<76> ガルニアの兄妹
「少し、お酒が過ぎたようですね」
ワインを滴らせながらもルーデンスは表情を少しも歪ませず、笑って見せた。
それでもアディールは膝を折り、俯いたまま頭を上げようとしない。
シューゼルハもルーデンスの言葉で我に返ったようだった。
こぶしをぐっと握り、ひとしきりわななかせた後、唇を噛みながら膝を折った。
「申し訳…ありません…」
たとえ次期王であったとしても、現在は未だ王子の身分であるシューゼルハが一国の王を侮辱していいはずが無い。
それを良しとすれば、ガルニアとエーゼルは婚姻による同盟どころか、確実に敵対国として摩擦が増すだろう。
どんなに腹が立つことがあろうが、堪えるべきところだったのだ。
異論があるなら後に書状なりなんなりで正式に抗議をするのが鉄則である。
なのに、諸外国国賓や、エーゼル国内の有力貴族の前で国王を著しく侮辱する行為を行った。
どうなるかは火を見るより明らかだった。
「ガルニアの翻意、と取って宜しいですよね?」
ルーデンスはそう言って笑った。
その言葉にアディールは顔を上げ、色をなくしたように驚愕で目を見開き、肩を震わせ、口元に手を当てる。
が、すぐさま再び頭を下げ謝罪の言葉を述べた。
まるで兄の失態を自分で取り戻そうとするかのように。
その横でシューゼルハはより一層強く唇を噛み締め、深く頭を下げた。
「申し訳ありません…ご無礼を致しました」
「いえいえ、気になさらないで結構」
「陛下…!我が兄の振る舞い、どうか…どうか、お許しくださいませ」
「慣れぬ土地ゆえ興奮なされたのでしょう?お体を壊されては大変です。妹姫と共に国へ戻り、療養されてはいかがでしょう?」
「それはっ…!!」
「…さすれば、瑣末なことなど取るに足らなくなりましょう」
ルーデンスはワインを拭おうともせず、足を組み、その上に手を重ねおいた。
浮かべたままの笑みは全く崩れない。
彼の狙いがピタリとはまったのだ。
ルーデンスは昨日のシューゼルハとの面会で、彼が非常に子供っぽく、御しやすい性格だと見抜いた。
だからこそ、わざわざ怒らせるような茶番を仕組んだのだ。
同じ円卓を囲んで座っていた大公は、その茶番を見ながら眉を少しだけ歪ませ、鼻を鳴らした。
「”行動的な馬鹿ほど恐ろしいものは無い”とはよく言ったものです」
「くそっ…堪えてくれればやりようがあったものを…」
「相手の方が一枚上手だったと言うことですね。仕方ありません」
大公のその言葉にセレンも苦虫を噛み潰したような渋面になる。
セレン側は人選を間違えたのだ。
相手はそれを見抜き、的確にそこを突いてきたのだ。
わざわざ姫の安否も教えず、ガルニアから呼び出したと言うのに、結局シューゼルハはルーデンスの挑発にいともたやすく乗り、この先の計画をぶち壊したのである。
先ほどまででルーデンスへの囲い込みはほぼ終了していた。
殆ど詰みの状態だったはずだ。
ルーデンス自らナナエを手放さなくてはならない状況を、作り上げる途中だったのだ。
9割がた勝てる目算だった。その鍵となるのがガルニアの兄妹だったのである。
それをたった10分ちょっとの茶番で覆して見せたのだ。
ガルニアの兄妹はもう使えないだろう。
国王が自ら、”シューゼルハが起こした不始末をアディールとの婚約破棄にて不問にする”といっているのだ。
これを温情として捉えなければなんであろう。
ガルニアの兄妹は従わざる得ない状況を作られてしまった。
相手が悪すぎたとしか言いようが無い。
ルーデンスを見くびりすぎていたのもセレン側の落ち度だ。
──上手く行き過ぎるほど上手く行った。
そう思わずに居られなかった。
この茶番にシューゼルハが乗ってくるかどうかは、言わば賭けのようなものだったのだ。
乗ってこなければ恐らく、ガルニアの姫との婚約を破棄できず、ナナエの存在を追及されれば手放すしかなくなっていたであろう。
それほど危うい賭けだったのだ。
目の前ではオラグーンの王弟と王子が渋面でなにやらヒソヒソと話をしている。
足元にはガルニアの兄妹が跪き、許しを乞っている。
おかしくてたまらなかった。
ワインの滴る頬を手で拭い、そのまま一舐めする。
癖になりそうな味だ。
ガルニアの王子を典型的な貴族脳に育ててくれたガルニアの王には感謝せねばなるまい。
プライドばかりを重んじ、その先にあるものをきちんと見ることが出来ない。
なんとも好都合な頭に育ててくれたものだ。
これならまだナナエの方が手ごわい。
ナナエならこんなに簡単に感情を予測させてはくれない。
それに比べると、ガルニアの王子は全くつまらない男だ。
この男がガルニアの国王にこのままなるのだとしたらガルニアの先も知れたものだ。
恐らくエーゼル側に命を狙われたとうすうす感づいていながら、笑顔でこの場に登場してきた妹姫の方がよっぽど肝が据わっていて王に向いている。
まったく勿体無いことだ。
「ルーデンス様、お召しかえをなさった方がいいんじゃないですか?」
未だ跪いたままで居るガルニアの兄妹を気遣ってか、ナテルが耳打ちをした。
それに大仰に頷き、席を立つと、シューゼルハが縋る様な目を向けてくる。
その余りの情けなさに再び笑いがこみ上げてきそうになった。
「お二人とも、随分お疲れでしょう?今宵はもうお休みになられるがいい」
ゆっくりと言葉に棘を込め2人に退出を促す。
シューゼルハは唇を噛み締め、いかにも悔しそうな表情を隠しきれて居ない。
今にも地団太を踏みそうな勢いで踝を返して広間を出て行く。
一方アディールの方は、幾分青ざめた顔をしながらも、唇を引き結び、背筋をピンと伸ばしてルーデンスを見据えた。
「…お心遣い痛み入ります。早々と退出する無礼をお許しください」
目には緊張と怒り、そしてやるせなさをない交ぜにしたような光を湛えており、それでも最後に一礼をすると、兄を追う様に広間を出ていった。
それを見届けるとナテルがあからさまに嘆息している。
「本当にもったいないですね」
ルーデンスが2人の去った扉を見ながらボソリと呟くと、ナテルも大きく頷いた。
「本当ですよ。あのワインも汚されたジュストコールもめちゃくちゃ高いんですから。ルーデンス様がわざと汚させたって知ったら、また財務官から嫌味言われますよ…」
(…そっちですか)
とか半ば呆れながらも、財務官の青筋を立てた顔を思い出すとナテルの気持ちが分からなくも無い。
立ち上がったルーデンスに気づいたのか、ジーナが歩み寄り、広間の外へと先導する。
その後をゆったりと追う様に、ルーデンスは優雅に挨拶をしながら広間を退出した。




