【01-01】
【1】
──三年前──
蹴られた椅子が、けたたましい音を連れて転がった。
四時限目の授業中。
いきなり立ち上がったひとりの女生徒に、クラス全員の視線が集まる。
「生駒さん、どうしたの?」
しんと静まり返った空気を破って、教壇の女性教師が尋ねる。
その声は多分に動揺を含んでいた。
『聖アンドリューズ学院』は創立百年の伝統を誇る私立女子高。
こんな事は赴任以来始めてだったからだ。
「ちょっと、どういうことよ」
そんな教師を気にするでもなく少女が呟く。
その頬は蒼白。唇も色を失い、瞳には狂気めいた光が浮かんでいた。
彼女、生駒真理奈は、能天気なお調子者。
そんないつもの印象からは大きく掛け離れていた。
「どういうことよ。どういうことなのよ、これ!」
右手を突き出した。
握られていたのは一枚のトランプカード。
それを見た数名が息を飲んだ。露骨に顔を伏せた少女達もいる。
「誰よ! 誰なのよ!」
大声で喚くが、誰からも反応はない。
「あんたね! あんたでしょ!」
隣の少女の胸倉を乱暴に掴む。
「返して、返してよ! 私のカード!」
「し、知らないわよ、そんなの。ちょっと離して、苦しいでしょ!」
「あれは私のカードなのよ! 早く返しなさいよ!」
「止めなさい!」
女教師が二人を引き離そうと割って入る。
しばらく三人で揉み合っていたが、結局は真理奈が弾き出されて尻餅を付く形になった。
「生駒さん、落ち着いて。あなたらしくないわ。何があったのか先生に話して」
できるだけ優しく告げつつ、倒れた真理奈に手を差し出す。
しかし、真理奈はそれを邪険に振り払って身を起すと、敵意に満ちた目で教室内を一瞥。
ドンと床を踏んだ。
「この中にいるのは解ってるの! 絶対に見つけ出してやるんだから!」
「いい加減にしなさい! 今は授業中なのよ!」
不安と動揺が憤りに変わり、教師の声を荒げさせた。
一喝に真理奈の動きがはっと止まった。
視線を前に、黒板の上にあるアナログの壁時計に向ける。
針は十二の位置で重なろうとしていた。
「うそ、うそでしょ。いや、こんなの。だって、さっきまで……っ!」
不意に喉を詰まらせた。
首元を押さえながら、「ぐぅっうぅっ」と言葉にならない声を漏らす。
異変を察して、付近の生徒達が慌てて席を離れた。
遠巻きに距離を開ける。
「た……す……け……」
ふらふらと覚束ない足で進む。しかし彼女が一歩踏み出すと、クラスメイト達も一歩下がる。
懸命に腕を伸ばすが、誰も近寄ろうとはしない。
数メートル歩いたところで、真理奈が机を巻き込んで転倒。
そのまま足をバタつかせながら、喉元を激しく掻き毟った。
爪が、指が肌に食い込んで皮膚を捲り、肉を抉る。
常軌を逸脱した行為に生徒も教師も、食い入るように見つめるしかできなかった。
数分後、大きく身体を震わせたのを最期に、真理奈の動きが止まった。
血と肉で汚れた両手と、首元がどす黒く染まった制服。恐怖と苦痛に見開かれた瞳。
全てがあまりに凄惨だった。
眼前で何が起こったのか、誰ひとり理解できなかった。
そんな中。
「やっぱりハートの九だ」
真理奈の近くに落ちていたカードを目にして誰かが呟いた。