<58> 激励
──マリーの様子がおかしい。
カイトはお茶をすすりながらマリーの様子を盗み見る。
先刻までは極々普通に王子へお茶を出したりして甲斐甲斐しく働いていた。
それが、だ。
鼻をくんくんっとさせて何かの匂いを嗅いだ後、急にパッと明るくなったように笑顔を見せた。
そのすぐ後に玄関の扉からトゥーゼリアが帰ってきたのだ。
それを見た瞬間、マリーは笑顔を消して硬直した。
「ただ今戻りました」
トゥーゼリアの様子は出て行った時と変わらない。
何が問題なのかが分からない。
あえて言うなら、いつもよりは多少表情が柔らかいかもしれない。
それも”かもしれない”程度である。自信は無い。
そういえばなんだか嗅ぎ覚えのあるふわっとした香りがしなくもない、かな?
「何か…良いにおいがするな」
ボソリと声に出して言ってみると、ガチャンと物凄い音がした。
マリーがお茶のポットを派手に落としたのだ。
「も、もうしわけ、あり…ません…」
酷く動揺してまるでカラクリ人形のようにぎこちない動作でポットを拾う。
益々おかしい。
その様子をトゥーゼリアも妙なものを見るような顔で見ている。
「どうかしたのか?」
トゥーゼリアが一緒に落とされたカップや皿の破片を拾いながら問うと、マリーは顔を真っ赤にして口ごもった。
そして小さな声で”な、なんでもない”と言ってトゥーゼリアから破片を受け取る。
どう見てもなんでもない顔ではない。
トゥーゼリアが帰ってくる直前のあの表情、そして帰ってきた後のあの緊張した様。
何より、言葉を交わして頬を染めたあの仕草。
──恋か。
恋とは突然芽生えるものだ。
ある日突然兄に恋することもあるのだろう。
そういう趣向の人も居ると聞いたことがある。
まぁ、自分は間違っても姉に恋したりしないが。
恋とは切ないものだ。
報われない恋だとは分かっていても、マリーを応援したくなるのが人情だというもの。
カイトはポットを片付けているマリーに近づき”がんばれよ”と言って、肩を叩いた。
マリーは眉をひそめ訝しげな表情をしている。
自分の気持ちがよもやカイトにバレているとは夢にも思わないのだろう。
上手く隠せているつもりなのだろうから、尚更だ。
なるべくなら上手くいってほしい。
別に俺はとがめたりしないぞ、とカイトはエールの視線をマリーに送る。
ライバルは少ないほうが良いに決まっているのだから。
◆
ふと、ナナエの匂いを感じ、マリーは驚いた。
急いで確かめるように鼻を鳴らす。
間違いなくナナエの匂いだと確信する。
それとトゥーヤの匂いもするということは、トゥーヤと一緒に帰ってきたということか。
何かの要因があって、急遽逃げ出せてきたのかもしれないとマリーは友の帰還を喜んだ。
そうして玄関の扉が開けられた。
何故かトゥーヤ一人である。
おかしい。
確かにナナエの匂いがしたはずだと考えた。
そしてその匂いがトゥーヤ自身から出ていることに気づく。
一瞬思考が停止した。
マリーの頭の中は疑問符でいっぱいだ。
ナナエに会いに行ったことは知っている。
今日ナナエが伴を連れて王都を散策するという情報をつかんでいたのだ。
不安がっているだろうナナエの為に、隠密行動になれたファルカ家のマリーかトゥーヤが顔を見せにいく事になったのだ。
最初はもちろんマリーは自分で行く気で居た。
しかし、トゥーヤが頑として譲らない。
そこで公平になるようにとリフィン様がくじを作ってくれた。
──マリーが当たった。
が、結局その後のトゥーヤの普通ではない殺気により辞退させられた。
そう、さ・せ・ら・れ・たのである。
そしていそいそと出かけ、帰ってきたら、ナナエの匂いをぷんぷんさせているのである。
しかも微妙にワードッグ特有の発情した匂いもする気がする。
(…発情って!!!)
近親のそんな匂いをかいでしまった身としては非常に居た堪れない。
恥ずかしくて顔を見れない。
そんな時だ。
「どうかしたのか?」
っとトゥーヤがマリーに声をかけたのだ。
マリーはびっくりして思わずポットを取り落としてしまい、ぶつかってカップもソーサーも割れて床に落ちた。
(どうかしたのは兄さんの方でしょーーーー!!!!!)
真っ赤になって声にならない非難の言葉を飲み込む。
そして慌てて”なんでもない”と答えた。
マリーはなんともないからだ。
なんともあるのはトゥーヤの方で…。
不意にカイトがマリーに近づいてくる。
ぽんっと肩をたたかれた。
「がんばれよ」
訝しげにマリーがカイトを見返すと、二カッと笑って親指を立てていた。
(片付けるのを手伝ってくれるつもりじゃなかったのね…)
たかがポットの片付けに激励とか意味不明だ。
マリーは首をかしげながら再びポットの片づけを続行する。
そんなマリーを知ってか知らずか、再びトゥーヤが”どうかしたのか”と尋ねてくる。
マリーは横目でちろりとトゥーヤを見て、大仰にため息をついた。
「兄さん、ナナエ様に発情したでしょ?体からナナエ様の匂いがする」
今度はマリーを除く、部屋に居た全員が硬直する番だった。




