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<38> 愛しさと切なさと胃の痛さと。

「遅い…」


セレンは寝台の上でゴロゴロと寝返りを打った。

何時もならとっくに誰かが夕飯を持ってきている時間である。

日も暮れて外は薄暗くなってきていると言うのに、ランプの明かりを灯しにもやってこない。

寝台から降りて探しに行けばいいのだが、あまりウロウロしてると「そんなに元気なら働け!」とナナエに言われてしまうので躊躇してしまう。

そもそも王族の自分が平民の娘などに頭を下げて奉仕するとかありえなさ過ぎる。

おまけに上は婆さんまで来るらしいではないか。

それらを相手に”お嬢様”だなんて口が避けても言える自信がない。

そんなわけでセレンは現在目下”引き篭もり”中なのである。

”フェルゼン”なんて源氏名も勝手につけられてる以上、ちょっとしたことで無理やり働かれされかねなかったのだ。


耳を済ませて邸内の人の気配を探る。

しかし、全くといって良いほど物音がしない。

まぁ、マリーたち獣人ほど耳は良くないので誰も居ないという確証がない。

それでも、何時もと違うのは確かだった。


そろそろ潮時かもしれないと思った。

いつまでも篭っていても状況は何も変わらないし、この状態に甘んじているのも性分ではない。

確かに心情的にきつい事はあった。

それでも、もう動くしかない。

周りに甘えて十分休息は取った。


「起きるか…」


寝すぎで多少痛む背中を伸ばすようにして両腕を上にあげて少しのけぞる。

背中が多少ポキポキ鳴るのは、運動不足がたたっているのかもしれない。

そうしてセレンは久しぶりに室内履きではなく、きちんと手入れされていた革靴に足を入れた。








狐と狐が化かしあっている。

階上から下の様子をこっそり覗きながらナテルは嘆息した。

漏れ聞こえて来る両者の会話は、至極丁寧な言い回しで、それでいて胃が痛い会話を続けていた。

歯に絹を着せまくり、回りくどくお互いを牽制しあっている。

それでも、ナテルはもうルーデンスを引き上げさせねばならないと思った。

そろそろゲインがルーデンスの不在に騒ぎ始めるころだろう。

ルーデンスはいいのだ。

ゲインのそんな説教を聞き流せる立場だから。

だが、ナテルは違う。

ゲインの説教が始まったら確実に夕飯を食べ損ねる。

切実な問題である。

(あの中に飛び込むのいやだなぁ…)

再び階下のやり取りを見てため息をつく。

それでもやるしかないのだ。




頭を掻きながら階段を下りていくと、まずルーデンスと対峙している男の方と目が合った。

軽く会釈して、席に歩み寄る。

ルーデンスはナテルをチラリと見ると迷惑そうな顔をした。


「ルーデンス様、ルーデンス様。そろそろお帰りになら無いと~…」

「ああ。帰りたいのは山々なんだが、この御仁が納得しておられないようなのでね」

「いやいや、滅相もない」

「もう、面倒です。一緒に部屋を検めてもらいましょう。いいですね?」


ヤレヤレといった感じでルーデンスが腰を上げると執事風の男も続いて席を立つ。


「すみません、なにぶん疑り深い性分なもので」


ニコニコと微笑みながらナテルに向かって一礼した。

「こちらですよ」とその男をルーデンスは部屋へと案内する。

全てが、台本通りに動く舞台を見ているような錯覚を覚えるほどのやりとりだ。

──つまり、わざとらしい。


ガチャリ。


「どうぞ?ご覧いただければお疑いも晴れるでしょう?」


ルーデンスが大きく扉を開けて男を招き入れる。

そこは宿でも一番上等な部屋で、贅を凝らした調度品の数々が飾られていた。

ルーデンスはわざわざクロゼットを開けたり、寝台のシーツをはがしたりと、ひとつひとつパフォーマンスするように男に見せつけ、”ほらね?”といった顔で首を傾げてみせる。

男はその度に微笑みながら頷いてみせ、一通り見終わると「確かに」と短く言った。


「やはり私の思い違いでした。大変失礼いたしました」


そういって優雅に一礼する男をルーデンスは面白くなさそうに見た。

思い通りに行った筈なのに、何故そんな表情なのかがナテルには理解が出来ない。

男は何度か頭を下げ扉をくぐる。

そして部屋の外で再び一礼した。


「今日は楽しかったですよ。河向こうでも会うことがあったら、またお食事でもご一緒に」


嫌味というのがはっきりとわかるぐらいルーデンスの口調は空々しい。

それに対する男も「ええ、是非また近いうちに、ご一緒に」と返す。

お互いがお互いを牽制し続ける。

その化かし合いという睨みあいは続くかと思いきや、ルーデンスはくるりと背を向けた。


「ナテル。下まで見送りなさい」


ぶっきらぼうにそう言うとルーデンスは長いすに乱暴に腰を下ろす。


「結構ですよ。そこまでお手を煩わせません」


男はそう断ったが、ナテルは「まぁまぁ」と宥め、一緒に部屋の外へと出た。

──冗談じゃない。あんな顔のルーデンス様の側に居たら八つ当たりで胃に穴が開く。

不服そうな男を急き立てるように宿の入り口まで案内する。


「それでは、私はこれで」


ナテルがそう言って頭を下げると、男は顎に手を当てて少し笑った。


「ああ、あなたですね。花、ありがとうございます」

「…なんのことだか」


ルテルがしらを切っても、男はますます口元を緩めるだけだった。

夜も更けた薄闇の中に男が去っていくのを見つめながら、ナテルは胃の上をキュッと押さえる。


「本当に余計なことをしてくれましたね」


そんなナテルの頭上から聞きなれた声が降る。

見上げると、ルーデンスの大層不機嫌な顔。


「あの男、最初から部屋に居ないとわかってついて来たんでしょうね」


階段の手すりに頬杖をつきながら言う。

ナテルは再び胃の上をキュッと押さえる。


「で、どこです?」


誰をと聞かずに尋ねてくるルーデンスに、ナテルは「物置に」と簡潔に応えた。

とたんにルーデンスの柳眉が跳ね上がる。


「…そうですね、貴方に”丁重に扱え”と言わなかった私の落ち度です」


言外に”無能め!”という罵倒が含まれているのは火を見るより明らかだった。

三度痛む胃を抑えながら、ナテルは階段を駆け上がり、ルーデンスを物置まで案内する。


「無事だといいんだけど…」


そんな呟きが聞こえてきたのは、その時だった。

完全に空気になってる人がいっぱい!

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