せなかった。そういうことを一言も話さなかった。今日のハルカは丈旗に恋文を渡す前の、ハルカだった。
だから、もう丈旗のことは諦めたのだろうか?
言っておかなくちゃいけないこと?
それは果たして、何だったのか?
これは難しい、問題だ。
いや、意外と、簡単か?
洗面台に向かって、コンタクトレンズを外した。顔を洗う。タオルで拭いて、自分の顔を見る。「眼鏡のときの俺が、好きだったのかな?」
鏡の中の丈旗は笑顔になった。
一つの問題が解決したみたいで、気持ちはすっと晴れていた。
気持ちは晴れて、気付けばミヤビのことを丈旗は考えている。




