<68> 小鳥の鎖
ルーデンスが目を覚ますと、すでに空は明るくなっていて、鳥のさえずりが煩わしいほどに騒がしかった。
手早く身支度を整え、窓際の椅子に腰掛けると、置きっぱなしにされていたナナエの読みかけの本が目に入る。
ルーデンスは何の気は無しに手に取り、ペラペラとページを捲った。
どうやらナナエは現在、解毒剤についての勉強中らしい。
読みかけのページを元に戻し、机の上に置きなおす。
昨日は随分と神経をささくれ立たせてしまった事を少し思い出し、ルーデンスの表情は自然と渋面になった。
ディレックと仲良さげに話していたのが思った以上にルーデンス的には堪えていたのかもしれない。
ナテルと話しているときの友達感覚の気安さほどは無かったものの、その打ち解けた感じがまるで旧知の知り合いような、そんな感じを受けた。
おそらくあの二人はとても気が合うのだろう。
ナナエと少しも似たところの無い自分が、ルーデンスにとっては悔しかったのかもしれない。
ルーデンスとナナエでは似通った部分が全く無い。
外見の雰囲気も内面の雰囲気も全く違う。
自覚するぐらい健康的でない肌の色に太陽の色の髪、そして静かな雰囲気のルーデンス。
健康的な肌に闇の色の髪、そして陽だまりのような雰囲気のナナエ。
だからこそナナエに惹かれてしまうのだろうかとも考えたが、そうとも言えるし、そうでないとも言える。
ナナエよりも魅力的な女性はそれは沢山居る。
それでも、ナナエに惹かれるのはきっとナナエがナナエだから、なのだろう。
ルーデンスにとってナナエは何をするのか分からないびっくり箱のような存在なのだ。
驚かされるし、呆れさせられるし、怒らせるし、笑わせる。
こんなに色々な感情を出させてくれるのはナナエしか居ないのだ。
もうナナエの居ない日常など考えたくも無かった。
ナナエが居なくなれば、また以前のような色の無い毎日を過ごすのかと思うと、それが恐ろしくてならない。
──コンコン。
リズミカルに扉が叩かれ、ルーデンスの返事も待たずに開けられる。
ナテルだ。
「おっはよ~ございます」
朝から中々に鬱陶しいほどの笑顔を見せるナテルにルーデンスは冷めた視線を向けた。
そんな視線をものともせず、ナテルは窓際に居るルーデンスを見つけると、スキップでもしそうな調子で歩み寄ってきた。
「朝食はどうされますか~?ナナエ様と一緒に?」
「…今朝は一人で」
頬杖を付き、面白くなさそうに窓の外を眺めたままルーデンスが言うと、ナテルは少し肩をすくめたようだった。
「…そうそう、ルーデンス様」
「はい」
「ルーデンス様にとって面白くない話と、気が重くなる話と、胃の痛くなる話があるんですが、どれから報告しましょう?」
「…散々ですね」
朝っぱらから碌でもない話しか持ってない。
取り合えずどれからでもいいですと答えると、ナテルは報告を始める。
「まず、ですね。本日ナナエ様はディレック様との歓談を望んでおられます。昨夜の話の続きをしたいそうです」
「却下」
「次に、ガルニアから、ことの詳細を調べるために使者が参りました」
「…適当にあしらって追い返しなさい」
「それが、無理そうです。…その使者、ガルニアの第一王子です」
「…厄介な相手を送り込んできたものですね。丁重におもてなしを」
「はい。それと、最後になるんですが」
「はい」
「ナナエ様の部屋のサイドテーブルに、こちらが置いてありました」
そう言ってナテルは白いハンカチをルーデンスに差し出して見せた。
受け取ると、しっとりと湿っているのが分かる。
「これが?」
「昨日まではお持ちになってなかったと思います」
「…侵入者があった、ということですか?」
「確実に、とは言えませんが」
ナテルの報告にルーデンスは眉間にしわを寄せた。
あれでいてナテルは意外と目ざとい。
ナテルが無かったというのなら、昨日までは無かったものなのだろう。
ルーデンスは昨夜のナナエの部屋の様子を思い出そうと記憶を探る。
サイドテーブルにこのようなものがあっただろうか?
確かではないが、何も置いてなかった気がする。
昨日のあの状態では、ナナエは恐らく寝台から起き上がれて居ないだろう。
となるとナナエ自身が用意したとは考えづらい。
侍女もつけていないのだから、ナナエ以外が用意したとすればナテル以外居ないわけだが、報告に来ている以上、ナテルが用意したはずは無い。
やはり、昨晩侵入者があったと考えるのが妥当だろう。
(オラグーンの客人が動き出したということですか…。)
ルーデンスは無意識につめを噛む。
「さて、どうしましょうか」
足を組みなおし考え込むルーデンスの言葉を待つようにナテルは側に控える。
外では相変わらず鳥のさえずりが騒々しい。
「ゲインを呼んでください」
ルーデンスがそう言うと、心得たようにナテルは一礼をして部屋を出て行った。
朝食も食べ終え、ナナエはすっかり暇をもてあましていた。
クッションを抱え寝台の上でゴロゴロしては「つまんな~い」を連発している。
その様子にはナテルも苦笑するしかなかった。
ルーデンスの部屋に入るのを禁じられ、外出を禁じられ、日課の庭園での散歩も禁じられている。
収穫祭が終わるまでとはいえ、こんないい天気の日に部屋の中に閉じこもらなければならないのは辛いことだろう。
ナテルが気を利かせて、収穫祭シーズン限定のスイーツを大量に購入してもってきてはみたものの、ナナエの表情はいまいちだった。
──いや、しっかり食べてはいたのだが。
「ナナエ様、こちらのクレープとかどうです?このシーズン限定のかぼちゃプリンとクッキーが入ったオススメのクレープですよ」
お茶を新しく入れなおしながら、ナテルがスイーツを勧める。
このやり取りが今朝から一体何回繰り返されたことだろう。
「ナテルは、さ」
勧められるまま席に着き、もぐもぐとクレープに齧り付きながらナナエは口を開いた。
「はい?」
「私をどうしたいわけ?」
「っと、言われても…」
ナナエの言っている意味が摑めず、ナテルは答えに窮す。
それをナナエは至極腹が立ったように軽く睨んだ。
「何度も、何度も、何度も言ってるけど」
「あ。はい?」
「食べたら食べた分だけ肉になるんだってば!!見てよ、このたぷたぷし始めた二の腕!!」
ナナエは怒り心頭と言った感じに左の袖を捲り上げて、あらわになった二の腕を右手で下からペチペチ叩く。
ナテルはそれを見て苦笑いを浮かべる。
この光景も一体何回目のことだろう。
「食べられない分は残せばいいかと…」
「お残しアウト!!!出されたら食べる。鉄則でしょ!!」
「ああ、だから男が食べる倍の量を出しても完食するんですね…」
「倍の量とか出すなーーーー!!!これ以上太ったらどうするんだ!!」
「ぽっちゃりぐらいの方が、女性らしくていいと思いますけど」
「もう十分ぽっちゃりなのぉぉぉ!!ここ、ここ、最近きついんだよ、ここ!この城来てからお菓子食べ放題とかどんな拷問だ!!!」
ポンポンと下腹の辺りを叩きながら悲壮な顔でナナエはナテルに訴える。
このままではマズイのだ。
魔力が溜まって動けなくなるよりも切実な問題だ。
肉が邪魔で動けなくなる!!
魔力は抜きさえすればいいだけだけど、肉がついたら中々取れない。
はっきりって女性にとってはこれ以上ないというくらい死活問題である!
「大丈夫ですよ~まだとりあえず大丈夫です」
「それ全然大丈夫って意味じゃない!」
ワザとらしくテーブルに突っ伏して泣きまねをしていると、ナテルは困った顔をしながら「まぁまぁ」と適当にあしらっている。
本気でマズイと感じているのはナナエだけのようだ。
──コン、コン。
小さく控えめなノックの音と共に、聞き覚えのある声がナナエを呼んだ。
「ナナエ様、リーセッテでございます。ごあいさつに伺ったのですが…」
その声を聞くやいなや、ナナエはナテルよりも早く反応して、急いで扉を開けた。
返事もなく突然開けられた扉にリッセの方は、したたか驚いて呆然としている。
「リッセちゃん、来てたのね~!入って入って~!」
状況を飲み込みきれて居ないリッセを半ば強引に部屋に引き入れると、ナナエは自分が座っていた向かいの席にリッセを座らせた。
テーブルの上にはスイーツの山。
この状況にもリッセは不思議そうな顔をしている。
「好きなだけ、食べて」
真剣な顔でナナエにそう言われ、リッセはぎこちなく頷いた。
そしておずおずとクッキーに手を伸ばす。
「美味しい、ですわね。お姉様、ありがとうございます」
そう言ってリッセがにっこりと笑うと、ナナエもパーッと表情を明るくした。
スイーツ処理係に任命されたのをリッセは気づいていない。
「リッセちゃんも収穫祭見に来たの~?」
ナナエがそう言ってリッセに水を向けると、一瞬リッセが硬直し、表情がこわばった。
両手を胸の前で握り締め、心なしか顔が青ざめている。
それが何か変でナナエは首を傾げる。
「いえ、収穫祭が終わるまで、お姉様をお慰めするようにと…」
「え?そうなの?それは嬉しいなぁ~暇で暇でしょうがなかったんだ」
にっこりと笑うナナエとは正反対に、リッセは益々表情を硬くした。
その態度に奇異を感じて首をかしげた時に、ふとナテルの表情が目に入る。
珍しく笑っていない。
「なにか、あったの?」
訝しげにナナエがリッセに言葉を投げても、リッセは視線を下に落とすばかりだ。
その姿を見て眉間に皺を寄せて、ナテルのほうを向く。
すると、ナテルはその視線に気づき、ため息を一つ吐いた。
「リッセ様は人質、なのですよ」
「はい?」
「ナナエ様の護衛と監視の任にゲイル様がつくことになられました。ナナエ様に危害が加えられたり、逃げた時には責任を取ってご息女であるリッセ様が処刑されることになっております。いわば人質です」
「………なに、それ」
「そうなれば、ナナエ様はご自分から逃げ出そうとは思わなくなるでしょう、と──」




