<53> 届かない手
「……重い」
何故早めに止めなかったのかとナテルは激しく後悔していた。
この時間では殆どの従者が寝入っているだろう。
ゲインは既に王都に帰ってしまっているし、執務室から私室までの間は基本、兵は置いていない。
執務の情報漏えいを避けるためにだ。
つまり、ナテル以外ルーデンスを私室に運ぶことが出来ないのである。
ルーデンスは一見細身でそこまで重いようには見えない。
しかし、魔法だけではなく剣の腕も相当に凄いルーデンスは毎日の鍛錬を怠らない。
つまり、筋肉が重いのだ。…重過ぎる。
魔法も剣もからきしなナテルが、そんな毎日鍛錬している男を一人で担げるかといったら…。
無理とは言わないが、相当辛い。
普段全く体を鍛えていないナテルが悪いのではあるが、今更言っても遅い。
「…重過ぎる。ここに捨ててったら……ルーデンス様怒るかな…?」
そんな情け無いアイデアが浮かんだが、翌日のことを考えると恐ろしくてそんなことができない。
ナテルはルーデンスを支えながら彼の私室の方を見、その遠さにガックリうな垂れる。
そして、ふと私室と執務室のちょうど間にあるカギのかかった部屋に視線をやった。
「…うん。我ながらナイス」
ナテルはルーデンスのズボンのポケットから目的の物を取り出す。
そしてナテルは再び、力いっぱいルーデンスを引きずり始めた。
自分の名を呼ぶ声が聞こえた気がして、ナナエは少し瞼を上げ、身じろぎした。
ランプの薄明かりの中では部屋の入口の方にいる人物はよく見えない。
少しはれぼったい瞼を軽くこすって体を起こす。
声からすると、きっとナテルに違いないとナナエは思った。
「…ナテル、なの?」
入口に向って声を掛けると、ナテルは小さく返事をした。
そしてドサリと重たいものがソファーに落ちるような音がする。
「どうかしたの?」
「いえ、コレ、朝まで預かって欲しいんですけど~」
訝しく思って寝ぼけ眼のままナナエはサイドテーブルのランプを手に取り、立ち上がろうとした。
すると、ナテルは慌ててそれを制す。
「ああ、起きなくていいですよ。そのまま気にしないで寝ててください。明日の朝、回収に来ますから」
そうして、有無を言わせないように部屋を出て行った。
カチリと鍵をかけていくのも忘れない。
なんだったんだろうとナナエは首を傾げながら再び横になった。
そして目を閉じ、眠りに入ろうとすると…
「ん゛~…」
微かに声がした。
驚きの余り瞬時に目が覚め、ガバッと体を起こす。
そしてソファーの方をよく目を凝らして見てみた。
しかし、やはり暗くてよくわからない。
意を決して、ナナエはランプを手に持つとそーっとソファに近づいた。
そして息を呑む。
そこには酷く青ざめ、ぐったりとした様子のルーデンスが横たわっていた。
ナナエは急いでランプをテーブルに置くとルーデンスの横にしゃがみ込む。
……非常に酒臭い。
「…人騒がせな…最初会ったときみたいに葱みたいな顔色してるから焦ったじゃない」
難しい顔で寝込んでいるルーデンスの顔を見ながら、ナナエは嘆息する。
ナテルはどうやら、この状態のルーデンスをナナエに押し付けて行ったようだった。
先刻、散々泣いてナテルに迷惑をかけた手前、文句は言いづらい。
「今は顔、見たくなかったのにな」
ポツリと呟いた時、不意にルーデンスが薄く目を開けた。
その表情はとても気分が悪そうに眉間には皺がよっている。
顔色はやっぱりかなり青白い。
「…大丈夫?」
ナナエが囁くように小さな声で聞いてみたが、ルーデンスは全く反応しない。
ナナエのほうを向いているというのに、ナナエを見ていない。
寝ぼけているのかとナナエが気を抜いた時、囁くようにして言葉を返してきた。
「私が、嫌いですか?」
それは本当に小さな声で、ともすれば消え入ってしまいそうな程、弱々しい声だった。
ナナエはなんとも言えずに俯いた。
「…毛布、もって来るね。寒いでしょ」
ナナエが話を逸らすかのようにそう言って立ち上がると、ルーデンスはそれに何も応えず目を閉じる。
毛布を寝台から剥がし、そっとルーデンスに掛け、肩先まで引き上げる。
「もし、寝辛いなら私がこっちに代わるよ?」
「ここはあなたの部屋ですから。私は、酔いが醒めたら戻ります」
「……ん。わかった」
ナナエはそれに素直に従って、静かに立ち上がると寝台に戻る。
布団に体を滑り込ませると、まだ少しだけ暖かかった。
「……帰すことは出来ません。首輪も外しません」
「……」
「ですが、それ以外なら…」
ナナエに向かって言っているのか分からないほど、小さな声でルーデンスが言った。
それを身じろぎ一つしないでナナエは聞いていた。
ルーデンスも答えを求めてこない。
「おやすみ、ルディ」
「…おやすみなさい、ナナエ」
お互いの気持ちが全くかみ合っていない、酷く空々しい挨拶だった。
ナナエは布団を頭の上まで引き上げ、もう会えないかもしれない人たちを想って泣いた。




