<3>
木々の隙間から見える日差しもすっかり弱まり、夜の帳が下りようとしていた頃。
ナナエはいまだ森の中に居た。
微妙に出血の止まらない頭の傷を心配したカイトが医者を連れてくるからここで待てと言うからだ。
薄暗さを増した見知らぬ森の中は、やはり少しだけ不安で心細い。
護身用にとカイトから預かった短剣も小さすぎて何とも頼りなかった。
「いいか、この森は比較的安全だから何もないとは思う。だけど唯一、狼が厄介だ。あいつらは一度怒らせると中々手を引かない。その時はこの短剣を前にかざして”古の契約により番人である我が身を害する無かれ!”って言え。そうすれば狼を追い払うぐらいわけないから」
そう教えられたけれども、そんなんで狼が居なくなったら誰も苦労はしないというか。
そもそも、カイトのいう異界渡りの稀人であるナナエが
そんな呪文みたいな事言って効き目があるのかも疑問だった。
異界渡りに反応して一緒に渡ってしまう程の魔力の持ち主だから絶対大丈夫とカイトは言ってはいたが、
その『異界渡り』というものをしたかどうかすら怪しい。
だから、なるべくここを動かないで居るのが最善だと思われた。
「くそっ…!いい加減、退かないか!!」
そんな声が遠くから聞こえたのはその時だった。
少し苛立たしさの滲んだ幼い声がして、好奇心をそそられた。
一人で居る心細さから、その声の主に、人に会いたいと思った。
カイトみたいに可愛いのがいるといいな…と声のほうに恐る恐る近づいてみる。
すると、ちょっと開けた場所に出た。
声はその広場の中央、奥に生えた大樹の上からだった。
「あああ~~~もうっ!リフィンめ!!さっさと迎えに来~~い!!」
体の大きさは2歳から3歳ぐらいの可愛らしい男の子が大樹の小枝を無造作に折っては下に向かって投げつけていた。
大樹の下に目をやると、そこには狼の群れ。
十五、六匹はいるだろうか。
カイトが厄介だと言っていた狼を見てナナエは足がすくむのを感じた。
男の子が可哀想だと言えば可哀想だが、木の上に居る以上、地上に居るナナエよりもはるかに安全である。
触らぬ神にたたりなし。
良心が痛みはしたものの、所詮人間自分が大事。
ナイフを胸にぎゅっと抱き、気がつかれない様にナナエはそーっと、少しずつ後ずさった。
「あ」
その声にふと顔を上げたナナエはバッチリ男の子と目が合ってしまって立ち止まった。
「その短剣…そなた、森番だな!今すぐ私を助けろ!」
男の子がそう叫んだ瞬間、狼が一斉にナナエのほうを見た。
「ば…ばかぁ!!!なんでこっち見るのよぉ!」
ナナエは半泣き状態で木の上の男の子に向かって抗議をした。
ジリジリと狼たちは囲い込むように近づいてくる。
狼たちの喉の奥からはぐるるるるっと恐ろしいうなり声が聞こえる。
ナナエを見るなり突然興奮し始めたようだった。
ナナエは震える足で少しずつ後ずさる。
背中を向けたら襲い掛かってくるんじゃないかと言う恐怖で狼たちから視線をそらすことが出来なかった。
「くっ…お主はひよっこ森番なのか!よいか、その短剣を前に突き出して叫べ。”古の契約により番人である我が身を害する無かれ!”だ!早く言え!!」
木の上から男の子がナナエに向かって精一杯叫ぶ。
ナナエは短剣をきつく握り締め、前のほうへ差し出しながら復唱しようとした。
「い…いにしえのっ…けいやっ…くにっ…」
恐怖の余り半泣き状態で嗚咽と共にたどたどしくナナエが口を開く。
だが、最後まで言わせまいと狼たちは一斉にナナエに向かって飛びかかった。
「…やっ…やだぁぁぁぁ!!!」
キィィィィィーーーーーーーーーン
ナナエが叫んでしゃがみ込んだと同時に
大きい耳鳴りのような大きな音がしてあたりがまばゆい光に包まれた。
激しい光にナナエは目をきつく閉じる。
-------------そして。
目も開けられないような光がだんだん薄れ、瞼を開くと、狼の姿は忽然と消えていた。
「…少しやりすぎだぞ。私は助かったが」
呆然と座り込んだままのナナエの前に、木から下りてきた男の子は偉そうに言った。
「わ…わたし…なにもしてない」
辛うじてそう言い返すと男の子は「ふむ…」と手を顎に当てて考え込む。
「そなたは…魔力制御が全く出来ておらんな。だだ漏れになっておる」
「なに…が…?」
「まぁ、よい。こちらには好都合。そなたの魔力、ちと借りるぞ」
そういうとその男の子は座り込んだナナエの顔を両手で挟み込むように支え口付ける。
「ちょ…なにや…!!!!」
そして、ナナエが抗議を言い終わらぬうちに辺りの景色がぐにゃりと歪み、暗転した。