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プレリュード

 御崎ミヤビは、俺にとって初恋の人だった。

 彼女に出会うまで俺は誰かに恋をすることはなかった。自発的に恋をしようと思ったこともない。中学の頃の話だ。クラスに俺とハルカという女子を恋人同士にしようという雰囲気が起こった。ハルカ、という女子は黒縁の眼鏡を掛けていた。産まれたままの色をした髪はとても長くて、立っていれば床につかなかったが、着席すると床につくので、髪型はいつもポニーテールだった。彼女はクラスの委員長をしていた。頭がよく、作文が上手で、趣味は猫とじゃれ合うこと、そして運動が苦手な彼女は皆に公平に優しかった。誰からも好かれる人格者が、全世界のどのクラスにも一人は存在すると思うのだが、錦景市立春日中学校三年二組の場合の一人は、まさしく彼女だった。そんなハルカにある日(正確な日にちは覚えていない、確かその日、水泳の授業があって、彼女の長い髪はいつまでも乾いてなかった)、手紙を貰った。

「……何かの間違いじゃ」

 俺は言った。その手紙が愛に溢れた色をしていたから、どんなに鈍感な奴だってきっと分かる。それはラブレターだった。もしくはラブレターを使って俺のことを笑いものにしようとする罠だ。その二つしか、考えられないが、しかし、ハルカは誰かを罠にはめるような女子ではないことは同じクラスで様々な会話を重ねていた俺には分かることだし、目の前のハルカの目は何かを企んではいなくてただ、頬はピンク色で、唇が微動していたから、ああ、これは絶対、そういうジャンルの手紙なのだな、ということは特別な思考回路を働かせなくても、分かることだった。滅茶苦茶分かりやすい。だから、俺は今までのハルカのあらゆる行動の意図を考え直さねばならなかったし、無論、まさに目の前に立っている現在のハルカという女子についてのあらゆることも考え直さねばならなかった。印象の修正。大胆な修正作業。少し考えなおして、ああ、どうやらこの作業には、とてつもない苦痛が伴う、ということに早くも気付いたから、俺は手紙を突き返すようにハルカに向けて言ったのだ。「……何かの間違いですよね?」

「どうして敬語なんですか?」ハルカはおそらく自分の緊張を俺に悟られたくなくて声のボリュームを無理に上げた。ハルカは一度俺から視線を離して、小さく笑う。「あ~あ、分かってたけど、読んでもくれないんだ」

「宛先が違うって話」

「そういうところが好きなんだけどな、」ハルカは顔を両手で覆って、さらに自分の爪先を見た。「丈旗みたいな人、他にいないんだけどな」

 予測されてた沈黙。

 いやに静かな教室。

 放課後。

 いつも何人かが目的もなく残って談笑しているこの教室の時間に、誰もいない。

 不自然極まりない。

 おそらく俺以外の二十九人のクラスメイトは、同じ情報を共有していたはずだ。

 自分の鈍感さに腹が立つ。

 機敏にこの不自然さに反応していたら、今頃自宅の部屋でロックンロールを聴いてベッドにごろんとなっていられたはずだ。

 彼女の口から丈旗ケンに向けての「好き」という発声を、聞かなかったはずだ。

 聞かなければ、こんなに汗を掻く必要もなかった。

 彼女のことを傷付けたくない。

 女の子には優しくありたい。

 だからといって、自分の気持ちに嘘は付けない。

 俺の哲学を自ら否定する愚行は避けたい。

「……私のどこが嫌い?」ハルカは顔を上げて笑顔で聞く。

「……嫌いなところなんてないけど」

 俺は必死に何かを考えている。何を、ではなく、何かを、つまり、脳ミソは回転しなくなって『先生!』と担任の斎藤先生を呼び、アドバイスを貰いたい精神状態だった。斎藤先生はこの時代にあって、稀有な、何かを悟られた人だった。つまり、何もかも『まあ、そういうこともあっていいんじゃないの?』と簡単に片付ける人。いや、ただ単に物事に真摯に向き合うのを面倒臭がっている駄目な人間だとも言える。現に斉藤先生の評価は教師陣の間で芳しくなかった。しかし俺は斉藤先生の『まあ、そういうこともあっていいんじゃないの?』というアドバイスを聞きたかった。アドバイスを聞いて、……いや、そのアドバイスは『いいじゃん、付き合っちゃえよ!』という意味になるのではないのだろうか? きっとなるな。ああ、なる。斉藤先生が来たら、そうなっちゃう可能性の方がずっと高い。だから『先生!』とは呼べないな。呼んだとしても、きっと俺の声は乾いた喉のせいでひっくり返ってしまうだろう。だから呼ばない。ああ、しかし、でも、……ああ、俺は一体何を考えているんだろう、なんてそんな具合に、俺は軽く盛大に少しづつ壮大に、覚えたての四字熟語は右往左往です、という風に僅かに知的に、パニックだったことは否めない歴史的事実だった。本当に。

「じゃあ、私のどこが好き?」ハルカは首を絶妙な角度で傾けて可愛らしい目の形を作って聞く。

 なんて答えるのが正解か、なんて答えるのかが間違いか、判断するのはその時の俺には難しかったが、この解答に問題はないと思ったのが、明らかな問題だった。「好きなところなんてない」

「……そう、」ハルカは俺に背中を向けて言う。「ごめんね」

 その放課後は、それで終わった。それで終わったのだが、その放課後を境に、クラスにある雰囲気が産まれてしまった。俺とハルカを恋人同士にしようという、ハッキリと言語化されないが、ハッキリと分かるムードの発生。席がなぜか隣同士になったし、あらゆる場面でクラスメイトが神隠し合い二人きりになることが増えたし、校庭で野球部のマネージャに汚いグローブを渡されたと思ったら、ボールが飛んできて、ボールが飛んできた方向を見るとハルカが立っていて、四十分間の無言のキャッチボールが始まった時は、もう現実を夢だと思った。

「どうして振ったんだ?」ある男子が俺に問う。あの放課後の二人の短いやり取りは、三年二組の全員が共有している情報らしい。「ケン、お前、委員長のこと、好きだったんじゃねぇの?」

 どうやら俺はクラスの人間からは、ハルカのことが好きだと、愛していると、彼女に対して情熱的だと、そう見られていたらしい。これには驚いた。

「照れてただけなんでしょ?」ハルカといつも一緒にいる森永スズメが俺を威圧的に睨んで言う。「あんた、恥ずかしがり屋だもんね」

 どうやら俺はクラスの人間から、恥ずかしがり屋だと認識されているらしい。これにも驚いた。この頃の俺は、中学生生活もピリオドに接近しているのに驚いているばかりだった。

「本当は、ハルカのこと、好きなんでしょ? 私からハルカに言ってあげるよ、好きなんでしょ? 好きって言いなよ、好きなところなんてないって言って、実はハルカの全部、好きなんでしょ? ハルカ、あんたに振られて泣いたんだよ、女の子を泣かすなんて最低な男、自分でも最低だって思わない? 男の子って女の子に優しくするものでしょ? 恥ずかしがり屋だから、あんた、優しく出来なかっただけなんだよね?」

「女性に優しくすることは、男として当たり前のことだ、一応、俺には哲学がある、女性には優しく、俺の哲学の中の要素だ、恥ずかしがり屋とか、関係なくて、あの時は、」俺は勘違いさせたままではいけないと思った。ハルカの親友のスズメにきちんと説明しなければいけないと思った。歯切れよく言う。「あの時は、俺はハルカを悲しませたくなかった、でも、俺はハルカのことを好きでもないし、愛してもいないし、情熱的でもないし、ポジションで言えば、森永書記、」スズメはクラスの書記である。「君よりもずっと後ろだ、君のほうがずっとハルカのことを考えているし、ハルカのことを好きだと思う」

「何言ってんの!?」なぜか、スズメは切れている。「私がハルカのこと好きだって!? 私がレズビアンだって言いたいの!? そういうことじゃねぇんだよ!」

「レズビアンの話をしてるんじゃなくて、」俺は胸の前に手を広げ、スズメの接近を制した。「どうか、冷静になってくださいよ、森永書記、らしくないですよ」

「私らしいって何だよ!? あんたは私の何を知ってるんだよっ!」

「とにかく俺はハルカのことを悲しませたくなかったし、優しくしたかったでも、」俺は早口で言う。「でも、俺には哲学がある、恋の哲学がある、ラブ・フィロソフィってやつがあるんだよ、コレを言うのは、とてつもなく恥ずかしいんだが」

「ほら、あんた、やっぱり恥ずかしがり屋なんでしょう、だからハルカのこと好きだって言えなかったんだ、好きって言いなよ」

 自らの哲学を階段の踊場で話すことは誰だって恥ずかしいと思う。恥ずかしがり屋と、俺の哲学はここでは関係がないことは単純明快。だがしかし、スズメの目には一緒に映るらしい。なぜそう映るのか、俺には理解不能意味不明だったが、女の子には優しくしたいから、その指摘はしない。スズメの発言を無視して言う。「俺は好きな人を見つけるまでは好きにならない、好きな人を見つけて好きになる、恋に関して俺は、そういう単純な哲学を掲げ生きているのでだから、」

「ハルカのことを好きになればいいじゃない、」スズメは俺の言葉を遮って言う。「それじゃ駄目なの?」

「すいません」俺は謝った。

「私に謝らないでよ」

「ハルカにはしびれなかったから」

「しびれる?」

「誰かを好きになるってしびれることだろ?」

「理解不能意味不明、」スズメは首を横に振って、呆れた風に言う。「しびれたら恋って、そんなことで恋を判断するの? 今までどんな風にしびれてきたの? ねぇ、どんな気持ちだったの? 教えなさいよ、バカ」

「いいや、」俺は首を横に振る。「まだ一度もないから」

「じゃあ、これからも一生ないんだろうな、なければいいのに、後悔すればいいのに、恋もせずに死んじゃえばいいのに、今すぐに死んでしまえ、バカ」

「いや、来るさ」

 スズメは断言する俺をじっと睨み、大きく息を吐いた。「まったく、変な哲学をお持ちね」

「分かって頂けました?」俺は笑顔を作って聞く。「僕がハルカの恋人になれない理由」

「なんとなく、ね、だけど、納得はしない」

「否定はしない?」

「ハルカはそういうあんたが好きなんだから、」スズメは腰に手を当てて言う。「私は否定出来ないわ、悔しいけど、ムカツクけど、死んじゃえばいいって思うけど、とにかく、うん、なんとなく分かった、要はあんたを痺れさせればいいんだね?」

 ハルカがスタンガンを持って俺の前に現れる、という展開はさすがになかったけれど、スズメに哲学を説明してからも、クラスのムードは変わらなかった。いや、むしろもっと過激になった。過激になったけれど、俺はハルカにしびれることはなかったし、そんな雰囲気を放置しているハルカのことを、少しだけ嫌いになった。

 無理に作る恋に何の意味がある?

 作り物に。

 嘘の恋に、価値なんてないじゃないか。

 卒業まで、気持ちはずっと、微妙だった。

 クラスの雰囲気も、悪くはなかったけれどずっと、微妙だった。

 クラスが浮かれているときは、俺も浮かれたけれど、どこか場違いな気がした。

 ずれてしまったようだ。

 歯車が横にズレ。

 空回り。

 伝わらない。

 伝えたいことも、伝えられない。

 俺は言えなかった。

 俺がハルカを泣かせるようなつまらない台詞を吐かなかったら。

 俺は最後にハルカに。

「さよなら」と言えたのだろうか?

 それだけは、後悔している。

 それくらいには、仲が良かった二人だ。

 俺とハルカは別々の高校に進学する。

 ハルカは錦景女子高校に。

 俺は錦景市と楢崎市の境に位置する中央高校に、居場所を変えた。

 そして浮かない顔の俺は彼女に出会うことになる。

 彼女の名前は御崎ミヤビ。

 ミヤビに出会って俺はしびれた。

 それ以来俺は……。



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