<69> 1%のひらめきがなければ99%の努力は無駄だ。
ナテルの言葉を聴いたナナエは驚きで浮かしかけた腰を、ストンと再びイスに落とすと放心したように足元を見つめていた。
その顔にはなんの表情も浮かんでいない。
リッセもまた俯いて、青ざめた顔のまま何も言えずに黙り込んでいる。
「今日からナナエ様の部屋の前にゲイン様、そして収穫祭が終わるまではリッセ様は見張りとしてナナエ様の寝室に控えることになっています」
「…そう。わかった」
ナテルの言葉にナナエは小さく頷き、淡々と返事をした。
そこからは何の感情も読み取れず、ナテルにとって酷く居心地が悪い。
「お姉様…申し訳ございません」
リッセが震える声でナナエに向って頭を下げた。
そこで初めてナナエの顔に表情が戻る。酷く困惑した顔をして、リッセの言葉の続きを待つように見つめていた。
「お姉さまの事情を、知らなくって…知っても、何もお助けできません」
「ああ…あはは、そんなの当たり前だよ。気にすることじゃないし」
「でも!」
苦笑いを浮かべてリッセを取り成そうとしたナナエを涙に潤んだ瞳でリッセは真剣に見た。
「…わたくしは自分の命が惜しいのです。お姉さまが辛い思いをしていると知らされてもなお、我が身が可愛いのです」
「リッセちゃんが悪いわけじゃないから」
「いいえ!…わたくしはとても汚い、浅ましい人間なのですわ」
そう言ってリッセは頭を下げながら嗚咽を漏らし始めた。
リッセは未だ11歳の子どもだ。
そんな子どもを利用すれば、お人好しのナナエならきっと逃げ出せなくなるだろう。
あまつさえ誰かが助けに来たとしても、自ら拒絶するだろうとの目論見だ。
──そして、その目論見はきっと外れないだろう。
ナナエはスッと立って、泣き始めたリッセのすぐ横に歩み寄ると跪き、その小さな両手に自分の両手を重ねた。
「大丈夫。リッセちゃんが何かされるなんてことには絶対ならないから。ね?」
そう言って、ナナエはニッコリ笑った。
そして”じゃ、お菓子たべよっか!”っと明るく振舞ってリッセの涙を優しくハンカチで拭った。
大方の書類の整理を終え、ルーデンスが一息ついたところでタイミングよくナテルが姿を現した。
お茶を乗せたトレーを持っている。
「どうでした?」
ナテルはお茶を手際よく入れながら、その問に対しては困ったような微妙な表情を浮かべた。
その表情で、相当手を焼かされたようだとルーデンスは悟る。
「怒った、でしょう?怒鳴られでもしましたか?」
再びルーデンスが尋ねると、ナテルは小さく「いいえ」と否定した。
ナナエのことだから怒らないはずが無いと、ルーデンスは踏んでいただけにいささか拍子抜けする。
構えていた分、肩透かしを食らった気分だった。
そんなルーデンスの気持ちを知ってか知らずか、ナテルは言葉を続けた。
「怒鳴られた方がましだったかも知れませんよ?」
ナテルは眉尻を下げて、困ったような笑顔を浮かべた。
「…まさか、泣いた、なんてことは?」
「まさか。リッセ様は泣いてましたけどね」
「では、どういうことです?」
「面白いから、秘密です」
「…は?」
わけが分からずに眉をひそめるルーデンスを楽しそうにナテルは見返した。
普通は激昂して怒鳴るか、絶望して泣くところではないだろうか。
それ以外の反応が想像つかない。
ルーデンスはナナエに罵られても嫌われても仕方が無い方法を取った。
それでも怒りも泣きもしないと言うのは本当のことなのだろうか?
いや、嘘ではなくとも、本当でも無いに違いない。
あのお人好しのナナエのことだ。
リーセッテ嬢が自分の自由との引き換えの人質だと知ったら少なからずショックを受ける筈だ。
表面上はそう見えなくても、気に病んでいるはずだ。
「ああ、そうそう。ナナエ様がルーデンス様にお話があるみたいです。直接お会いになって確認になった方がいいかと」
しかしナテルは、そう言ってくっくと笑った。
怒っているだろうかとか、悲しんでいるのだろうかと考えると自然と胃が痛くなる。
そんなルーデンスの様子をチラリと見て、ナテルは少しだけ笑っているようだった。
ノックもせずに部屋に入ると、そこは何故か和気藹々といった感じの雰囲気に包まれていた。
もっと悲壮な感じを予想していただけに、ルーデンスは困惑する。
笑顔のリーセッテとナナエ、それに仏頂面のゲインがお菓子が沢山広げられたテーブルを囲むようにして席に着き、お茶をしているのである。
「ナナエ」
ルーデンスが短く声をかけると、ナナエは笑ったまま振り返った。
特に怒っている様子も、悲しんでいる様子も無い。
いつも通り、元気だ。
「あぁ、ルディ。やっときたのね~」
「…何か話があるとか」
暢気そうなナナエの様子にいささか腹を立て、ルーデンスは眉間にしわを寄せながら不機嫌そうに話を切り出す。
すると、ナナエは笑ったまま”ああ、うんうん。そうだよ”とこれまた軽く答える。
「なんですか?」
「私ね、これさ、ルディからの挑戦だと受け取ったから。もちろん、受けてたつから」
「…は?どうしてそうなります?」
「リッセちゃんを人質にすれば私が逃げないと思ったんでしょ?上手いね!よくわかってる!」
ニコニコしてナナエはルーデンスに歩み寄りながら言った。
褒められているのバカにされているのか判別が付かない。
ルーデンスはますます不機嫌になって眉間のしわを深くする。
ルーデンスのすぐ目の前まで来ると、ナナエは少しだけ真面目な顔をしてルーデンスの顔に自分の顔を近づけた。
「約束してよ、ルディ」
「何を、ですか?」
「収穫祭が終わるまで私がルディから逃げなかったら、リッセちゃんを解放して。もう誰も巻き込まないで」
「…随分と虫のいい話ですね。私には何もメリットがありませんよ」
「私が負けたら、プロポーズ受けてあげる。どう?それで」
「意味不明です。あなたにメリットがありません。諦めたんですか?」
「諦めてないよ♪」
「あなたの計画は失敗でしょう?私から逃げられないのなら」
そうルーデンスが言うと、ナナエは少し体を離してまた笑った。
そしてコホンと咳払いをひとつすると挑戦的に笑って人差し指を立てる。
「偉い人は言いました」
「はい?」
「失敗なんてない。この方法じゃダメだということを確認できただけ成功だって」
「…?」
「吠え面かかせてあげるから」
そう言って、「あ、でもこれはリッセちゃん泣かせた分ね」と言ってルーデンスの頬を思いっきりつまんで引っ張る。
その笑顔は晴々としていて、つねられた頬もあまり痛みを感じなかった。




