訪問販売員
僕がまだ中学1年生の話である。僕のうちに教材の訪問販売員が来た。僕はこの手の話に全く興味を示さない子供だった。街でのキャッチセールスや、チラシの類はほぼ受け付けない。そんな僕が教材を買った。正確には僕の母親を説得して買ってもらったのだが。その時の話をしたいと思う。
ピンポーン。ベルがなった。母親が出て最初は対応していた。どうも教材の訪問販売らしい。販売員の人は僕を呼んでほしいとのことだった。僕はすでに塾にも通っていて、これ以上あまり勉強はしたくなかった。でも、将来は医者になりたくて、高校は県内でトップクラスの伊那学院光陵高校に入学を希望していた。
とにかく一度話を聞いてみようか?僕はそう思った。訪問販売の営業マンは30代後半でスーツにネクタイ。いかにも営業マンらしい口が上手そうな人だった。
「寛明君だね。こんにちは。株式会社フルサポートチームの富樫由寛と申します。」営業マンは恭しく自己紹介をした。「こんにちは。」僕は返事をした。「そういえば私の由寛の寛の字と寛明君の寛の字は一緒なんだね。なんだか嬉しいなあ。」営業マンがあんまり嬉しそうにいうもんだから、僕も照れながら内心そう思っていた。「実はさ、寛明君に是非とも紹介したい教材があるんだ。」「はい。」僕は答えた。以下はそのやり取りである。
富樫「ところで、寛明君。ファイトー!!って言ったら、なんて答える?」
僕「いっぱーつ。ですよね。」
富樫「おっ!(オーバーに驚きながら)そ、即答だったね!!で、なんで寛明君は即答でいっぱーつ。って答えたのかな?」
僕「テレビのCMでやってたから。」
富樫「テレビのCMでやってるからだよね。それ。でさあ、寛明君。それってさ、覚えようとして覚えたものだったのかな?」
僕「違います。」
富樫「じゃないよね。で、どうして覚えようとしなくてもファイトーいっぱーつ!がいえたのかな?」
僕「わかりません。」
富樫「実はね、そのCMって1日に何度も何度も放送してるでしょ?」
僕「そうですね。」
富樫「それが、頭の中に刻み込まれちゃったんだよ。コンピューターでいうインプット。ところで寛明君、自転車に乗れるよね?」
僕「乗れるよ。」
富樫「乗れるよね。で、仮に寛明君が大きな病気や怪我をしたりして、何年か自転車に乗ってなかったとするよね。どうかな?自転車には乗れそうかな?」
僕「多分、乗れそうな気がします。」
富樫「どうして乗れそうな気がするのかな?」
僕「うーん、なんとなく。」
富樫「それは体で完全に乗り方をマスターしちゃったからだよね。昔から言うじゃない。体で覚えたことは忘れないって。その代わり頭で覚えたことは忘れやすいって。」
僕「そうですね。お父さんがそういってました。」
富樫「でも、ファイトーいっぱーつは、10年聞かなくても、ファイトーっておじさんがいったら?」
僕「いっぱーつ!って答えます。」
富樫「だよね。実は、何度も何度も繰り返し頭に入れたことって言うのは、体で覚えたことと同じ位忘れないものなんだ。」
僕「じゃあ、なんで勉強は何度やっても忘れるんですかね?」
富樫「いい質問だ。勉強は覚えることが次から次、新しいことを勉強するからだよ。だから、頭にインプットされる前に新しいことに行っちゃうから、前のことを忘れちゃうんだよ。自転車の乗り方を覚えきる前に、バイクの乗り方にいっちゃうようなものだね。」
僕「なるほど」
富樫「お母さんにも聞いてもらいたい事なんですが、これは現代の教育カリキュラム上、仕方のないことなんです。実ですね、我々は県の教育委員会のカリキュラム表を持っていまして、これは学習塾や教育関連の人間なら入手できるものなんです。これがその表なんですが...。」営業マン富樫は、おもむろにカバンの中からパンフレットらしきものを取り出した。
富樫「学校の先生というのは、公立でも私立でも必ずこの教育カリキュラムに則って年次の授業計画を立てるんです。ですから、子供の勉強を伸ばすことよりも、1年間に決まったカリキュラムをこなすことを基調に先生は学校で教えているんです。ほら、みてください。膨大でしょ。」
母「これを一年でやるんですね。」
富樫「そうなんですよ。乱暴な言い方をしてしまえば、子供がついて来れようが来れまいが、この通り、そう!この通りやらないといけないことになっているんです。」
母「なるほどね。」
ここで、営業マン富樫がやっと販売したい教材らしきものをカバンから出してきた。それはやたら薄い緑色の表紙なテキストだった。
富樫「お母さん、これなんですよ。実は、たいていのお子さんが中学校という一番大切なときに勉強嫌いになってしまう訳は。」
母「その薄いテキストのようなものが・・・」
富樫「そうなんです!実は、信じられないかもしれませんが、これで1科目1年分なんです!たったこれだけなんです!1年に学ぶことって!!でも、それじゃあ当然、先生は仕事になりませんよね?学校も塾もほとんどの時間は授業をしていますからね。」
母「そんな薄い内容なの?信じられない。」
富樫「いやいや信じられないでしょう。学校のほか、月何万円も塾にお金を使えばそれは信じられなくって当然です。寛明君も塾に通ってますよね。」
母「ええ、通っています。」
富樫「塾は塾で悪いとは申しません。しかしながらお母さん!塾というのは、学校とほとんど変わらない分厚い教科書を、学校よりちょっと前を予習、またはちょっと後を復習しているに過ぎないんです。寛明君、勉強は大変だよね?」
僕「大変だよ。でも一生懸命勉強してても(学力が)伸びないんだ。」
富樫「そこでさっきのファイトいっぱーつ!に戻るけど、このテキスト、特別にちょっと見せてあげるからね。」営業マン富樫はここで始めて、教材のテキストをカバンから取り出して、僕と母親にみせてよこした。
富樫「ほらほら、これだけなの。どうしてそういい切れるかって言うと、これがドンピシャで高校入試に出るから。」営業マン富樫は居住まいを正すと、
富樫「我々は先ほどのカリキュラムを持って、過去の県立高校入試問題と照らし合わせてこのテキストを作っています。もちろん、私立高校も然りです。なぜなら私立高校も教育委員会のカリキュラムを無視した入試問題は作れないからです。いいですか?ここからが重要な点なのですが、入試問題ってこの薄いテキストをきちんと理解できているかどうかを聞くためにあるようなものなんです。このテキストはそれを逆算して作っているので間違いありません。寛明君、ちょっと一年生用の数学を見てみて。」僕は、営業マン富樫のからテキストを見せてもらった。
富樫「これなら簡単そうでしょ。」
僕「うん、簡単そう。」僕はだんだんその気になってきた。
富樫「このテキストには最低限のことしか書かれていない。そして1年分の内容の全体を把握できる。これを繰り返し繰り返し何度も何度も頭に叩き込む。それだけでいい。そうすれば、さっきのファイトー?」ここでも、営業マン富樫は僕に振り向ける。
僕「いっぱーつ!」
富樫「のようなことが、勉強でもできるようになる。これなら、どの位で終わりそう?」
僕「がんばれば1週間で終わらせそう。」
富樫「すごいね、じゃあ、君は1年間分の勉強を1週間で終わらせ、理解したってことになるね。」
母「でも、やっぱりこんな薄いテキストで勉強ができるようになるなんてしんじられません。」
富樫「お母さん。そこなんです。何もこのテキストだけが完璧だなんていってるわけじゃないんです。もちろん、学校の勉強も必要ですし場合によっては塾も必要かもしれない。でも、これで、いいですか、きちんとした1年分の勉強を身に付けるんです。そうすれば、授業という授業は全部復習になり、また理解を深める補助の役割にもなりお子さんの学力は本物になります。」営業マン富樫は一呼吸置き、「寛明君、学校の友達ですごく頭のいい子を想像してみて。」
僕「うん」
富樫「その友達のなかで、あまり勉強してなさそうで、部活とかに一生懸命な子っていないかい?」
僕「います」実際に同じ部活にいたので、僕はそう答えた。
富樫「その子は偶然そういう方法を発見したか、ものすごく記憶力がいい子なんだな。」
僕「わかりません」
富樫「お母さん、こういう一部の天才肌の子供は、今お話したようにどちらか知りませんが、勉強のコツをつかんでいます。でも、勉強のコツは2つしかありません。教育のカリキュラムを知って勉強するか、先に一年分の授業を頭に叩き込んでしまうか?この2つのことを同時にできるのが、このテキストなんです。」
母「じゃあ、塾はいらないと。」
富樫「私に塾が無駄だからやめろなどという権利はございません。しかしながらお母さん、こちらの教材を使って、塾をやめた子供さんは大勢います。それでいてこの教材を使う前より格段に成績が上がっている子がたくさんおります。」
母「ちなみにおいくら位しますか?」
富樫「気にせんで下さい!そんなに高くありません。1教科1年分2万8000円ですが、5教科セットで9万8000円。さらには3年分セットだと24万8000円でお求めになれます。バラバラにお買い求め頂くと、42万円いたしますが、今でしたら、24万8000円でセットでお買い求めいただけるので、約17万円お買い得となっております。失礼ですが、ちなみに塾には1ヶ月おいくらかかってございますか?」
母「1ヶ月3万円ほどかかっております。夏期講習は通常月+5万。冬季、春期講習も二つあわせればそんなものです。」
富樫「といいますと、ざっと年間46万円ものお金が塾にかかる訳ですね。そのうちの夏季、冬季、春季の3年分にも金額にもなりません。これ以上塾に通わせても、学力が飛躍的に上がるかどうか・・・・。どうですか、こうした教材販売は他にないんです。他にもいろいろな教材がありますが、他は分厚い何百ページもあるものしか来ないんです。母さん。お尋ねしますが、分厚くてすぐほっぽり投げる教材、うすいけど最後まで頭に染み付いて学力アップが望める教材。どちらかといいますと、どちらの方が、いいなあーとお思いになられますでしょうか?」
母「そりゃ薄くて学力が伸びるほう。」
富樫「そりゃそうですね。お子さんの将来の為と思って、なさってあげませんか?」
母「寛明はどうなの?」
僕「僕はやってみたい。」
母「塾に行きたくないから?」
僕「そうじゃない。部活もしたいし、遊びも...したいから。」
富樫「そうだね。これから楽しいもんね。勉強に部活に、恋に…。」
僕「うん」
富樫「それではこうしましょう。当社では特別に分割払いというものがあって、教材は今日この場でお渡ししますが、月々6,800円の均等払いのものと、ボーナス月に3万円ずつ、月々2500円お支払いいただくものと2種類ございます。どちらかといいますとどちらの方がいいなあとお思いになられますでしょうか?」
母「均等払いかな。これだったらお母さん払えるし。」
富樫「ありがとうございます。そうしましたら、本日から36回払いということで、こちらにサインをお願いいたします。分割ということで、自動引き落としになりますので。」
母「はい。」ついに、母が契約した。「寛明。買うけど、絶対やるのよ!!」
僕「うん」
富樫「ありがとうございます。今、車から在庫をとってまいります。」しばらくして、営業マン富樫が戻ってくる。
富樫「はい、おめでとう。これで圧倒的にみんなをあっといわせられるね。ねね、寛明君。試しにここで一問解いてみない?」
僕「うん」営業マン富樫は商品を袋からあけて取り出した。こうして僕が一問問題を解いている間、契約は完了したようだった。
富樫「本日は、ご契約ありがとうございます。では、失礼いたします。」
営業マン富樫が帰った後、僕は母に呼び出された。「いい?お父さんには(教材を買ったこと)内緒にするのよ!。」母は言った。「うん、内緒にする。」僕は答えた。「あんたがそこで開けて一問解いたから、もう返品できないんだからね。」あれから20年が過ぎ、あの教材は...?伊那学院は...?医者になる夢は...?あの営業マンと僕は今...。読者のご想像にお任せする。
END